六.一訓(池田屋直後)
爆風によって乱されたビル風が着流しを靡かせ、バサバサと音を立てて通り過ぎた。
池田屋向かいのデパートがキャンペーンのために吊り下げていた大きな垂れ幕もゆらりと揺れて、坂田銀時は首をすくめる。
垂れ幕に回した両腕両足にしかと力を込めなおし、布地の強度を確かめるように掌の中に握りこんだ。
「はー…」
あぶなかったなオイ。あぶなかったよ。
ちらりと上空を見上げれば、まだ爆発の余韻がただよう、ような気がする空。
銀時が爆弾を放り投げるのが後一秒遅ければ、今頃彼はこの世にいない。
まさに決死の爆弾処理だった。
(いやホント決死だよ。死が決したと書いて決死だったよ。だってさ…)
銀時は今度は下方を見て、ぞっと背筋を寒くした。
さすがにビルの五階の高さにいるだけあって、地面が遠い。この高さから落下したら、確実にお陀仏だろう。
(俺が咄嗟の機転で垂れ幕にしがみついたから助かったようなものの?神楽あのガキ、無茶苦茶しやがって。雇い主を窓の外にかっ飛ばすなんざ
いい度胸だよホント。銀さんが死んだらどーすんだ!この漫画終わるぞ!?)
しかも何だか、さっき頭上から「銀ちゃんさよーならー」とかいう声が聞こえてきたような気がする。冗談ではない。あいつは今月の給料
抜きだ。
給料など払ったためしがないくせに、銀時はそう決意した。
「さて…っと…」
ふーっと一つ息を吐き、とりあえずこの危険な場所から移ろうと、銀時は片足を伸ばし、目の前のガラスをバシンと蹴りつけた。
「…アレ?」
もう一度、バシンと蹴りつけた。
「……アレ?」
二度の蹴りをマトモにくらって尚、それはそこに傲然と立ちはだかっていた。
何その無駄な存在感。いらないから。いやマジで、お前にそんなもん必要ないからホント!
「何だよコレ強化ガラスか!?庶民向けデパートの分際で、金持ちの車の窓ガラス気取りですかコノヤロー!」
ったくよーもー、ブツクサ言いながら銀時は右手で腰の木刀を抜き放つと、ガラスを叩き割ろうと振りかぶった。
ビョオォォッ!
折りしも、ビルの表面を撫でるように吹いた強風が垂れ幕を揺らし、片手でしか己の体を支えられなかった銀時は、ズズズッと、それはもう
勢いよく滑り落ちた。
「うっひゃおひぃい!?」
目の前の窓が五階から四階のものに移動したところで、ようやく止まる。
木刀を持ったままの右手を必死に垂れ幕に巻きつけ、銀時は背中に滝のような汗を流して固まっていた。
(あ…あぶねェェェ!)
もう少しで来週の銀魂が「主人公死亡のため休載」になるところだったってかそれって打ち切りじゃん!?まだ六話なのに!コミックス一巻分にも満たないのに!
軽い恐慌状態に陥って作中人物が気にしなくてもいいことにまでつい考えを巡らせてから、銀時はサァッと本格的に蒼ざめた。
この状況では、下手に身動きがとれない。
ガラスを割ろうと手足を垂れ幕から放せば、今のように滑って落下する恐れがある。
かと言ってこのままじっとしていても、体力・握力が徐々に削られ、結果的には同じように落下することになるだろう。
「墜落死」という事態が具体的な形を伴って銀時に迫っており、彼個人の力ではそれを退けることはできそうになかった。
救出を待つしかない。
幸いここは窓からデパートの客に丸見えだ。すぐに助けが来るだろう。
ふー、と本日何度目かわからない深い息を吐き、銀時はビル内の様子を窺った。
…おい、なに遠巻きに見てんだ。さっさと助けに来いよコノヤロー。
こちらに注目しながらも指差してざわめくだけの客達に焦れて、バンッと軽く窓ガラスに足を当てる。
するといっそう群集は遠ざかった。
「あっコラ!何で後ずさんだ!ん?携帯電話?110番する気か?間に合うかってんだよてめぇらが助けに来いやァァァ!店長ォォ!せめて
店長を呼べェェェ!!」
必死に叫べども一向に助けにこようとするものは現れず、銀時は次第に焦り始めた。
(い…いやまァ、まァまァ。落ち着け俺。向かいのホテルには俺が落ちたこと知ってるヤツらがいるし?アイツらがすぐ助けにくんだろ、うん。)
自分の店の従業員である、メガネの少年とチャイナ服の少女の顔を、銀時は思い浮かべた。
続けて、自分達をこんな事態に巻き込んだ旧友の顔も。
(新八、神楽、ヅラ…)
……………
あれ?イマイチ不安じゃね?
