ベビー・シッター月ってのは、昼が無いのかね。 月面を旅するという突飛な状態にあって、俺はそんなことを思う。 ここから見上げる空は常に夜空だ。 ただ、頭上は夜なのに辺りが奇妙に明るかったり、打って変わって闇に包まれたりするから、どうやら一応昼夜の区別はあるらしい。 だが、薄藍から茜を経て紫紺へ、と見慣れた移ろいを辿らない空は、俺たちの感覚を狂わせるには充分だ。 地上を旅していた頃は、おてんとさまが中天に差しかかれば昼食、日が傾けば野営の準備、と、ごく自然に人間らしい生活を送っていたというのに。いつでも見上げれば星空、となっては、気付けば何時間もぶっ続けで行軍なんてこともしばしばで。 ましてや、このパーティーはくそ真面目で余裕の足りない連中が揃っているのだ。気が焦って疲れも忘れ、先へ先へと進もうとする。忘れてるだけで、疲れてないわけがねーのによ。まったく困ったもんだぜ。 そんな調子で歩を進め続けて、肝心な時にぶっ倒れたんじゃ元も子もねぇ。 てなわけで、俺様の提案で、月面の旅では或る程度きちんと時間を決めて休息をとることになった。 好都合なことにローザが懐中時計を持っていたおかげで、時刻の把握には苦労しない。 凝った細工のそれは、何かに夢中になると時間を忘れがちなローザのために(この姉ちゃんにありそうな話だ、と俺は納得した)彼女の母親が誕生日プレゼントにくれたものだそうだ。 繊細な長針と短針が揃って真上を指したら、ひとまず腰を下ろして昼食。 午後六時を過ぎたら野営できそうな場所を目で探すようにして、遅くとも八時には適当な場所に簡易コテージを建てる。 一刻を争う世界の危機?だから何だよ。腹が減っても寝不足でも戦はできねぇ。基本だろ? ま、その基本を頭からポロッと落っことしちまったようなヤツらが一緒だから、俺が苦労するんだけどな。 とにかく、世間さま一般で「夜」と呼ばれる時間には寝る。それが今の俺らのルールってわけだ。 当然モンスターどもは時刻なんて関係なくうろついてやがるから、見張りは立てざるを得ねーんだけど。それは、俺たち男の仕事。 女性陣には体力魔力と気力の回復、そして美容のために早めにお休みいただいて、男三人が交代で見張りってのが暗黙のルールになっている。 見張り役の順番は、セシル、カイン、俺、っつーので固定。これは何となく、とかじゃなく、しっかりキッチリ決定されたことだ。 提言したのはカイン。 この状況だと最初の見張りってのが体力的に一番キツイ。なにしろ一日歩いて戦って歩いて、その後だ。並みの人間ならコテージに腰を落ちつけた途端にバタンキュー。見張りどころじゃないっつー話だろ?だから、三人の中で最も体力があるセシルがつくことになっている。 正直、セシルの体力はバケモンだ。あの柔和な外見からは想像もつかねータフさ。カインも人並み外れた体力の持ち主だとは思うが、それでもセシルには敵わない。ひょっとしたら月の民の血ってのが関係してんのか?よくわからねーが、アイツにとっては一日行軍した後の見張りも苦にならねーらしい。だから、この順序に異論は無い。 次にカイン。見張りの二番手ってのは、寝たと思ったら起きて、また寝て起きてっつー、一番手とはまた別の意味でキッツイ役割だ。カインのヤツは、自分は細切れの睡眠に慣れているとか言ってそのポジションを買って出た。 竜騎士ってのは、飛竜の体調が悪い時に一晩中付き添ったりするんだと。飛竜はなかなか繊細な生き物で、たとえ目立って体調を崩していなくても、夜中に二時間おきに竜舎に様子を見に行くなんてのはよくある話らしい。っかー、よくやるねぇ。 最後に俺。理由は、まあアレだ。最初はあの野郎、「体力のない王子様には一番手も二番手も無理だろ」なんてムカつくことほざいて鼻で笑いやがったけどな。ふざけんなそんくらいの体力はあるぜと言い返したら、表情(つっても顔下半分しか見えねーけど)を改めて淡々と説明しやがった。 曰く、三番手の時間帯ってのは、早めに就寝した女性陣の眠りが浅くなってくる頃だ。