土方十四郎には、風呂上りに体重計に乗るという習慣はない。
身体が資本の、それも責任ある職務に就いているのだから、自分の肉体管理も仕事の内と言いたいところなのだが。
ヘビースモーカーで好きな食べ物はマヨネーズです。という時点で、土方は己の身体の管理というものを放棄していた。
それでも、身体の表面部分…即ち内臓がどうのではなく、筋肉の付き方とかそういうこと…には一応気を付けているのだが、毎日激務で 走り回っている上に休日には竹刀を振るっていたりする土方には、さしあたって肥満の心配は無かった。
なので、風呂上りに鏡で裸身をチェックする、なんてことも、まずやらない。
そもそも真選組屯所の浴場には、全身鏡など置いていなかった。

だから。

それを見付けたのは全くの偶然だったのだ。



「………あ?」

出張先のビジネスホテル。
狭いユニットバスの洗面台の前で、土方は間の抜けた声を上げて固まった。
シャワーを浴びて、上の棚からタオルを取ろうと右手を上げたその姿勢のまま。

ポタポタと髪から滴が落ちる。
いくら夏で寒くはないとはいえ、ずっとこのままでいるのはマズイだろうと頭では思うのだが。
どうにも、体が動かなかった。
特に、目が。ある一点から離れない。

土方は最初、それが何なのか判らなかった。
右の二の腕の内側、かなり上。脇に程近く、ちょい後ろ。
裸かノースリーブで腕を高く上げたりしない限り、自分にも他人にも見えないようなその場所に。
ポツリ、と小さく、紅い跡。

「あー…虫刺され?」

誰が聞いているわけでも誰が見ているわけでもないのに、声に出して放たれたその台詞は、
誰が聞いてもあまりにもベタで、ベタでベタすぎる言い逃れだった。

(……だって、あり得ねェよ)

土方は両手を洗面台に付き、首を垂れた。
あり得ない。
そう言い続けなければ、自分はきっとダメになる。そんな気がした。

(だって、アレだ。コレがもし、あの所謂、キキキキスマークというヤツだとしたら、だ)

そんなものを自分に付ける人間に、というか、付けることが可能な人間に、土方は一人しか心当たりが無かった。

(万事…)

屋、という一文字を胸の中ですら飲み込んだのにも拘らず、土方の脳裏には瞬時に銀色の光が煌いて。
土方は思わず頭を洗面台に打ち付けた。



武装警察真選組の副長土方十四郎と、銀髪天然パーマこと万事屋の坂田銀時は、所謂体のお付き合いがある。
いや、体だけでなく心もちゃんと通い合わせている。はずだ。
つまりは世に言う恋人同士というヤツなのだが、いかんせん、お互い意地っ張りで見栄っ張りな上にシャイなのもだから、二人の間柄は どうにも甘いものにはなりがたかった。
顔を合わせれば何かとくだらない喧嘩ばかりして。
…実をいうと、土方は銀時とそういう喧嘩をするのが少し楽しかったりするのだが。

そう。
本当のところ、土方は確かに、それはもうはっきりと、銀時に惚れていた。
まことにもって不本意ながら、ベタ惚れだという自覚もある。
そんなこと本人には言ったことはないし、これからも言うつもりはないし、できれば自分でも認めたくないのだけれど。
…何故って、それは。

坂田銀時という男は不思議な人間で、なかなか他人に自分の心の深いところを見せようとはしない。
すぐ近くにいるはずなのに、手を伸ばすと空を掴まされる。そんな感じだ。
それは土方と二人きりでいる時も例外ではなくて。
銀時はいつも余裕綽々で、飄々としていて、土方をからかうような姿勢を崩さない。
少なくとも土方の目にはそう映っていた。
おちゃらけたかと思えば、偶に真剣な瞳を見せたりして土方を振り回し。
典型的な仕事人間の土方がなかなか逢瀬の時間を作れなくても、淋しがる様子もなく。独占欲の欠片も見せず。
自分ばかりが、銀時の一言一句、一挙手一投足を意識して。

…そんなのは、悔しいではないか。
こんなことが動かしがたい事実ならば、せめて銀時には知られたくない。
知られてなるものか。

だから土方は、銀時といる時はいつも必死なのだ。
フとした時の鼓動の高鳴りを悟られないように、ポーカーフェイスを装って。
些細な事に浮かれたり傷付いたりするなと、常に自分に言い聞かせて。
そうやって今まで過ごしてきたというのに。

「なんだよコレ…」

土方はもう一度右手を上げた。
普通に過ごしていれば、他人はもちろん土方自身も目にすることはない位置に付けられた…キス、マーク。
こんなところを見られるのは銀時だけ。
キスマークのことを虫除けだとか所有印だとかいうヤツがいるが、もし、コレが。

左手でそっと紅い跡に触れる。
もしコレが、銀時が周りの連中にも土方本人にも知られたくない、独占欲の証だとしたら。
俺のものだという印を、密かにこんなトコロに付けていたのだとしたら。

「――…っ!」

土方は蛇口をひねって勢いよく水を出すと、乱暴に顔を洗った。
目を上げると鏡の中に自分の顔が映っていて、それを見た途端に土方は鏡に水をぶっかける。

(浮かれんな!)