銀時は軽い頭痛を覚えた。
桂は基本的にマイペース人間だ。こちらの都合など考えてはくれない。だからこそ、今現在こんな状況になっちまってるわけだし。
一方の新八と神楽だが、彼らはどういうわけか自分を慕ってくれているし、危難を見れば助けようとしてくれるはずである。それはわかっている。
充分わかっているし、信頼もしている。
だが彼らの場合、垂れ幕にぶら下って無事でいる自分の姿を視認した時点で、安心して気を抜いてしまいそうなのだ。そんな感じがひしひしとする。
ヤツらはどうも、「銀さん」の能力を過大評価している節がある。普段はダメ人間扱いするクセにこんな時だけ!
(あのなお前ら、確かに銀さんはみんなのヒーローだけど、人間なんだよ普通の人間なんだよ、空飛べたり手から波動出たりしないんだよ!)
だから助けろって、つーかお願い助けてェェェ!
銀時は祈りを込めて上後方を振り仰いだ。
と。
ヘリが一機、ホテルの屋上から飛び立つのが見えた。
銀時の位置からでは、ヘリの中までが見える距離ではなかった。しかし。
銀時の眼と直感は、そのヘリの中に逃走する桂小太郎がいることを確信し。
彼が自分を助けになど来ないことも、そして今自分の姿を見て笑っているのであろうことも、何故かはっきりと知覚していた。
「ヅラァァァ!コノヤロォォォ!!」
あの野郎許さねェ。一生許さねェぞヅラァ!
遠ざかっていくヘリに内心で中指を立てながら、銀時は青筋を浮かび上がらせて呪いの言葉を呟いた。
なァにが国を救うだ共に戦おうだ。友達一人救えねェやつに国が救えるかってんだ、いやあんなやつ友達じゃねェよ!とりあえず次会ったら
パフェ食い放題だ。思う存分おごらせてやるからなコノヤロー!
(あ、でも、俺に「次」とかあるのかな)
…………
ヒョオォォッ
ふと不吉なことを思ってしまった銀時の背中を、冷たい風が通り過ぎた。
「し、新八神楽、新八新八新八ィィィ!!さっさと気付け、早く助けに来いィィ!銀さん最大のピンチだから今コレェェェ!!」
池田屋上階で自分を案じているだろう16歳の少年に全ての望みを賭して、銀時はあらん限りの声で叫んだ。
ツッコミ役のお前の良心と常識に賭ける!ここで助けに来なかったらお前アレだ、アレだぞひどいぞ!
ギャアギャアと思いつく限りのことを叫びながら必死の眼差しで上を見るが、何故かメガネの少年は一向に顔を出さない。
「何してんだコラ、このダメガネ!普段気配りキャラみたいな顔しといてこういう肝心な時に周りが見えないのかお前はァ!だからお前は
いつまでたっても新八なんだ!ホントヤバイんだって銀さんコレ!ほら掌汗ばんできちまったし!」
(……ん?汗ばんで…?)
自分の言葉を反芻して、銀時は改めて、自分の掌がじっとりと汗をかいていることに気が付いた。
じっとりと、濡れて。
それは、つまり。
滑りやすい。
ズルリ。
自覚した途端、待っていたかのようなタイミングで、濡れた手は幕を滑り落ちた。
「ひ…っ」
ズズズズッ!
慌てて指に力を込めるが、滑り落ちる勢いは止まらない。銀時は蒼ざめ、右手の木刀を必死に幕に突き立てた。
愛用の木刀はあっさりと幕を貫き通し、落下の勢いを止めた。
…かのように思えて、銀時が息を吐いた瞬間、
ビリリッ
当然と言えば当然のように、木刀は幕をそのまま下に引き裂き、銀時の体は再び落下を始めた。
「ギィヤアァァァ!!気を!気をコントロール!いや足元に霊子を固めてってそんな時間ねェよ!」
そもそもそんな能力ないしね!
「チクショォォォ!ヅラァァてめェ恨むからな!絶対化けて出てやるからな!新八、神楽、みんな、さよーならァァァァ!」
バァァン!!
