エレベーターの狭い箱の中で、階数表示が順番に下っていくのを見上げる。
ちらと携帯画面に目を落とせば時刻は12時半。得意先とのアポイントは14時。これから軽く昼を食べて地下鉄に乗れば、ちょうど良い頃合いに着けるだろう。
今日はどこで昼食を摂ろうか。馴染みの定食屋か、それとも久しぶりに駅向こうのうどん屋にしようか。
そんな事を考えながら、1階に到着したエレベーターを降りた時だ。

「土方?」

すれ違いに乗ろうとした男が、不意に足を止めて土方の名を呼んだ。
驚いて振り返った土方は、男の顔を見て目を瞠る。

「……せん、せい?」
「うおっ、やっぱ土方じゃねーか!久しぶりだなオイ!え、お前ここで何してんの?」

フワフワと跳ねている銀色の天然パーマに、細いフレームの眼鏡。
服装こそ、以前の自分がよく見ていた白衣姿ではないけれど。その男は紛れもなく、高校時代の担任教師……坂田銀八で。

――ドクリ。急に騒ぎ出した心臓に、土方は一瞬、声も出せずに固まった。

「土方?」
「あ、お、お久しぶりです。あの俺、このビルの10階に務めてて」

重ねて声をかけられて、どうにか体裁を取り繕った言葉を返す。
10階、と言いながらつい上を指差してしまったのは少々幼い仕草だっただろうか。内心でそんな事を恥じていると、銀八は土方の指先を追って天井を見上げてみせた。

「マジでか。ここの10階ってアレだろ?大手の……オイオイ、さっすが3Zきっての優秀生徒だな」
「いえ、まだまだ半人前で、全然役に立ってねーっつーか……あ、先生!」

話し途中でエレベーターの扉が閉まって、ちょうど境目にいた銀八が挟まれかけるのへ土方は慌てて手を伸ばした。
ガコン。閉まる戸を手で押さえて止めれば、おお悪ぃなと苦笑しながら銀八はエレベーターホールへと滑り出る。

「あの、先生はどうしてここに?」
「あー、ここ、3階にテナントで耳鼻科入ってるだろ?ちょっと花粉がキツくてさ」
「え、花粉症だったんですか?」
「最近な」

鼻の下を軽く擦る銀八は、言われてみれば目も少し充血している。眼鏡の奥の瞳を見詰めて土方は奇妙な感慨深さを覚えた。
昔のこの人は、花粉に苦しんでいる様子など欠片もなかった。
――変わった、という事なのだろう。お互いに。
銀八にとっても、スーツに身を包んだ土方の姿は違和感があるものに違いない。
ああ、今日はどんな柄のネクタイをしてきたんだったか。無難に年相応に見えていればいいのだが。落ち着かない心持ちを持て余し始めた土方の前で、銀八はふと気付いた様子で腕時計に目を遣った。

「お、悪ィ、予約の時間過ぎちまうわ」
「ああ、はい。それじゃ……えーと、お疲れさまです」
「ぶはっ、社会人になったなぁお前」

噴き出した銀八の言葉に、そうか、以前は別れの挨拶と言えば「さようなら」だったな、と。そんな事にもまた、年月を感じた土方は。
お疲れさん。そう笑ってエレベーターのボタンを押して、すぐに開いた扉の向こうへ乗り込んでいく銀八を、それ以上何も言えずに見送った。

扉が閉まる直前、軽く手を上げてみせた銀八に、咄嗟に手を上げ返す事もできずに。
ただ、黙って見送って。

それからしばらくの間。
ぴたりと閉じたエレベーターを、無為に、見詰めた。


高校三年生の、二月の事だ。
土方は銀八に、チョコレートを渡した。
その日の日付は、十四日。
言わずもがなの、バレンタインチョコレートだった。

きっかけなんて覚えていない。だけど二年の夏頃から、土方はずっとその男性教諭に恋をしていた。
三年のクラス担任になって、銀八は土方をそこそこ気に入ってくれたのか、徐々に気安い空気で接してくれるようになって。それでも所詮、自分はただの生徒で何より男同士。銀八にとって『受け持ち生徒の一人』以上の存在にランクアップすることなんて、出来ない相談だと土方には充分わかっていた。

