弁護士の愛、検事の憂鬱



今日という今日は、堪忍袋の緒が切れた。



ダァン!
火曜の朝、出勤するなりデスクに勢いよく鞄を叩きつけた土方に、既に席に着いていた山崎はビクリと首を竦めた。

「…………」
無言の土方から激しい怒りのオーラを感じ取ったのだろう。山崎は振り返る事すらできずに、背中に冷や汗を伝わらせて固まっている。
その姿を視界の隅に把握しながら、土方は、音高く舌打ちして哀れな部下の背中をさらに強張らせた。



事の発端は、土曜の夜。
土方は厄介な仕事を一つ終えたところで、翌日の日曜は久々にまともに休める予定だった。そこで一応『恋人』と呼べる相手からの誘いに乗って、彼の自宅に泊まりにいったのだが。
……念のために書き添えておくと、『彼』という言葉は書き間違いではなく、加えて言うなら土方は男である。
若くして冷静冷徹でしかもイケメンな敏腕検事、と名高い土方十四郎の『恋人』は、変わり者で風貌は胡散臭いが腕は良いと評判の、坂田銀時という弁護士であった。
彼らが男同士で何故お付き合いを始めるに至ったかを三十文字以内で説明せよ、という問いには、以下のようにお答えしよう。

『坂田にセクハラ紛いに口説かれ続けた結果、土方が流され絆された』

或る公判で知り合って以来かなり強引に迫られて最終的には執務室で押し倒されただの、土方は迷惑しているように見せかけて実は坂田に惹かれていただのという細かい経緯や事情はさておいて。二人の関係は少なくとも表面上、坂田が押し切る形で始まったのであった。

それから一年半。
二人の付き合いは、概ね順調である。

概ね、という但し書きが付くのは、土方にとって非常に不本意な事が一つあるせいだ。
それは坂田弁護士の性格――と謂うべきか、それとも性癖と謂うべきか。
端的に表現するならば、あの男は、変態なのだ。
玩具にコスプレ、目隠し拘束、言葉攻めから焦らしプレイまで、そういうイカガワシイ方面への興味探求は尽きる事なく。平素は真剣に仕事をしている時にしか輝かぬと評されているはずの気怠い半目をここぞとばかりに爛爛と煌めかせて、土方を毎回毎回、羞恥の海に突き落とす。
もういい加減にしろと毎度のように憤りながら、一年半も経ってしまえば次第に慣れてくるというもので。そして慣れてきてしまっているという事実にまた羞恥と自己嫌悪と危機感を駆り立てられて、土方は歯噛みするのであった。

……さて、話を戻そう。

土曜の夜、坂田の自宅であるマンションを訪れた土方は、寝室に三脚でセットされていたハンディカメラを蹴り倒した。
蹴り倒しながら、そういえばハメ撮りという行為は今までされた事がなかったな、という事実をやけに冷静に考えた。
坂田と付き合っているとこの程度の事ではもう驚かない。驚きはしないが、撮られるのは断じて承服しかねる。冗談ではない。

ガシャアァンと派手な音を立てて床に倒れたカメラに慌てて駆け寄る坂田を睥睨して、撮る気ならヤらねェ、今日はもう帰ると冷ややかに告げてやれば。坂田は一瞬だけ不服そうな顔を見せたものの、仕方ねェな諦めるか、と心底残念そうな溜息とともに呟いてカメラを片付けた。
坂田は変態的な性癖の持ち主ではあるが、土方が本気で嫌がっていると判断すれば無理に強要はしない。いや、じゃあ今までの色んなプレイは本気で嫌がっていなかったのかと言われたら言葉に詰まるのだが、それは、まあ、土方としては「嫌に決まってんだろアイツの判断が間違ってんだよ」と主張するしかない。真実のほどは察してほしい。
とにかくハメ撮りは本気で嫌だという事が伝わったらしいと安堵していると、カメラを片付け終わった坂田がベッドサイドのボイスレコーダーも片付けているのが目に入って土方はくらりと眩暈を感じた。録音までする気だったのかこの変態野郎。