眠ると言っても無意識に気を張っているに違いない状況、女性陣だけでなくセシルも、些細な物音や見張りの動く気配でも目を覚ましかねない。しかしそれでは充分に疲れがとれないだろう。 ならば、気配を消すのに長け、意識せずとも足音を殺せるエッジが適任だ…… ったく、な?もっともらしいこと言いやがるだろ? ――そう、もっとも“らしい”こと、だ。 ごろりとコテージの中で寝返りをうって俺は天井を見上げる。 隣で寝息をたてているのはセシル。 只今まさに外で見張り中の野郎を思い浮かべて、やれやれと溜息を吐いた。 はん、いっくら理路整然と並べたててもなぁ、このエッジ様の目は誤魔化せねーぜ。 あんなもん、ただのタテマエ、口実、以外の何物でもねぇよ。 確かに、カインの論理には筋が通っている。この見張り順に問題があるとは思えないし、実際スムーズにいってるさ。今更順番替えろとか言ってるわけじゃねー。 だけど、アイツが本当に考えてるのが、あんな理屈通りのことじゃないってのは断言できる。 その証拠に。 「起きろ王子様。交代だ」 外から帰って来たカインが、足音を立てぬように近寄って俺に潜めた声をかける。数分前から目が覚めていた俺は、おう、と小さく呟いて身を起こした。 隣のセシルを起こさないようにそっと表へ向かえば、カインはそのまま床に入ろうとはせず、毛布を一枚掴んで俺の後ろをついて来た。いつも通りに。 溜息を押し殺して、コテージ前の焚火の横にドカリと座る。 カインは黙ったまま、少し離れた場所で毛布をかぶって横になった。 ――これだ。 固い地面に寝っ転がった男をチラリと横目で見遣って、俺は苦々しく眉を寄せた。 要するに。 コイツは避けているのだ。 セシルと二人きりで、並んで眠る、という状況を。 バカバカしい。 俺はついに堪え切れず、呆れを込めた溜息を一つ。 セシルと二人で眠ることをセシルに気付かれずに避けるには、確かにこの見張り順しかない。朝起きたセシルが隣にいない男に気付いても、「お前より少し早く起きただけだ」と言えば済む話。 まったく、下手に頭の回るバカはこれだからタチが悪い。 これがもし、セシルの寝相やらイビキやらがひどい、という理由だったり。 せめて、お互い微妙な位置付けにいる“親友”と二人っきりになるのが単純に気まずい、とかだったら、まだいいんだが。 しばらくの沈黙の後に、静かな寝息を立て始めた男の背をジロリと睨む。 こんな屋根もねぇ固い地面の上の方が、簡易コテージの部屋ん中より楽に眠れるってのァどういう料簡だよ。もう呆れ返って言葉も出ねーぜ。 この男の考えていることなどお見通しだ。 月に着いてから、いや、着く前から、ずっと。 コイツはただただ、恐れている。 再び、闇の思念とやらに捕らわれてしまうことを。 どうせ、アレだ。セシルの隣で目蓋を下ろせば、次に目を開けた時にそこに在るのは血の海に横たわって動かない親友と、赤黒い雫が滴り落ちる自分の槍、みてーな。そんな光景を思い浮かべて怯えているんだろう。 もーーバカ。ほんっと、バカ。 コイツが馬鹿なのは知ってたが、ここまでたァ想像以上だぜバカインさんよ。 お前がセシルの寝首を掻く、なんて。 そんなことあるわけねーだろーが。 もし、もしだ。カインが眠っている間に再び術中に堕ちてしまったとして。 洗脳状態に陥ったカインの横で、セシルが暢気に眠っていたとしたら。 コイツなら即行で叩き起こして槍でも突きつけて、「さあ勝負だセシル剣をとれ。お前に勝ったらローザは俺のものだフハハハ」ぐらいは言い放ちそうなものだ。 本人が聞いたら頬を引き攣らせて否定するかもしれないが。 コイツの“心の闇”なんてのは、そういうガキじみた執着心とか自尊心とかライバル心とかが、変な抑圧の末に肥大しちまったもんに過ぎないと、俺は思う。 理性の一部を奪われた時に暴走しちまうコイツの感情は、セシルを叩きのめして敗北を認めさせて、できればその様をローザに見せて、それで初めて満足する類のものだ。 そんなオメーが、寝こけて無反応で無抵抗なセシルを、ズブリ?ねーよ。あり得ねーよ。 付き合いの短い俺にすらこんなに簡単に分かることを、なんでオメー自身が分からんのかね? 