高校三年生、土方十四郎の朝は早い。

…と、言っても。受験生だから毎朝早く起きて勉強しているとか、部活動に熱心で毎日早朝練習に行っているとかいうわけではない。
いや、剣道部の副部長を務める土方は部活熱心ではあるし、できることなら早朝練習にも参加したいと思っているのだが。
或る事情でそれが叶わないのだ。




ガラス越しの視線




「おふくろ、ロール上がった」
「並べといて〜っ!それから表の準備もお願い!」

カタリ、とケーキ用の細長い波刃ナイフを置いて顔を上げれば、ちょうど目の前を横切った母親が忙しげな返事を寄越した。
さらにその奥では、父親が黙々とオーブンから食パンの焼型を取り出している。

土方の家はパン屋兼ケーキ屋である。

家族経営の小さな店。従業員は夫婦と、昼前にやってくる販売員のバイトが一人だけ。
しかし近所の評判は上々で客足は絶えず、両親は毎日開店前から閉店後まで多忙を極めていた。
そんなわけで、一人息子である十四郎も手伝いに駆り出されているのである。
「登校前になら店を手伝うから、夕方は部活に行かせてくれ」というのが高校の剣道部に入部した際の土方の要望で、それ以来三年間、彼は毎朝の開店準備を手伝っていた。

――最近は、殊に忙しい。

4cm幅に切り分けたロールケーキをトレイに並べ、更に別のトレイに、端を切り落としただけの丸ごとのロールを数本。
それらを両手に持って、土方は店内へ足を向けた。




ロールケーキをショーケースに収めて、土方はグルリと店内を見渡した。
掃除は朝、厨房に入る前に済ませてある。レジの釣り銭も確認済みだ。
表の準備はほぼ終わっている。あとは厨房から焼き上がったパンを運んでくればいい…の、だが。

土方はすぐには厨房に戻ろうとはせず、チラリ、壁の時計に目を走らせた。

(……そろそろ)

針の位置を確認して、心の中に呟く。
それは、そろそろ己が学校に向かわなければならない時間…というわけでは、無く。


ブロロ…ロロ…ロ…


胸中の独り言にちょうど重なるように聞こえてきた音に、土方はグッと眉を寄せた。

時計から目を離して、その目をガラス張りの壁越しに店の外へ向ける。
そこには、一台の原付が今にも停まりそうなスピードで、ギリギリ一杯まで歩道に寄って走っていた。
それを運転する男が見ているのは、ガラス越し、この店の中。
土方……が立っている、その前のショーケースの中の、ロールケーキ。

土方は深く深く溜息を吐いた。


この店のロールケーキは、実はちょっとした名物である。
もともと近所では評判の品だったのだが、ある日ローカルなTV番組で紹介されて、それから爆発的な人気が出てしまった。
曰く、生地がフワフワで口の中で蕩けるようだ。
曰く、クリームが濃厚なのにしつこくなくて、いくらでも食べられる。
誇らしくはあるが少し大げさではないか、と思わされるような謳い文句が付いてしまって、遠方から買いに来るような客まで出来てしまった。
最近、以前にも増して店が忙しいのはそのためだ。

…そして。

ここ数ヶ月、ずっと。毎朝同じ時間に、できたてのロールケーキを食い入るように眺めていく人間がいる。
原付の、あの男。

先程土方に溜息を吐かせた原因である。


(……別に、見るな、とは言わねェよ)

土方は不機嫌な顔のまま、徐行というのもおこがましいようなノロさで店の前を通り過ぎる原付を睨み付けた。
このロールケーキは、おかげさまで開店と同時に飛ぶように売れてしまって、昼過ぎには完売、というのが当たり前になっていた。
故に、朝から昼の時間帯に仕事があるような人間には手に入りにくい品なのだ。
予約も一応受け付けているが、何しろ小さな店で、全ての注文に応えられるわけではない。
だから。

食べてみたいのに手に入らない品が開店前の店に並んでいるのを、出勤しながら羨望の眼差しで眺める。それは判る。
いい歳した男が毎朝じっくり、というのがちょっと呆れるところだが、それはまぁ、いい。店の人間としては嬉しくないこともない。
だが。

その男が。

毎朝、ガラス越しでもはっきりと判るほどに目を光らせて…
射抜くように舐めるように、驚くほど真摯な眼差しで店の中を見詰めていく、その男が。


(………担任、なんだよなァ……)