……まあ、諦めたなら、いい。実行に移さないならば、よからぬ事を企んでいたのは不問に処そう。
土方は額を掌で覆ってぐったりと溜息を吐きながら、機器を片付け終わった坂田がベッドへと手を引いてくるのに逆らわなかった。
変態的な行為は御免被るが、ノーマルなセックスであれば寧ろ歓迎したい気分だったのだ。せっかくの貴重な休日前夜であったし、何だかんだ言って土方は坂田に惚れているのである。

――この時もっと冷静にきちんと状況を分析しておくべきだった、と土方が後悔するのは、この二日後のことだ。

月曜日、世間様は祝日だけれど当然のように仕事に出掛けていた土方は、普段より少し早く切り上げて坂田の家へ向かった。
約束はしていない。たまには驚かせてやろうと思ったのだ。
つい五日ほど前まですっかり忘れていたのだが、その日は坂田の誕生日で。互いに忙しい事は充分知っているから、坂田の口からは祝ってほしいだの会いたいだのという台詞は一言も聞いていなかったけれど……一応お付き合いをしている身なのだからこのくらいはと、土方はコンビニに立ち寄ってイチゴのショートケーキを買ってみた。
ガラにもない事をしているようでちょっと気恥ずかしい。

マンションの坂田の部屋の前で、土方は呼び鈴は慣らさずに合鍵を取り出した。ちなみにこの鍵は、以前に等価交換という名の強奪で土方宅の合鍵を持ち去られた時に代わりに寄越された物だ。今まで使ってなかったがこういう時には便利だな、と、鍵穴に差し込んでガチャリと回す。
坂田が在宅かどうかは確かめていないが、居なかったらリビングで待たせてもらおう。そんな事を考えながらドアを開けて中に入った。

坂田は部屋に居た。
リビングで、ノートパソコンを開いて。

思い返したくもないような卑猥な映像を、目を輝かせて編集していた。

そこに映っているのが自分の姿で、それが所謂ハメ撮りというヤツで。
つまり二日前の夜に坂田は諦めたふりをして何処かに密かに設置していたカメラで隠し撮りをしていたのだな、いやに諦めがよかったのは土方が本気で嫌がっているのを感じたからなんかではなくて単に油断させるためだったんだな、と。

三秒ほど呆然としてから漸く回り始めた頭で理解した土方は、ショートケーキの入った袋を坂田の顔面へ渾身の力で投げつけて、無言でその場を後にしたのだった。



「…………はあ……なるほど」
「何がなるほどだコラ。やる気のねェ返事してんじゃねーよテメーちゃんと聞いてたのか?アァ?」
「いや聞いてましたけど。やる気がないっていうか、土方さんがそんな事を赤裸々に話してくるのが意外すぎてリアクションに困ってるんですよ。俺に一体どんな反応を求めてるんですか?」

ホットコーヒーを啜りながら山崎は眉尻を下げる。
朝っぱらから怒りのオーラ全開で出勤してきた上司に、どう声を掛けたものかと悩むこと五分。とりあえず二人分のコーヒーを淹れておそるおそる差し出してみれば、土方はマグカップを受け取って一口飲むと、怒涛の如く語り出したのだ。

「坂田さんの変態嗜好を愚痴りたいのは、まあ分かりますけど、誕生日にサプライズしようとしたとかハメ撮りされてたって知ってケーキ投げ付けて飛び出してきたとか、そういう可愛らしい彼女的な行動を自ら暴露するなんて土方さんらしくな……」
「誰が彼女だァァァァ!」

ゴッ、殴られた頭を抱えて山崎は呻く。何を求められているか分からないから正直な感想を述べただけなのに、まったく横暴な上司だ。
心の中でぼやいたつもりが、どうやらボソリと口から零れてしまったらしい。眦を吊り上げてもう一発拳を繰り出そうとする土方に慌てて、山崎は声を上げた。

「いやあのっ!坂田さんもそれはちょっとやりすぎですよね!土方さんが怒るのも分かりますよ!」
「……なんか腹立つなテメェ……本気でそう思ってんのか」
「思ってます思ってます!」