好きな子の見てる前でライバルに勝ちたい。 そんな誰でも抱くような他愛ない想いが、世界の危機に繋がる裏切りにまで発展しちまったのは、ひたすら運が悪かったというか間が悪かったというか……その一点に関しては俺は同情を禁じ得ない。 いや実際、気の毒なヤツだなーとは思ってんだよ。 だけど。 コイツを事実以上に不幸にしてんのは、他でもねーコイツ自身だ。 その確信があるから、俺はコイツをバカだと言って憚りねーわけだ。 そもそもな。この見張り順の意味、本当に気付かれてないとでも思ってんのか? 俺は萎みかけている焚火に薪をくべながら肩を竦める。 本気で誤魔化せてると思ってんなら、オメー、セシルをナメすぎだ。 アイツは確かに天然だけど、そこまでどーしよーもねぇ天然じゃねーよ。変なトコ抜けてたりズレてたりしても、察しは悪くねーんだっつーの。 月面に降り立ってから俺が何度、淋しげな面したセシルに『エッジ……カインはちゃんと眠れてるのかい?』とか聞かれたと思ってんだ! その度に、大丈夫だいじょーぶ気にすんなってとフォローしてやってる俺の身にもなれ! あのセシルの、何か言いたげなくせに何も聞かずに『そうか』と微笑む、哀しげな瞳を前にして嘘をつく罪悪感!オメーが一番よく知ってんじゃねーの!? ……そうだよ。嘘、だってのが問題なんだろーが。 チラリ、横たわるカインに再び目を遣って、俺は深々と溜息を吐いた。 「――ッ、ぅ、ぐ……!」 図ったようなタイミングでカインが身じろぐ。 あーあー始まりやがった。俺は焚火の中の薪を棒で突きながら目を据わらせた。 「っ、は……ッ、ァ、う……!」 今日もまた、派手に魘されてやがんな。 まあ、昨日よりはマシな気が……あー、うん、似たようなもんか。 「――っち、が……ッ!」 血が? いや、『違う』だな。アレは。 掠れたうわ言を聞くともなしに聞きながら、焚火が当分は消えそうにないのを確認して立ち上がる。 歩み寄って見下ろせば、毛布を指が白くなるほど握り締めて額に脂汗を浮かべている男。 長いストレートの金髪が乱れて、湿った額に首筋に、纏わりついている。 違う、やめろ、俺は、ふざけるな、二度と。 ――嫌、だ、ローザ、セシル……! コイツの寝言は、毎日大体こんな感じ。 いいかげん飽きねーのかね、と思うほど同じ事を繰り返してんだが、ゼムスの思念とやらの影響なのか、飽きるどころか日増しにひどくなっているようにも見える。 月に降り立ってからというもの、毎晩毎晩、独りで闘って。 そんな状態で周りを誤魔化しきれると思ってんだから、アホだ。 目の下の隈はバイザーで覆えても、微妙にやつれた顎のラインや掠れ気味の声は隠せない。そりゃセシルもあんな哀しげで淋しげで心配げな面するってもんだ。 女性陣だけは不安にさせまいっつーオメーの最大限の努力は評価してやるよ。ローザやリディアは多少は気にしてるようだが、まだそこまで深刻な状態だとは思ってねーみてーだ。 だがその代わり。 自分が魘されてんのは分かってるだろうに、いつも隠れもせず俺の近くに転がってんのは、わざとか? おかげで俺、毎晩オメーのうわ言聞かされるハメになってんだけど。 俺ならいいか、とでも思ってんのかよ? ――そう思えてるなら、いいんだけどよ。 どかり、傍らに座りこんで、固く目を閉ざした面に遠慮なく手を伸ばす。 肌に張り付いた髪をはがしてやって、ついでに軽くその金髪を撫でる。 汗に濡れた髪を、二度、三度と梳いてやれば。 絶えず漏れ聞こえていた呻きが徐々にやんで、苦しげだった呼吸も、ほんの少し、軽くなったように見えた。 ちったァ楽になったかよ。 心の中で呟けば、応えるように、毛布を掴んでいた手が少し緩む。 人肌の温もりのせいか、はたまた他人が近くにいることが思念波の防波堤になるのか何なのか知らないが、俺が触れるとコイツの苦しみは少なからず軽減するらしい。 一撫でごとにコイツの身体を支配していた固さが抜けて、乱れていた呼吸が少しずつ穏やかになっていくこの時間が――俺は実は、嫌いじゃない。 