その日、沖田に指摘されるまで、土方は迂闊にも己の身体の変調に気付いていなかった。
 いつも通りに隊士の誰よりも早く起きて洗面所へ向かった土方は、手早く洗顔と歯磨きを済ませて自室に戻ると、真っ白に洗濯されたシャツに着替えて、昨晩ハンガーへ掛けて念入りにファブ○ーズをスプレーした隊服へと袖を通した。
 これが毎朝の習慣だと言えば、誰しも、土方が身だしなみに非常に気を遣う男なのだと思うだろう。
 だが実際はそういう訳ではない。
 土方は毎日必ず取り替えているスカーフを締めて完璧な隊服姿となると、すぐさま煙草を咥えて火を点けた。
 閉め切っていた障子を僅かに開けて周囲に人が居ない事を確かめてから、ガラリと全開にして部屋の空気を入れ換える。真冬の寒気が容赦なく流れ込んでくるのへぶるりと身を震わせながら、土方は煙草の煙とともに、ホッと安堵の溜息を吐いた。
 彼が毎朝、規定の起床時間よりも随分早く起きて洗面所へ向かうのは、洗顔や歯磨きで煙草を咥える事のできない状態で他の隊士と会うのを避けるためだ。
 スカーフを毎日欠かさず洗濯に出すのも、隊服へ抗菌消臭スプレーをふりかけるのを毎晩の恒例としているのも、すべては同じ理由である。
 ――すなわち、己の特殊な体臭を隠すため。
 何故だかは分からないけれど、土方の身体は生まれつき菓子の匂いを漂わせている。バニラ、キャラメル、フルーツ、チョコレート、焼き菓子に生菓子。およそ人間の放つものとは思えぬ甘い香に、土方はこれまで二十数年間悩まされ続けてきた。
 丸一日着ていれば服には匂いが移ってしまうし、煙草やマヨネーズで誤魔化せない時に他人に会えば、必ず不思議そうな顔で周囲を見渡される。どう嗅いでもスウィーツの香りであるせいで土方の身体から匂っているなどとは疑われ難いのが救いだが、何か菓子を隠し持っているのか、と尋ねられた事は一度ならずある。
 武州に居た頃はまだ良かったけれど、今や土方は武装警察の副長だ。内へも外へも睨みを効かせなければならない立場で、甘い菓子の香りなど障害にしかならない。だから、平時はなるべく煙草を咥え続け、食事時にはマヨネーズを大量使用して、その両方が不可能な時間には出来る限り人に会わぬように避け続けてきたのだ。
 自室に籠ってしまっていた匂いを換気し終えた土方は、煙草の煙をくゆらせながら障子に手を掛けた。半分ほど閉めたところで縁側に人の気配を感じてギクリとするが、軽い足音とともにひょいと顔を覗かせた相手を見て肩の力を抜いた――沖田だ。
「……んだ、今日は早ェな。どうかしたのか」
 長い付き合いの沖田は、土方の特殊体質を知っている。隠す必要のない相手に気を抜いて、短くなってしまった煙草を机の上の灰皿に押し付ければ、沖田は少し目を細めて肩を竦めた。
「いえ、ちょいと匂いが気になりやしてねィ」
「あァ?何だ今更」
 スン、と鼻を鳴らしてみせた沖田に眉を顰める。この男が土方の特殊体質を揶揄してくるのは珍しい事ではないが、改めて『匂いが気になる』などと言われるのは久方ぶりだ。何年の付き合いだと思ってる、今更もう俺の匂いになど慣れきっているだろう。そんな意図を込めて睨むと、沖田はこちらへ歩み寄ってまたスンと鼻を鳴らした。
「土方さん、アンタ最近、匂いが濃くなってませんかィ」
「………………あ?」
 咄嗟に沖田の言葉が上手く脳内に入って来ず、数秒後に理解した土方はガバリと己の手の甲を口元に当てた。
 すう、と鼻から息を吸い込む。途端、鼻孔に流れ込んできたバニラの香りに噎せ返りそうになりながら、慌てて隊服の襟を開きスカーフをほどいて我が身の匂いを嗅ぐ。
 ――きつね色に焼き上がった香ばしい生地の匂い。上質なバターの風味と、とろふわに泡立てられた生クリーム。ちょっぴり苦めのチョコレートソースに、本日の果実は、おそらくこれはラズベリーだ。
 土方の体臭は、その日その時の体調や気分によって変化する。ひと嗅ぎしたところでは、今日の体調は悪くないようではある、が。
 土方は眉間から鼻梁にかけて皺を寄せて、更に息を吸い込んだ。
 匂いが、濃い……だろうか。正直、よく分からない。
 香水をつけている人間が自分の匂いには鈍感なように、長らく己の体臭と付き合ってきた土方には、香りの強弱を感じることが難しくなってきている。
 やむを得ず沖田へ問い掛ける視線を向けると、彼は呆れた様子で肩を竦めてみせた。
「やっぱり気付いてなかったんですねィ。言っときますが、今日だけの話じゃないですぜィ。俺の感覚じゃ、一ヵ月ぐらい前からどんどん匂いが増してきてまさァ」