最早成すすべもなく、そろそろ目を閉じようか、と銀時が思いかけた時、
黒い塊が目の前の窓ガラスをぶち破った。
(あ。)
既視感。
そう思わせたのは、右足を窓枠にかけ、右手の日本刀を一直線に前へと繰り出した、その鋭い刺突と、
瞳孔を目一杯開いて見下ろしてくる、物騒な瞳だった。
ガッ
右手首に衝撃を感じるとともに、重力に引かれるままだった体が地面への接近をやめた。
「ったく、ズルズルズルズル落ちやがって。一回昇ったとこ駆け降りるハメになったじゃねェ、かっ」
不機嫌そうな声が聞こえたかと思うと、ぐんっと景色が回り、視界から空も地面も消えて、銀時はうつぶせに硬いものの上に落とされた。
「いてェェェ…何す…」
鼻柱を打った痛みに反射的に抗議しようとして、口を噤む。
気付けば、自分がいるのは不安定な垂れ幕の側ではなく、平らで硬い床の上である。
何をする、もなにも、自分は助けられたのだ。背後に佇むこの男に。
ずいぶん乱暴なやり方ではあったし、理不尽な文句を投げかけられたような気もするが、とりあえず墜落死から免れさせてくれたのは、
この黒ずくめの男だった。
黒ずくめの制服。日本人にはまだ珍しい全身洋装。
桂の話では、確か、対テロ特殊武装警察、ということだったか。
(なるほどね。瞳孔全開だろうが警察は警察か。一般市民を守るのが務めだもんなァ)
一般市民と呼ぶには程遠い存在のクセに自覚の乏しい銀時は、背後の人物に対してかなり失礼なことを考えた。
(ま、一応危ないところを助けてもらったって形になっちまったわけだし?さっき話も聞かずに斬りかかってきたことは特別に水に流して
やってもいいかな。うん。本来なら慰謝料を請求するところだが出血大サービスだコノヤロー)
自分の心の広さに関心しながら、銀時は恩着せがましく礼を述べるという矛盾に満ちた行為をするため、振り返って口を開こうとした。
しかし銀時の台詞は、背後の人物の素早い行動によって遮られた。
即ち、銀時をうつぶせに押さえ込んで膝で床に押し付け、両腕を後ろ手にひとまとめに固定したのである。
「へ?」
何コレ。
銀時の内なる疑問に答えるように、後ろから低く冷静な声が聞こえた。
「確保」
(確保…?)
それって。と、銀時が言葉の意味を咀嚼している間に、バタバタと複数の足音と声が入り乱れた。
「副長!…すいません!桂を取り逃がしました!」
「チッ!また逃がしたか。桂め!」
「申し訳ありません。我々が屋上に到着したときには既に…」
「仕方ねェ。俺の指示が遅かった。…こっちの銀髪は確保した。ガキ二人はどうした」
「確保しました!少女の方に手こずりましたが、沖田隊長が何とか抑えています」
「総悟が?小僧じゃなくて、娘の方を抑えてんのか?」
「はあ、あの娘、見かけによらず恐ろしい強さでして」
(神楽…新八も、こいつらに捕まってんのか)
どこかぼんやりと、銀時は彼らの会話を理解した。
つーかコレって、やっぱアレだよな。
確保って、捕まってんだよな。
…うん、そうだよな。間違いねェ。捕まってるよ。
自らに確認するかのように、ことさらゆっくりと思考を巡らせる。
つまり、この警官は一般市民の保護とかではなくて、
逮捕するために、俺を窓から中に引っ張り込んだ、と。
……………。
「ふざけんなァァァ!」
理解した途端、銀時は元来あまり丈夫でない堪忍袋の尾をものの見事にぶち切って、俄かに暴れだした。
「俺は不幸にも巻き込まれただけの善良な一般市民だ!放せコラァ!不当逮捕で訴えんぞコノヤロー!!」
(……なにが一般市民だ)
真選組副長土方十四郎は、下で暴れる銀髪の男を冷ややかに見下ろした。
(一般市民はあんなことしねェよ)
自らの身を窓の外に投げ出し、空高く時限爆弾を放り投げる、など。
あんな、幾重にも命懸けな無謀な行動。
物騒な世界に身を置く自分たち真選組の中にも、あんな無茶ができるやつはそういない。
まして「善良な一般市民」など言わずもがな、だ。
(…だが)
土方はスゥッと目を細めた。
だが、攘夷志士らしい行動かと言えば、それも違う。
その事実が、土方の眉をぐっとひそめさせた。
桂ならば。攘夷に燃え、大使館に爆弾を放り込む桂ならば、あの爆弾を俺たちに投げつけて逃走しただろう。攘夷志士にとって真選組は