自分自身を罵っておいて、土方は頭を抱えてしゃがみこんだ。
心臓が耳元で鳴っているような気がして、ぐっと目を瞑る。

いつからだ。
いつからこんな印を付けられていたのだろう。
コレが初めてだろうか。それとも、まさか、体を合わせる度に?
そんな、バカな。
きっとアイツの単なる気紛れだ。浮かれるな。
いや、でも。

「………あのヤロウ…」

どれだけ人を振り回せば気が済むんだと、土方は呻く。

そして。


「クソ…ッ、いつまでもやられっ放しで堪るかってんだ…」


これは意趣返しをせねばなるまい、と。
洗面所に蹲ったまま、土方はそう決心した。




翌日。
一泊出張から帰ってきて非番をもらった土方は、ジーワジーワと蝉の鳴く中、万事屋の前に佇んでいた。
銀時には今日訪ねることは伝えてある。
だからおそらく、今ここには銀時が一人でいるはずだ。
土方はニヤリと口端を引き上げると、玄関の戸を開いた。

「万事屋、上がるぞ」

奥に声をかければ、おー、というやる気のない声とともに、居間に続く障子戸が開いた。

「………へ?」

そこから顔を出した銀時が、そのまま固まる。

「あァ?なんだその間抜けな面は」

土方は銀時が固まった理由を充分察していながら、わざと怪訝そうに問いかけた。

「え、いや、なに…って、土方…何そのカッコ」

銀時が呆気にとられるのも良く判る。土方の今日の格好は普段と随分異なっていた。
真選組の隊服でも、いつもの黒の着流しでもなく、私服の洋装。
それも、下は濃い色のジーンズ、上は黒のノースリーブという、およそ彼らしくもない服装である。
唯一、色味が全体的に黒っぽいところが彼らしいといえばらしいが。
それ以外は、普段の彼を知る人が見たら例外なく「どうした土方!?」と叫びたくなるような格好だ。
決して似合ってないわけではないし、カッコ悪いわけでもないのだが。

自分でも違和感があるのだ。傍から見て驚くのは当然だろう。
土方はそう思いつつも、不機嫌そうに眉を寄せてみせる。

「俺がオフにどんな格好してようと勝手だろうが」

靴を脱いで廊下に上がり、突っ立ったままの銀時を押しのけてズカズカと居間に踏み入れば、銀時は当惑したようにポリポリと頬を掻いた。

「いやまァ、それはそうなんだけどさ。何ですか急に。どういう心境の変化?」

ソファの近くまで歩み寄った土方は、銀時の声を背中で聞いて立ち止まった。

…よし、ここだ。

銀時と自分の位置関係を確認し、銀時の目線がこちらに向いていることを確かめてから。
土方は右手で額の髪を掻き上げつつ振り返った。

「暑いだろ、今日」

さも、この格好は暑いからです、他に何も特別な意図なんてありません。という顔をして振り向いた土方を見て、銀時は再度固まった。
しかも今度の固まり方は先程よりも激しい。ビシリ、という音が土方にまで聞こえたようだった。
その目線は、土方の髪を掻き上げた手…というより腕…の、付け根の辺り…に固定されている。
土方は作戦の成功を予感し、内心で自分に拍手を送った。

「ひ、土方?」
「あァ?」

吃る銀時に、土方は噴き出しそうになるのを堪えて低い声で問い返す。
銀時は明らかに、常にないほど動揺していた。

「おおお前、ままさかここまでそのカッコで歩いてきたのか?」
「…だったらどうした」

嘘である。
最初はそのつもりだったのだが、どうにもいたたまれず、上に白の半袖シャツを羽織ってきたのだ。
それは先程玄関前で脱いで、左腕にかけている。
どうやら銀時の目には、そのシャツは映っていないようだが。

銀時は二度三度と口を開閉させた後に、わななく指を土方に突きつけて叫んだ。

「おおおおかしい!絶っ対におかしいィィィ!!だっておま、キャラじゃねーじゃん!そういうカッコするキャラじゃねーだろーが! お前そんな勝手にいきなりスタイル変えたら、読者に『え?コレ誰?』って言われんぞオイ!」
「知るかンなこと!」
「自分のキャラクターぐらい知っとけコノヤロォォォ!いいか?お前は夏だろーが何だろーが徹底した長袖派で、着流し着て戦う時ですら 襷もかけねェっつーキャラなんだよ!肌を晒すのは顔から胸元にかけてと手首足首から先だけっつー、やたらめったらガードが固いキャラ なんだよ!お前がそういうやつだからこそ俺は…!」