「……マジでか」
「ザキの野郎も最近オカシイって言ってやしたぜィ。アンタ、このまま今まで通りの生活続けてたら、他の隊士どもに気付かれんのも時間の問題でさァ」
「…………」
 意地の悪い口調で見下すように言い放たれた台詞に、しかし土方は言い返す事もできず言葉に詰まった。
 これが沖田の空言である、という可能性は無きにしもあらずだ。だがしかし、もし本当に己の匂いが増してきているというのならば、それは早急に何らかの手を打たなければならぬ大問題である。
 土方のこの秘密を知っているのは、近藤と沖田と山崎と、それからもう一人だけだ。
『鬼の副長』として組の規律を引き締める役割を果たさなければならぬ自分が、こんな冗談のように平和で可愛らしい匂いを纏っているのだと知られてしまったら。隊士たちへの示しがつかない。十中八九、ナメられる。
 近頃は、とある理由のせいで、ただでさえナメられがちなのだ。
 幸いな事に馬鹿にされたり蔑まれたりというところまでは達していないが、呆れた目や、微笑ましいものを眺めるような顔を向けられた事は幾度もある。そんなもの副長が隊士から集めるべき視線ではない。
 ――何とかしなければ。
 即座に決意を固めた土方は、ぐっと拳を握って沖田へと向き直った。
「……総悟、匂いが濃くなってるっつーのは……具体的には、前と比べてどのくれェ違うんだ」
「そうですねィ。アンタァもともと匂いの強弱には幅がありやしたが、薄かった時期と比べりゃ、今は三倍ぐらいですかねィ」
「さ……っ!?」
 予想以上の数字に目を剥く。まさかそれほど増しているとは思わなかった。いくら我が身の体臭は感じ取り難いとは言え、そこまで大きな変化に気付かなかったとは不覚の極みだ。
「い、一ヵ月くれェ前から、か……?」
「さァ、俺が気付いたのがそのくらいだったってェだけの話ですからねィ。ひょっとしたら、もっとずっと前から少しずつ濃くなってたのかもしれませんや」
 冷や汗を背中に伝わらせる土方に反して、沖田の口調はあくまで軽いものだ。所詮は他人事と思っているのか、言いたい事だけ言って既に踵を返そうとしている。ちょっと待て、と肩を掴むと、ひどく面倒臭げな顔で振り向かれた。
「何ですかィ」
「いや何って、お前こそ何サッサとどっか行こうとしてんの!?まだ何ひとつ解決してねーだろうが!」
「なんで俺が解決まで付き合ってやらねーとなんねーんでィ。アンタの問題だろィ。それに俺ァ、俺に分かる事はもう全部話しやしたぜィ。後は自分で考えなせェ」
「ぐ……っ」
 冷たく言い放たれて、反論も浮かばずに押し黙る。
 沖田の言葉はいちいち尤もだ。土方の体臭が薄かろうが濃かろうが彼には直接関わりない事であるし、対処法や、増してや原因など知るはずもない。沖田には土方の悩みを解決する術も意欲も皆無であろう。
 そもそも、この男がわざわざ忠告にやって来たこと自体が奇跡的なのだ。何も知らせず放置されて、いつの間にか隊士全員に土方の体質がバレていたなどという事態にならなかっただけでも良しとするべきか。
「……チッ、悪かったな。自分で何とかすらァ」
「何とか、ねィ……」
 沖田の肩を放して吐き捨てた土方に、沖田は意味ありげな声音で呟いて微かに口角を上げた。
 言いたい事はよく分かる。「何とかする」と口で言うのは簡単だが、具体的に何をどうするつもりなのかと問うているのだろう。土方は苦く唇を歪めた。
 差し当たって、今まで以上に煙草を手放さず、今まで以上にファ○リーズを消費するしかない。これからもどんどん匂いがエスカレートしていくとしたら近いうちに誤魔化しきれなくなってしまうに違いないが、原因が分からない以上、他にどうしようもないではないか。
「くそ……っ」
 物心ついた時から二十数年間。この厄介な体質には多少の波はあれど、大きな変化が齎される事はなかった。
 それなのに、何故、今になって。沖田の言葉を信じるならば、数倍というレベルで匂いが増しているなど。
 ぶわり。土方の胸の内に得も言われぬ不安が広がると同時、身に纏う匂いにエスプレッソが加わって、チョコレートソースのカカオ分もパーセンテージを上げた気がした。
 土方の体臭は、気分によって変化する。
 ……けれど今まで、これほど顕著に己の匂いの変化を感じ取れた事はなかった。土方の体臭の僅かな差異を瞬時に、それも適確に言い当ててくる人間はこの江戸に一人だけ存在するが、土方自身は、そいつに指摘されて初めて我が身の変化に気付くのが常だったのだ。