憎むべき対象だ。そのくらいやってのけても不思議は無い。そもそもあの爆弾は、そういう目的で用意されていたのではなかったのか。
よしんばアレがただの誤作動で、彼らに俺たちを殺すつもりがなかったとしても…その場合は爆弾をその場に放置するかどこか別の場所に放り投げて、全速力でそこから
離れればいいだけの話だ。それが、今にも爆発しそうな爆弾を前にしたときの当然の反応だろう。
しかし。
この男は、爆弾から手を離さなかった。
ギリギリまで、それこそ爆発する一秒前まで、自分を最も危険な位置に置いていた。
爆弾を放置して逃げるなど、思いもしないとでも言うように。まるでそれが当然かのように。
何なんだ。コイツは一体。
土方は未だに下で文句を並べ立てる銀髪の侍に視線を突き立てた。
この男の行動はテロリストのものではない。
むしろこの男の行動によって、あの場にいた全員、そして上下の階の宿泊客が助けられたのだ。
真選組副長の自分が、隊士を爆弾から遠ざけることしかできなかったというのに。
ギリ、と歯を食いしばると、拘束した人物を勢いよく引き起こす。
あの時自分は、ヘリの音に我に返るまで、爆発の起こった空を呆然と眺めていた。
何も救えず。桂も逃がし。
一体何をしていたのか、自分で自分が腹立たしい。
自然と険しくなる顔で、起こした侍を睨み付けた。
「オイ何ですかコノヤロー。お前人の話聞いてた?俺は巻き込まれた善良な市民なんだって。一市民なのに命懸けで爆弾処理してやったんだって。
逮捕どころか表彰状モンじゃね?金一封でるんじゃね?コレ」
あくまで「一市民」を主張する銀髪に、苛々と目を眇める。
「そういう話は署でするんだな」
自分で意図したよりも低い声が出て、目の前の男は頬を引き攣らせた。
「署って何!?聞いた事あるその台詞!刑事ドラマでよくある台詞!!ちょ、これマジ?マジで俺パクられんの?勘弁してよちょっとォ!」
「安心しろ。まだ逮捕じゃない。任意同行だ」
「任意じゃないよねコレ!思いっきり強制だよね!だって俺嫌がってんだもんよ!」
「手向かうなら公務執行妨害で逮捕だ」
「やっぱ強制じゃねェかァァァ!!」
「連れて行け」
喚く銀髪を部下に引き渡して、土方は目を逸らした。
苛々する。
往生際の悪い野郎は嫌いだ。
そもそも、自分を唖然とさせるようなことをしでかしておいて「一般市民」で通そうとする、その根性が許せない。
さっきはキラめいたはずの瞳が、死んだ魚のような目に戻っているのも頭にくる。
何より、つい先刻に驚くほどの輝きを見せた魂が、一瞬で鳴りをひそめたのが気にくわない。
つーか、この男の何もかもが腹に据えかねる!!
「ちょ、オイ、放せってコノヤロー!」
「さっさと連行しろ」
「はいっ」
「ちょっと待てェェェ!!」
遠ざかっていく叫び声を聞きながら、土方は煙草に火をつけた。
胸中にわだかまるものを洗い流そうと、深く吸い込んでゆっくりと吐き出す。
本来なら、自らあの男を問い詰めてやりたい。
だが、今の真選組にはそんな暇は無かった。
今日捕らえた連中の中から、攘夷志士としてリストアップされている者を洗い出し。
今後予定されていたテロ計画を吐かせ。
逃がした桂の足取りを追い。
…ポッと出の被疑者に関わっている場合ではないのだ。
ふー、と煙とともに溜息を一つ。
攘夷志士だという確証も無い者を副長自ら尋問するなど、時間の無駄以外の何物でもない。攘夷運動との関わりが或る程度はっきりするまでは、
警察所での取調べに任せよう。そもそも反乱分子でもない者を屯所で尋問すると、管轄がどうのと後々わずらわしいことになりかねない。
だが。
攘夷志士であろうがなかろうが、自らその正体を問い質したいと、土方の本能は叫んでいた。
見逃すべからざる光が、奴の中にはあった。
しかもその光を故意に隠している節があるところが、また油断ならない。
(署の連中にはなるべく詳しい報告書を送ろう。仕事が一段楽したら、俺も署に顔を出すか…)
土方は心の内に独りごつと、これから怒涛の如く押し寄せるだろう仕事を片付けるため、表のパトカーに足を向けた。
彼が人心地つくのは、それから三日を経過した後のことだった。
−−−六.一訓、完