望みなんて無いと、分かっていたけれど。

冬休みも開けて一ヵ月が経って、二月。
あと一ヵ月で卒業だと思ったら、どうしても気持ちを抑えておくことができなくなった。
当たって砕けるつもりで、それでも面と向かって渡す事など到底できなくて、国語科準備室に置かれた銀八宛の義理チョコの山の中にこっそり紛れ込ませた。
義理とは誤解されようもない明らかな本命チョコにカードを添えて……名前も、きちんと書いて。

震える足で準備室を出て逃げ帰った、その翌日から。

――銀八の土方へ向ける態度は、あからさまに冷たくなった。

目を合わせてくれず、挨拶しても冷たい声音で素っ気なく返され。それまで築かれてきた気安い空気がまるで泡と消えたように。
ああ、やはり迷惑だったのだと。
振られることは分かっていたが、思った以上に気持ち悪がられてしまったのだ。当然だ、やっぱりやめておくべきだった、と、気付いた時には後の祭りで。
銀八からも自分からも、あのチョコについて触れる事は一度もなかったけれど。
その日から卒業まで、銀八が土方に向けて笑顔を見せてくれる事も。一度も、なかったのだ。

銀八のあの態度は、土方に下手な期待を持たせないための優しさだったのだろうという事は土方には分かっていた。
あの人は口は悪いけれど根は優しい男だ。たとえ迷惑であろうと、自分に好意を寄せる相手を感情のままに冷たく跳ねのけるなんて事はしないだろう。
きっと、中途半端な態度をとってしまったら土方が諦めきれなくなって余計に苦しむんじゃないかと。応える気もないのに優しくするのは返って残酷だと、そんな思いで突き放してくれたのだ。

……そんな風に、納得は、したのだけれど。

笑いかけてもらえなくなった、卒業までの一ヵ月。
これならばただの受け持ち生徒として接してもらった方がどれほどマシだったかと、一時の衝動に負けて告白などしてしまった事を死ぬほど後悔して。
卒業式の日に握手すらできなかった現実に、打ちのめされて。
級友たちからの打ち上げの誘いも断って、自宅で独り、馬鹿みたいに泣いたのだ。


卒業して、大学生活四年間。
社会人になって、三年目。
土方は今年で二十五歳になった。

(……先生、もう、時効ですか?)

あの日の俺の罪は。
エレベーターの扉を見詰めながら、土方は胸中で問う。

今日、ここで銀八と鉢合わせた事自体にも、土方は勿論驚いたのだが。
それよりも、もっと。
銀八の方から自分に話しかけてきた事に仰天したのだ。

実に六年ぶりの、笑顔だった。

あの時、考えなしに押し付けてしまった迷惑な想いを。忘れた事にしてくれたのだろうか。
これからもし、また街中でバッタリ会っても。今のように、笑って話しかけてくれるのだろうか。
何のわだかまりもない、元担任教師と卒業生として。

「――っ、先生……すみません」

ぽつり。
誰も聞く者の居ないエレベーターホールで、土方は震える声音で呟き落とした。

先生、先生、すみません。
話しかけてくれて、ありがとうございます。
六年ぶりに、笑って他愛もない話ができて嬉しいです。

本当に――本当に、嬉しいんです。

「ごめ……っなさ、い……せんせ……っ」

せっかく、忘れた事にしてくれたのに。
自分だって、忘れたつもりでいたのに。


先生。あなたが笑いかけてくれたことが、嬉しくて泣きたくて身動きがとれなくなるくらい。


――俺はまだ、あなたの事が好きなようです。


時効と判じてくれた彼の思いが、嬉しくて、それ以上に申し訳なくて。
土方は独り、立ち尽くして俯いた。


今日の昼食は、もう、摂れそうにない。



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ハッピーエンドまでは随分と時間のかかりそうな八←土。