ジロリと睨んでくるのへ必死に頷く。
正直それほど土方の憤りに共感しているわけではない、というか勝手にやってろバカップルというのが本心なのだが、この上司の拳骨には容赦がないのだ。
山崎が暴力を回避するためだけに同意しているのを正確に察したのだろう。土方は忌々しげに舌打ちしてからブラックコーヒーに口をつけた。

「別に共感してもらいたくて話したわけじゃねェ」
「あ、そうなんですか。えーと、それじゃあ……?」
「今回だけは赦せねェ。あの変態馬鹿野郎を痛ェ目に遭わせて海より深く反省させてーから、知恵貸しやがれ」
「はあ……」

要は復讐の相談か。山崎は漸く土方の意図を得心して曖昧に頷いた。
今回だけはって、毎回同じこと言いながら結局赦しちゃってるくせに、とは口に出さないでおく。

土方は坂田の変態嗜好に常々憤りを顕わにしてはいるけれど、その怒りが三日以上持続した様を山崎は見た事がない。
この上司は元来、意志が強くて短気な男だ。そんな彼が、最中には拒みきれず事後には怒りきれず……なんて。そんなもの『合意』と表現しても差し支えないのではないだろうか。

(惚れた弱みだか何だか知らないけど、事の原因の四割ぐらいは土方さんにあると思うんだよな……)

勝手にやってろバカップル、と山崎が思う理由はそこにある。
今回だってきっと三日と経たずに赦してしまうに違いない。ああバカバカしい何が知恵貸せだよ。内心でうんざりしながら、差し当たって目の前の上司を満足させるべく山崎は口を開いた。

「やっぱり、まずは着拒じゃないですか?もうしてます?」
「チャッキョ?」
「着信拒否」
「ああ……テメェ女子高生みてーな略語使ってんじゃねーよ」
「いやもう結構一般に流布してる略語だと思うんですけど。土方さんて古風なとこありますよね」
「うるせェ」

バカにされたと思ったのだろうか、土方はムッと顔を顰めながら携帯を取り出した。カチカチと操作しているところを見ると、まだ着信拒否設定はしていなかったらしい。

「……土方さん、ひょっとして昨日の夜、坂田さんと電話で話したりしました?」
「アァ?あの馬鹿んちを出た直後にかけてきやがったから、迷惑防止条例違反で訴えんぞこの変態弁護士がって怒鳴って切ってやったけど?」
「…………出ちゃったんですね……」

極々小さな声で呟いて、山崎はこっそりと溜息を吐いた。
そういう場面で怒っている事を示すには電話に出ないのが一番なのに。たとえ怒鳴り声でも受け応えをしてしまったなら、「聞く耳は持ってもらえている」と相手を安心させるだけではないか。
土方は頭の良い男なのだから、本来そんなことぐらい承知しているはずなのだけれど。やっぱり坂田弁護士が絡むと冷静さを欠くよなこの人は。諦め混じりの苦笑を浮かべて、山崎は話を続ける。

「それで、坂田さんは何て?」
「江戸の迷防五条は『公共の場所又は公共の乗物において』が前提になってるから個人宅での盗撮には適用が難しいぞとか何とか……っあああ腹立つなあの野郎ォォォ!知識のある変態とか厄介極まりねェ!」
「…………」

ああホラ、土方さんが本気で怒りきれてないのを察しちゃったから坂田さん余裕じゃないですか。
山崎はツッコミたいのをぐっと堪えて眉根を寄せた。その表情が功を奏したのか、土方は山崎の内心には気付かぬ様子でパチリと携帯を閉じて胸ポケットにしまう。着信拒否の設定が終わったらしい。

「……えーとですね。坂田さんにダメージを与えたいなら、無視が一番じゃないですかね。着拒して徹底的に避けて、家まで会いに来られてもドアチェーンかけて門前払いとかそういう感じで」
「そりゃ……そうするつもりだが、俺が帰る前に合鍵で入られたらどうしようもねェだろ」
「鍵代えれば?」