有り体に言や、ギャンギャンと頑固に泣きわめき続けていた赤ん坊を見事に寝かしつけた時のような満足感と優越感。 さっすが俺様っつー得意な気分になるのを誰も咎めやしねーだろう。 いや、実際すげーと思うんだよコレ。あんだけ魘されてたのをアッサリ落ち着かせるんだぜ?もはや神の手と言っても過言じゃねーよな、なんつって。 自画自賛しても、ツッコんでくれるヤツはいない。 俺はちょっぴり虚しさを感じて頬を掻いた。 こんな時にスパッと小気味良くも可愛らしいツッコミをくれるリディアは只今コテージで夢の中だし、それはもうご丁寧なまでの皮肉をこめてサラッと吐かれる辛辣なツッコミの持ち主は、ここで悪夢の真っ只中――というか。 カインの鋭い舌鋒は、二度目の裏切りから帰還して以来、注意していなければ気付かない程度ではあるが少々控えめになっていて。 ……つまんねーな、と、俺は思う。 以前はコイツのスカした言動にムカついてもいたが、手応えのある掛け合いを楽しんでいたのも、また確かなのだ。 このメンバーじゃ、ああいう会話ができるヤツは他にいない。リディアとの掛け合いも楽しいのだが、彼女は偶に一般人と感覚がズレていることがあって、ボケを真に受けられてしまうことがあるから(ちなみにセシルはツッコミが期待できない完全なる天然ボケだし、ローザは天然なのかわざとなのか、非情なまでのボケ殺しだ) オメーしか俺と漫才できるヤツいねーんだから、しっかりしろよ。 本人が聞けばそんなものするつもりはないと抗議してきそうな事を考えて、パシリと軽く頭を叩けば。叩かれたカインは身じろいだが、身体の向きを変えただけで目を覚ましはしなかった。 固く目蓋をおろした顔に焚火の明かりが差し込んで、睫毛の長い影を頬に落とす。 「…………」 金髪を指で梳くのを再開して、俺は嘆息した。 この男が兜をとった顔を初めて見た時は、それはもう驚倒したものだ。 男であることは間違いなく見て分かるのに、もし女だと言われても、なんとなく納得してしまいそうなほどお綺麗に整った面。男女問わず視線を釘付けにするような、別嬪、としか表現しようがねー目立つ容姿。 以前に一度だけ平服のコイツと街に買い出しに行った時なんざ、四方八方から飛んでくる視線にゲンナリして仕方なく俺の口布を無理やり貸したのだ。……まーそれも、口元を覆って切れ長の眼だけ出してるその姿が、却って『謎めいた美人』の雰囲気を助長していてガックリ頭を抱えることになったんだけど。 しかし、だ。 言っておくが、俺はコイツの面に見惚れたことなんかねーぞ? 虚勢じゃねーっつーの。マジもマジ。見惚れるわけ、ねーだろーが。 だって俺が見るコイツの素顔は、いつだって苦しげに歪んでいるのだ。 男の眉間に深く刻まれた皺を睨んで、自ずと口元に苦笑が滲む。 とっちまえよ、こんなもん。ぐりりと親指で眉間を押してやれば、短い呻き声とともにますます皺が深まった。うわ、おもしろくねー。 悪態を吐きながら、スルリ、金の髪を指先で弄ぶ。 泣いている赤子を寝かしつけるのは得意なのだ。 だけど、赤ん坊の無垢な寝顔に満足したならば。 次は起きている時に笑わせてみたいと思うのが、人情というものだろう。 見る者すべてを幸せにするような赤ん坊の無邪気な笑顔の愛らしさには、そりゃ勿論、敵わねーだろうけど。 それでも、このお綺麗な仏頂面が柔らかく綻んだら。きっとそれなりの破壊力があるだろうと俺は踏んでいる。 彫刻されてんじゃねーのかと思うほどくっきりと刻みこまれた眉間の皺をなぞって、擽ったがるように震えた目蓋を見詰める。 チラリと視線を落とせば、カインの手は力なく毛布を手放していて。 俺は思わず、口角を緩く持ち上げた。 聞けよ。エブラーナ城内でも、俺の手にかかれば笑わねーガキはいなかったんだ。 王子にして子守の天才、エッジ様とは俺のことだぜ。 お前もいつか、ぜってー笑わせてやるから。 覚悟しとけよ、竜騎士サン。 ---------------- エッジのカインへの想いは、 「あーもうバカ!ほっとけねーよコイツ!」 から始まるんじゃないかと思うのです。 |