土方はまた、深く溜息を吐いた。


土方十四郎のクラス担任、坂田銀八。
それが原付の男の正体であった。
ヘルメットを被っていてさえ隠し切れていない天然パーマが何よりの証拠…というか、別に変装しているわけでもなし、顔を見れば判る。
銀八が初めてこの店の前を徐行して通った時から。土方はそれが担任教師だと気付いていた。
そもそも、丸に銀、なんて奇妙なマークをでかでかと描いた原付に乗っている男など、銀八以外にあり得ない。

「…………」

銀八の過ぎ去ったガラスを睨みつけながら、土方は小さく舌打ちをした。
気に食わない。
…いや、銀八が甘味好きなのはもっとずっと前から知っていたし、それは多少度の過ぎたところはあるが、別に非難されるようなことでも無いのも判っている。
では、何が気に食わないのかと言えば。

教壇で見たことも無いような真摯な瞳を、こんなところでこんな物に対して見せていることであるとか。
その視線がまるで、自分の生徒で且つこの店の倅である土方に、ロールケーキの差し入れを強請っているように感じられることとか。
そのくせ、教室ではそのことに関して一向に何も言ってこないことであるとか。
それに何より。


「十四郎〜!シュー上がったから取りにきてくれる?」
「……ああ、今行く」

厨房から届いた声に、土方は短く返して足を向けた。
眉間には深く皺が入ったまま。


――何より気に食わないのは、毎朝この店の前を徐行していく存在をやけに気にかけている、自分自身だった。





キーンコーンカーンコーーン…

「よーし、じゃあ今日はここまでな。お前らテスト近いんだからキッチリ復習しとけよー。ったく、毎度毎度クラス担任の俺に恥かかせんじゃねーよ」
「…先生。今日の授業、織田作○助の『夫婦善哉』をやる予定のはずが、善哉とお汁粉の違いについての話で一時間潰れたんですけど。一体何を復習しろって言うんですか」

四時間目の終了を告げるチャイム。
気怠い様子を隠しもせずに言った国語教師に、今日も今日とて志村新八のツッコミが飛ぶ。
ほんとマメだよなアイツ、と半ば感心して土方は新八を眺めやった。
銀八の授業の適当さなど、もうクラスのほとんどの人間が気にすることすら諦めたというのに。

「あー…各自、あ、ここテストに出そうだな、と思ったところを読んどくように」
「授業する気ゼロかアンタァァァ!!僕らの成績が悪いのは半分以上はアンタのせいですよ!恥かかせるなも何も自業自得でしょうが!っつーかむしろきちんと恥じて下さい!」
「うるせーぞ新八ィ。教師が生徒を引っ張っていけるなんてせいぜい小学校までだよ。高校生にもなったら自分で自分を律していかなきゃ立派な大人にはなれねーんだよ。そんなんだからお前はいつまで立っても新八なんだ」
「授業は教師の最低限の義務でしょうがァァァ!っていうか今、さり気なく僕の存在を完全否定したんですけど!最低なんですけどこの教師!」
「どこの誰に否定されようと、己で己を信じてることこそが肝心なんだよ」
「何ちょっとイイコト言って誤魔化そうとしてんのォォ!?」

ガタリと立ち上がった新八に、銀八はうるさげに手を振って教室を出て行った。
他の生徒は既に席を立って昼休みに入ろうとしており、新八もそれ以上の追求は諦めて溜息を吐く。
土方は冷めた表情で机に頬杖を付いて、じっと銀八の背を見送っていた。


――あの目が光を帯びる瞬間を、知っている。

そんなことを考えて、キュッと眉を寄せる。


職務であるはずの授業には、全くやる気を見せないあの目が。
まるで獲物を狙う鷹のように鋭く。オモチャを眺める子供のように煌き。
届かぬ相手に恋焦がれるような切なさと、最愛の人を見詰めるかのような蕩けそうな甘さを含んで。

…そんな視線を、自分は知っている。

そんな目ができるなら、他のところへ使えよと苛立ちながら。
何故こんなにも苛立ちと焦燥を感じるのか判らぬまま。


やけに、あの眼差しが頭にチラついて。



「………チッ」
「トシー!一緒にメシ食おうぜ!今日は天気いいし、久々に屋上とかどうだ?」

舌打ちを一つしたところで、近藤の声に土方は顔を上げた。
弁当箱を掲げてニコニコと笑う親友の横では、あんな野郎わざわざ誘わんでもいいでしょう、などと可愛くない事を言っている悪友の沖田。
土方は普段、この二人とともに昼食をとっているのだ…が。