俺、なんで勤務時間中にこんな相談に乗ってるんだろう。遠い目をしながら投げやりに応えれば、土方は虚を衝かれたように目を瞠った。

「そもそも強引に合鍵持ってかれちゃったんでしょう?ストーカーに付き纏われてるからって大家さんに言って鍵代えてもらえばいいじゃないですか。それともそこまでする気は無いですか?やっぱり口だけですか?本気で怒ってるわけじゃないんですか?」
「な……っ本気で腹立ってるに決まってんだろーが!上等だやってやらァ!ディンプルキーに代えた上で補助錠つけて二重ロックにしてやるわァァァ!」

いや俺そこまで言ってないんですけど。売り言葉に買い言葉で勝手に対処法をエスカレートさせていく上司を眺めて、この人ホントに「敏腕検事」なのかなと疑問が浮かぶ。

(……まあ、この人がこんなんになっちゃうのは坂田弁護士が相手の時だけなんだけどね……)

だからいっそうバカバカしくなるのだ。山崎は最早隠しもせずに溜息を吐いた。

「そうですねー、そのくらいすれば坂田さんも懲りるんじゃないですかねー」

二重ロックというのは少々やりすぎかもしれないという気もしたが、議論するのも面倒臭くて平坦な声音で同意する。
もう、いい。このバカップルの仲が多少こじれようが知ったことか。

どうせどんな修羅場を迎えようが、最終的には元の鞘に収まるのだ。コイツらは。

その確信がある山崎は、適当に相槌を打ちながらホットコーヒーを飲み干したのだった。



「……あれ?」

木曜の夜。土方のアパートの玄関前で、坂田は合鍵を取り出しかけた手を止めて首を傾げた。
ドアが、オカシイ。
ついこの前までは普通のワンロックだったはずなのに、何故、補助錠がついているのだろう。
きょろりと周囲を見回してみるも、お隣のドアは従来と何ら変わっていない。もしやと眼前のドアをまじまじ観察すれば、補助錠だけじゃなくドアノブの鍵も明らかに鍵穴の形が変わっていた。

「……えー?」

ひょっとしてアレか。この間のアレに怒ったのか。
三日ほど前に恋人を怒らせた心当たりのある坂田は、気怠い半目のままポリポリと首の後ろを掻く。
携帯への電話は着信拒否されているようだったから、まあまだ怒ってるんだなーとは思っていたが。
しかし当日は電話に出たくせに翌日から着拒とか、いっしょうけんめい怒ってるアピールしてる感じが可愛いよな、などと考えていた坂田は、正直それほど深刻には捕えていなかった。

「マジでか。鍵代えたのか。しかも二重ロックって」

どんだけ必死なのか。そんなに本気で怒っているのか。

「えええ……縛って目隠しして玩具突っ込んでしばらく放置した時も二日で赦してくれたのに、ハメ撮りぐらいで何で今更……アレか?総一郎君の入れ知恵か?」

土方の同僚を思い浮かべて坂田はぼやく。他人を、特に土方を揶揄うことに対しては労力を惜しまないあのドSな青年だったら、土方を焚きつけてこのくらいの事はやらせそうだ。
ちなみに土方の同僚の名は正確には総悟だが、今この場に突っ込む人間は誰もいなかった。

「うーん……でもなァ、総一郎君に言われたからってこんな手間のかかること……まあそうか、アイツ放置プレイや焦らしプレイより羞恥プレイに弱いもんなー。撮られたのが恥ずかしすぎてキレちゃったとかそういう……」
「あの、そちらのお宅に何か御用ですか?」

ぶつぶつと呟いていると、不意に横合いから声を掛けられて坂田は振り返った。
そこに立っていたのは人の好さそうな年配の男性だ。先程の台詞は極力小さな声で呟いていたから聞かれたとは思えないのだが、男性は明らかに不審者を見る目で坂田を見ている。

「いえ、土方さんにちょっと用事があったのですが、どうやらご不在のようで」

坂田は笑顔を浮かべてそう答えた。
普段から臙脂のスーツに黄色いシャツに赤縁メガネという派手な格好を好んでいるせいで、胡散臭げな目で見られる事には慣れている。
初対面の依頼人に対する時のように柔和な笑みで丁寧な言葉を紡ぎ出せば、年配の男性の不審感は僅かながら薄れたらしい。そうですか、と応えて眉尻を下げる。