銀時はそこまで言って口を噤んだ。
土方は内心で笑みを深くする。
この反応を見る限りでは、あの跡は銀時の付けたものと断定して良さそうだ。
実は本当に虫刺されだったとかいうオチじゃなくてよかった。
土方は緩みそうになる頬を引き締めなおし、逆に不機嫌そうな表情を作った。

「んだテメェ、そんなに似合わねェってか?フン、悪かったな」
「違ェよ!似合わねェとかそういうんじゃなくてだな、だから…あーもう!」

銀時は下を向いてぐしゃぐしゃと頭を掻き回す。
土方はそれを見て、やっと口元を緩めた。

「いいだろ偶には。俺にもこういう気分になる時があんだよ」
「…どんな気分だよ…」

不機嫌さの消えた土方の声が近付いてくるのを感じて、銀時は呻くような声でボヤきつつ顔を上げた。
苦々しげに眉を寄せたその表情を見て、土方はフッと笑う。

さあ、仕上げだ。

土方は口元に笑みをはいたまま、スッと銀時の耳元に顔を寄せた。


「お前の所有印見せびらかして歩くのも悪くねェって気分にな」


刹那。
銀時の周囲だけ、時が止まったようだった。


ピタリと動きを止めた銀時が、やがて壊れたカラクリのようにゆっくりと土方に顔を向ける。
銀時の目が土方を捕らえるその瞬間を狙って、土方は肘を自分の額に沿わせるようにして右腕を上げ、
横目で銀時の瞳を見詰めながら、紅い跡の横に、そっと口付けた。

途端、銀時の顔が一気に紅く染まる。
お、珍しいもん見た、と、土方は楽しくなってククッと笑った。
その声で我に返ったのか、銀時は見開いていた目を土方を睨む形に変えて、あらん限りの声で怒鳴った。


「か…っ、確信犯かコノヤロォォォ!!」


怒鳴られても楽しい気分は消えなくて、むしろ、してやったという快感が増幅されるだけで、土方は機嫌よく笑って頷いた。

「おー、その通りだ」
「あっさり認めんなァァ!余計腹立つだろーが!いつからだ!てめっ、いつから気付いてたコンチクショオォォ!」

紅い顔のままガツガツとソファを蹴りつけ、なおも何やかやと言い募る銀時を見ながら、土方は得も言われぬ幸福感が身体を駆け上るのを 感じていた。

いつから気付いてた、と銀時は言った。
それはつまり、この印を付けたのはコレが初めてではないということなのか。
以前から何度も?…まさかと思うが、ひょっとして初めて体を合わせた時からずっと、この場所に印を付けられていたのだろうか。
……いや、いやいや。まさかとは思うのだ。思うのだが。
そう考えると嬉しいやら気恥ずかしいやら、作戦が成功した歓びも相俟って、土方はもう口元が緩むのを抑えることができなかった。
こんな緩みきった面を銀時に見られるわけにはいかないと、口を手で覆い、顔を背ける。
その様を、自分を笑っていると見たのだろう。銀時は悔しそうに顔を歪めると、土方に大股で一歩近付き、手を伸ばした。


「…っう、わ…!?」

殴られるか掴みかかられるか、そう思って身構えた土方の体を…銀時は思い切り、抱きこんだ。

「…って、え?ちょ、オイ、よろ…」
「土方お前なァ」

戸惑って腕から抜けようとする土方を、銀時の腕が逃すまいとでも言うように締め付ける。
土方の耳に銀時の怒ったような低い声が流れ込んできて、驚いて顔を向けると、至近距離で目が合った。
それは、いつもの死んだ魚のような目ではなくて。

「俺が必死に抑え込んでるっつーのに」

ヤバイと思うのに、目が離せない。

「こんなに煽ってくれやがって。俺もう知らねーからな。全部お前のせいだから」

離れようと思うのに、体が動かない。

「逃がさねーよ、土方」


気が付いたら。
土方の目を捕らえていたはずの瞳は、いつの間にか首元に沈んでいて。
鎖骨の付近に、チリ、と走った痛み。


「お前はもう俺のモンだからな」


自分では見えないが、確実に付けられただろう、跡。
こんなところ、いつもの着流しを着たら丸見えだというのに。



本来なら怒らなければいけないはずのこと。



こんなことを歓んでいるなんて自分も大概腐っているな、と、土方は思った。




―――完

いつか銀さんサイドも書きたい話。


恐れ多くもきいろいさくらんぼの黄純さまより、この話のイラストを頂きました!
すんばらしいので、是非ご覧になって下さいませ〜!