「…悪ィ近藤さん、先行っててくれ。俺ちょっと用事があるから」
「え?そうなのか?」

土方の言葉に近藤は目を瞠り、沖田は興味深そうに目を細めた。
深く突っ込まれたくなくて、土方はさっと席を立つ。
さり気なく、二人にあまり見えないように鞄から紙袋を掴み出して、早足で教室の出口へ向かった。

「用事済んだらすぐ屋上行くから!」
「あ、おう!わかった。待ってるぞ!」
「永遠に帰って来なくていいですぜ土方さん」

沖田の台詞には、戸口で振り向きざまに「死ね総悟」と返し。
「お前が死ね」という言葉を背中で聞きつつ、土方は教室を出て歩き出した。





数分後。
土方は紙袋片手に、国語科準備室の前に立っていた。
国語科に準備室なんか必要なのか、とは毎回思うことだが、それは現在の国語科担任の存在によって植えつけられた偏見かもしれない。
眉を顰めつつ、土方は戸口に手をかけた。

「失礼します」

そう言いつつ、欠片も失礼とは思っていない手付きで乱暴に戸を開ける。
これで意図した相手と違う国語教師がいたら気まずい思いをすることになっただろうが、幸いなことに、中では坂田銀八が一人で椅子に凭れていた。

「…へ?なに?」

昼食のパンを齧っていた銀八は、驚いたように土方を振り返った。
昼休みに来訪者、など。とんと迎えない部屋だ。ここは半ば銀八の巣と化しているし、銀八に質問に来ようなどという生徒はこの学校には皆無である。
相変わらずの気怠い目で、それでもパチクリと瞬いた銀八に、土方は大股で歩み寄った。

トス。

無言で、銀八の目の前の机に紙袋を置く。

「は?…って、え、ちょ、コレ…」

首を傾げた銀八は、次の瞬間には目を瞠って紙袋を引き寄せた。
…紙袋に印刷された店名が、どこのものだか気付いたらしい。 そして、中身を覗き込んだ途端、銀八の目が更に見開かれる。

「言っときますけど、切れ端ですからね」

土方は素っ気無く言い放った。

「毎朝毎朝、小汚い原チャに店の前に張り付かれたら迷惑なんです。端っこの切り落としあげますから、これ以上営業妨害しないで下さい」

何故こんなモノを持ってきてしまったのか。
まるで毎朝の無言の強要に屈したようで、やけに悔しくて土方は不機嫌な顔を作る。
ただ、あの眼差しが頭にチラつくのが気に食わなくて。一回食わせてやれば、毎朝徐行で見詰めていくのをやめるかと。
そう思っただけ。
そう。そう思っただけのはずなのだけれど。

喜ぶだろう、と思いながら、喜ばれても癪だと思い。
でも喜ばれなくてもムカつくな、なんて矛盾したことを考えて、土方はわざと冷たい目で銀八を見た。

紙袋の中身に目を丸くしていた銀八が、無言のまま土方に顔を向ける。
その眉が少し訝しげに寄せられているのを見て、教師に対して流石にちょっと言い過ぎたか、と土方が思った時。


「…なにお前、あの店でバイトとかしてんの?」


その言葉に。


ピキリ。
土方は固まった。




…授業の時もHRの時も常に怠そうなあの瞳に宿る、滅多に見せない煌き。
射抜いて逸らさない真っ直ぐな視線。まるで恋焦がれるような眼差し。
それが。
自分の手元に向けられているのだということは、知っていた。
自分が持っているトレイ。その上に鎮座するロールケーキにのみ注がれて、自分自身に向けられているわけではないことは。嫌というほど知っていたのだ。

けれど。


(毎朝あんだけ見といて、それを運んでる人間が俺だってことにすら気付いてなかったのかよ…っ)

一瞬流れを止めたかと思われた血液が、沸騰したかのようになって頭へ逆流してくる。
クラリ。怒りに眩暈すら感じて、土方は拳を握り締めた。

そりゃ、店にいる時の土方は髪が落ちないように帽子を被っていたりするから、パッと見の風貌は違うかもしれないが。それにしたって、と思う。
土方は銀八の担任クラスの生徒なのだ。
毎日学校で顔を見ているし、会話を交わしたことだって何度もある。
そういう相手なのだから。ロールケーキからフと顔を上げた時に、「あれ、何かアイツ見たことあるな」ぐらい思っても良さそうなものなのに。