「私はここの大家をしておる者なんですが、実は土方さんに、最近変な男に付き纏われてるから鍵を代えさせてくれって頼まれましてね」
「え」
「ほら、ここのドアだけ二重ロックになってるでしょう?女の方だとセキュリティに気を配る方は多いんですけどね、大の男がここまで警戒してるってことは、相当お困りなんでしょうねぇ」
「はあ……そうなんですか」

目を瞬いて相槌を打つ坂田に、大家は多少は和らいだものの未だに不審感の消えていない目を向けた。

「……まさかとは思いますが、貴方ではないですよね?」
「え?ああ、その不審者ですか?はは、まさか。私はこういう者でして」

坂田は思いがけない事を聞かれたとでも言うように苦笑してみせると、内ポケットから名刺入れを取り出した。
弁護士、と印字された名刺を差し出すとともに、襟に付けていたバッヂを示してみせる。

「土方さんの友人で弁護士としております、坂田と申します。今日は何か相談があると土方さんから連絡をもらいまして……詳しくは直接伺う予定だったのですが、おそらくその不審者の件でしょうね」
「ああ、そうだったんですか」

淀みのない坂田の台詞に、大家はすっかり警戒心を緩めて微笑んだ。肩書きの威力が通じる相手で良かったと坂田は内心で安堵する。

「お仕事の後にお邪魔すると伝えてあったのですが、まだお帰りでないようなので……少々ここで待たせていただいてもよろしいでしょうか?」

ご迷惑をおかけしますが、と会釈して頼んでみれば。
二つ返事で頷くかと思われた人の好い男性は……しかし。申し訳なさそうに眉を下げて首を横に振った。

「悪いんだけど、土方さんから誰かがドアの前に居たら追い払ってくれと頼まれててね」

身分がはっきりした人でも区別なく追い返してほしい、本当に知り合いだったら後から自分が謝るから、という話なのだ、と。そう説明を付け加える。

「だから弁護士先生も、申し訳ないんだけど……。土方さんが帰ってくるのを見かけたら、弁護士先生が来てたと伝えておきますよ」
「あ……ああいえ、それには及びませんよ」

一瞬、不覚にも呆然としかけた坂田は、何とか笑みを模って軽く手を振った。
土方さんには私から電話をしてみます、と告げて、手短な挨拶を残してその場を離れる。

(…………追い返せ、か……)

まさかあの土方が、大家に手間をかけさせてまでそんな防壁を張っているとは。

フォロー気質の男が年配の大家に頭を下げて頼み事をする様を思い浮かべて、坂田はのろのろとアパートを遠ざかっていた足を止め、そっと振り返った。
大家の姿は既に見えなかったが――アパートは、坂田を拒むオーラを放って厳然と構えている。

「……ひょっとしてコレ……まずった、か……?」

ぼそりと呟いた声は、誰に聞かれる事もなく夜空に吸い込まれていった。



坂田と顔を合わせずに一週間。
土方は、そうと認めるのは非常に癪な事だが、少々そわそわと落ち着かない気分だった。

彼らは互いに忙しい職業であるから、一週間ぐらい会わない事などザラだ。下手をすると一ヵ月以上会えなかったりもする。
だが、しかし。
携帯の着信を一方的に拒否して、職場に訪ねてきても顔も見ずに追い返させて、家の鍵まで代えて避けているのは……初めてだ。

先週の木曜、どうやら坂田がアパートを訪ねてきたらしい。服装は変だったけど礼儀正しい弁護士さんが来ていたよと大家に聞いたからまず間違いない。
礼儀正しい、というのは坂田の得意な擬態の一つだ。ヤツの本性は慇懃という言葉からはかけ離れているのだが、初対面の人間は大方騙される。

(来たんだよ、な……)

そして大家に、土方がドアロックを二重にした理由も聞いたのだろう。
……土方の怒りの深さを知って、きちんと反省したなら良いのだが。

(つーかコレじゃ、あの馬鹿が反省したかどうかも確かめらんねーじゃねーか)

着信拒否設定を解除してみようか、とも思うが、それでまた山崎に「その程度の怒りか」と言われるのも腹が立つ。
なんなんだアイツ山崎のくせに生意気な。土方は苛々と舌打ちをした。


腹を立てながら働いていたせいか普段より少し効率が悪くて、今日はそれほど厄介な仕事も無かったはずなのに、帰路についたのは日付が変わる頃。
ギリギリ間に合った終電に揺られて帰った土方は、最寄り駅の改札を抜けたところでギクリと立ち止った。

駅前にひっそりと、銀髪が佇んでいる。

「――――……っ」

こんな時間にそんな所で、それこそ不審者ではないか。通報されたらどうするつもりなのだ。
バカじゃねーのかと怒鳴りかけて、いやここでこちらから話しかけたら負けだと土方は口を噤んで視線を逸らした。
大股で歩き出して銀髪の前を素通りしてやれば、男は三歩ほどの距離を開けて後ろをついて来る。

「……土方」
「…………」
「ごめん」

しばらく黙って歩き続けていると、背後から小さな呼びかけと、そして謝罪が聞こえた。
いつになく真摯で、しょげているようにも聞こえるその声音に、土方の心はぐらりと揺らぐ。

(……っいやいやいや!待て俺!騙されるな俺!これはコイツの擬態その二だ!殊勝な態度を装って腹の中では笑ってるパターンだ!)

胸の内に言い聞かせて、いっそう歩む速度を速める。すると背後からは慌てたような気配とともに、足を速めて三歩の距離を保とうとしているのが感じられた。
……置いて行かれまいとしながらも、三歩以上に距離を縮めてこないのは男なりの誠意だろうか。
土方が振り向くまでは一定以上近寄るまいとしているのか。そんな事を脳裏に過らせながら、土方は正面を見据えて歩を進め続ける。

「土方」
「…………」
「本当に、悪かった。お前がそこまで怒ると思ってなかったっつーか、いつも赦してもらってっから調子に乗ってたっつーか……言い訳にもならねーんだけど」

ぽつぽつと喋る男の声には、力が無い。いつも気怠げに喋る男だけれど、こんな弱々しい声を聞くのは初めてだ。

「最初はそのうち赦してもらえんだろーとか悠長に構えてたんだけど……お前に、ここまで思いっきり避けられて、正直……堪えた」

ハァ、と溜息の音が耳に届く。コイツひょっとして本当に反省したんじゃねーかな、と思いかけた土方は、いや待てこの判断の甘さがいつも命取りなんだと気を引き締めた。

「お前に会えねーのにもだけど……何だかんだ言って優しいお前がここまでするってこたァ、怒らせたっつーより……傷付けちまったんじゃねーかと思って。それが一番、キツくて」
「…………っ」

声を出しかけたのを辛うじて堪える。
傷付けた?誰が、誰を。お前が俺をか。
隠し撮りされた事で俺が傷付いたと?そんな繊細な神経の持ち主だとでも思っていたのか。
それとも、お前が俺の意向を無視して無体を働く事で矜持を傷付けられたと、そう察しているのか。

「……月曜、誕生日だって覚えててくれたんだな」

少しトーンの変わった口調に、歩き続けながらも耳がそばだつ。

「お前忙しいから、覚えてくれてるとは思ってなくて。祝ってくれとか会いてーとか言う気もなくて、でも、ちょっと自分で自分にプレゼントっつーか……お前の写真かビデオが欲しいなって、最初はホント、それだけだったんだけどよ」

ついついあんな方向に悪ノリしちまって……悪かった、と。
後悔と自嘲の滲む吐息を零されて。土方は振り返って顔を見たいという衝動と必死に戦わなければならなかった。

――なんだか、空気がオカシイ。
この馬鹿から反省の言葉を引き出して、二度としないとの約定を得られたら赦してやるつもだったのだが。
先程から坂田の台詞が纏っている雰囲気は赦しを請うというよりは……むしろ赦される事を最早諦めた上で、懺悔しているかのような。

「……俺、オメーが散々言ってる通り、ちょっと変態っぽいとこあるから。自覚してるから。なんつーか、お前が甘くて流されてくれるのを良い事に、散々好き勝手してきちまったけど……」