ふるり、握った拳が震える。


そうだ。この怒りは正当なものだ。
受け持ちの生徒の顔に気付かなかった担任への怒り。

…他意なんか、無い。


「…あそこは俺の家です」
「へ?あ、そうなの?」

怒りを抑えた低い声には、思いっ切り初耳です、という声音が返ってきて。土方は益々額に青筋を立てる。

(…ざっけんなよ…っ)

最早自分が何に対して腹を立てているのか。それさえも曖昧になってきて、ギリリと歯を食いしばった時。
ポリポリ、と頬を掻きつつ、銀八が放った台詞、に。


「あー、ありがとな。えーと…多串君」
「誰だそれァァァ!アンタ、未だに自分のクラスの生徒の名前すら覚えてねェのか!」


ついにぶち切れて、土方は怒鳴り声を上げた。


(何だコイツ何だこの教師何だこの担任…ッ!)

ぐるぐるぐる、沸騰する頭を回るのは目の前の教師に対する罵倒の台詞。
―ムカつく。
今までも腹の立つ教師だと思っていたが、その比ではないくらいムカつく。
何がムカつくのかはもう判らないが。とにかく。


ロールケーキを運ぶ自分に欠片も気付いていなかったこと。
受け持ち生徒である自分の名前すら認識していないこと。
…そんな相手の眼差しに、数ヶ月も気を取られていた自分。
何もかも、腹に据えかねて。


土方は勢いよく踵を返すと、響く足音を殺しもせずに戸口に歩み寄り。
ガララッ、来た時の数倍は乱暴に引き戸を開けて、凶暴な瞳で振り返って。



「3年Z組、出席番号14番!風紀委員会副委員長、土方十四郎!」



覚えとけや腐れ担任!
そう怒鳴って、ガラッピシャァァン!まるで雷のように音高く戸口を閉めた。

その土方を。
銀八は呆然と見送った。





「…いや、いやいやいや」

しばらく唖然として戸口を見詰めていた銀八は、遠ざかる乱暴な足音を聞きながら、ポツリと呟いた。

「……知ってるっつーの」

別の名前で呼んだのなんて、ほんの冗談だ。
確かに銀八は人の名前を覚えるのは得意ではないが、自分のクラスの生徒の名前ぐらい流石に覚えている。
毎日出席をとっているのだ。土方、という響きは既に舌に馴染んでいた。

…しかしまさか、あんなに怒るとは。

パチパチパチ、ゆっくりと三度瞬いて、銀八は土方の出て行った戸口を眺める。

クラスでの土方の印象は、生意気でいけ好かないガキ、だった。
いつも銀八のやる気の無い授業を蔑むような目で見ているし、受け応えも一応敬語だが、どこかふてぶてしい。
だから今回も、「アンタその歳でもう記憶力が低下してるんですか。頭の中にまでパーマかかってんじゃないですか」とか何とか。軽蔑の眼差しでムカつくことを言ってくるんじゃないかと思っていたのだが。
そうしたら軽い口喧嘩に持ち込んで、年の功の口八丁で完全勝利して悔しがらせてやろっかな、なんて、教師のくせに大人気ないことを考えていたりしたのだが。

冷めた軽蔑の視線どころか、意外にも烈火のごとく怒って。


そしてまさかの自己紹介。


「…ぶっ、く、くっくく…」

ついに堪えきれなくなって銀八は吹き出した。


変に大人びてて生意気で気に食わねーガキだと思っていたが。
なかなかどうして、可愛いところもあるではないか。


「土方、十四郎…ね。おもしれーじゃん、アイツ」

頭の中の「揶揄うと面白い生徒リスト」に加えておこう、と、また教師にあるまじきことを考えて。
さて、明日の出席ではどんな名前で呼んでやろうかな、なんて。



あんなに食べたかったロールケーキが手元にあることもすっかり忘れて。
銀八はニヤリと笑みを浮かべながら、明日からの新しい楽しみに思いを馳せた。





--------完

どうやらウチの3Zは、無自覚片恋土方君と、それを揶揄って楽しむSっ気先生ということになるらしい。
アレ?先生ひどいなソレ(笑)