してきちまった、って、何だその過去形は。
もう二度としないという宣誓か。そうなんだな?それなら仕方がない、そろそろ赦してやろうか。

口だけの謝罪で赦すなんて甘すぎるだろうかと、未だに少し迷いながらも土方が振り返ろうとした矢先だ。
坂田は、フッと自嘲と諦観の溜息を漏らして、弱々しい小さな声でこう言った。

「このままオメーと付き合ってても、俺ァずっと同じようなこと繰り返しちまう気がするし。これ以上オメーの甘さに付け込んで傷付けちまうぐらいなら、いっそ別れ……」
「っ、ふざけんなよテメェ!」

耳に飛び込んできた台詞に、土方は考えるよりも先に勢いよく振り返って坂田に詰め寄った。
三歩の距離を一歩半で縮めて、銀髪野郎の胸ぐらを掴み上げる。

流されてくれるのを良い事に?
甘さに付け込んで傷付ける……だと?

「テメー、俺をバカにしてやがんのか……!」

ぐらぐらと、煮えたぎるような怒りに声が震える。

「俺が、今までずっと、テメーに流されてただけだとでも言いてェのか!ただ俺が甘ぇってだけで、テメーに良い様にされてたとでも思ってやがんのか!検察官ナメてんじゃねェ!」

眼前には唖然と目を瞬いている男の顔があって、呆気にとられているらしいその表情に更に怒りが煽られた。

――本当に、人を何だと思っているのだ。
確かに土方には坂田のような変態的嗜好はない、と自分では信じているし、いつもソウイウ事に及ぶに当たっては坂田の巧妙な遣り口に引っ掛かり流されている事が多いとは思う。
だが、だからと言って。

「俺が、何とも思ってねェ相手にあんな……ッこと、されて、流されて絆されただけで赦してやるような男に見えてんのかテメーは!ふざけんじゃねーぞコラァ!」

ギリリ。襟を締め上げて、恫喝するように怒鳴り付ける。
法曹界で密かに『鬼検事』と渾名されている土方の本気の怒声に、しかし坂田は怯えた様子もなくパチリと目を瞬いた後……
……逆に、ふにゃりと泣き笑いのように顔を歪めた。

「それ、俺のこと好きだからって言ってるように聞こえるんですけど。土方センセー」
「……だったら何か異議でもあんのか」
「ありません。異議を申し立てる余地もねーよコノヤロー」

胸ぐらを掴み上げた手を緩めれば、坂田は半歩さがって、でも、と表情を隠すように俯いた。

「……ホントにこんな変態でもいいのかよ、お前。俺、この性格たぶん変えらんねーぞ?いやお前が本気で嫌だっつー事はしないように努力するけど、でも」
「ぐだぐだうるせェ」

ピシャリ、坂田の台詞を途中で遮って、土方は不敵にニヤリと口角を上げる。

「……テメーが変態だってことぐらい百も承知なんだよ。仕方ねェ、乗りかかった船だ。正々堂々迎え撃ってやらァ」

変に悩まれて見くびられて別れ話なんぞを切り出されるよりずっとマシだ。そう言って、せいぜい余裕綽々に見えるように笑ってやれば。
俯いたままの坂田は感極まったように肩を震わせて……


――そして、実に嫌な微笑を浮かべて顔を上げた。


「お前、ホント迂闊だよな」

含み笑いを滲ませた声で言いながら坂田が内ポケットから取り出したのは、録音オンのランプが点いたボイスレコーダー。


「――――ッ」
「言質をとりました。いやぁ照れるね。これからもよろしくなー、土方検事?」

ニヤニヤと笑みを浮かべて、親しげに肩に手をかけてくる変態弁護士に。


今回もまた、ハメられたのだと悟って。土方は時刻も弁えぬ全力の怒声を上げたのだった。



ああ、くそ。

どうして俺は毎度、この男に勝てないのだろう。



嘆く土方の脳内には、「だから惚れた弱みってヤツでしょ」という台詞が山崎の声で再生されて。
とりあえず翌朝出勤したら部下を殴り飛ばそうと、土方はまず、それだけを決意した。




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変態弁護士と流され検事
別名、土方検事のお馬鹿っぷりを生温い目で見守るシリーズ。