 それが、こんなにも簡単に自覚できてしまうほど、今の自分の匂いは濃くなっているというのか。
 血の気が引いていくのを感じながら、土方は慌てて隊服のポケットから煙草のケースを取り出した。相手が沖田だからと油断して吸っていなかったが、この調子ではどこまで匂いが漂っていってしまうか分からない。副長の部屋の方から何か甘い匂いがする、なんて噂が広まっては堪ったものではない。
 焦ってカチカチとライターを鳴らす土方を興味無さげに眺めてから、沖田はイヤホンを耳に入れて今度こそ踵を返した。
「あ、そうそう」
 立ち竦む土方を置き去りに縁側を数歩ほど歩き出したところで、ちらりと顔だけ振り返る。
「俺ァ、アンタの匂いが濃くなってきたの、万事屋の旦那と付き合いだしてからだと思いまさァ」
 ぺらりと、さも何て事のないオマケ情報のように口にして立ち去っていった沖田の背中を……土方は時計の秒針が一周するほどの間、石の如く固まって見送った。


 障子を閉め切った和室の中で、土方は握り締めた消臭スプレーを無意味にシュコシュコと噴き出し続けていた。
 あまりに噴霧され過ぎて、文机の上や障子紙が心なしかしっとりと湿ってきている。しかし土方はそれにも気付かぬ様子で、まるで握力トレーニングかのようにスプレーを握っていた。
『万事屋の旦那と付き合いだしてから』
 沖田の去り際の台詞が頭から離れなくて、スプレーを握る手とは逆の手でスパスパと忙しなく煙草をふかす。
 おかげで今の土方は、煙草の臭いを振りまく側から消していくという奇妙な図を形成しているのだが、その異様な姿も自覚していない。
「いや……イヤイヤイヤ、ねーだろ。ナイわ。ナイナイ」
 煙草の煙を吐き出しながらブツブツと低く呟いて、ハハ、と乾いた笑い声を立てる。
 万事屋の旦那こと、かぶき町の坂田銀時と土方は、沖田の言の通り『付き合っている』と表現して過たない関係がある。
 近藤と沖田と山崎以外に土方の体質を知っているもう一人の存在がその男であり、土方の匂いの変化に、誰よりも過敏に気付くのも彼であった。
 ついでに言えば、土方が最近隊士たちにナメられていると感じるのもこの男のせいである。あの馬鹿野郎が街中であろうが何処であろうが所構わず土方を抱き締めて甘ったるい台詞を囁くものだから、土方と銀時の関係はすっかり周知のものとなってしまっているのだ。土方としては毎度本気で抵抗して、人前で身を寄せられる度に殴り飛ばしているのだけれど、それもどうやら周りの目には『ツンデレ』と映っているらしい。
 気付けば平隊士たちにまで『同性の恋人になかなか素直になれないホモで照れ屋の副長』というイメージが定着してしまったらしく、銀時とくだらない口喧嘩をしている時ですら生温い目で見られる始末だ。
 ……まあ、気持ち悪いと侮蔑の眼差しを向けられないだけマシと言えばマシなのだけれど。銀時と付き合うようになった経緯を考えると気分は複雑で、土方はいつも不機嫌に眉間に皺を寄せていた。
 そもそも、周囲に『公認カップル』と認識され始めた頃には、実際はお付き合いどころか互いに恋情を自覚してすらいなかったのだ。
 銀時はひょんな事から知った土方の甘い体臭に異様に執着していただけで、土方は甘い香りを求めてストーカーまがいに寄ってくる銀時に本気で辟易していた……つもりだった。
 それがまあ、なんやかんやで二人ともが内に秘めていた想いを自覚するに至って、やっと当人たちの関係が周囲の認識に添うようになったのが、今から一ヵ月ほど前の話だ。
(……い、っかげ、つ……?)
 つらつらと思い返していた土方は、そこまで思考を巡らせて、ひたりと消臭スプレーを握る手を止めた。
『一ヵ月ぐらい前からどんどん匂いが……』
 脳裏を過った沖田の台詞に、煙草を摘まんだ指先も凍りつく。
「いや……いやいや、え?まさか……」
 そんなわけがないだろう、と口先で否定しながらも、独り言を呟くその声は微かに震えている。
 まさか、そんな。
 銀時とああいう関係になったせいで、己の匂いが濃くなっている、などと。そんな事があり得るのだろうか。
 馬鹿な、と思う。この匂いは、土方の生まれもっての体質だ。それが他人との間柄によって影響を受けるだなんて、そんなのは理屈に合わない。
 だからそんな訳はない……と、思うのだけれど。
(アイツが……嗅ぐ、から……?)
 脳内にチラと浮かんだ仮定に、土方は、口元を引き攣らせた。
 銀時は、土方の纏う匂いに異常に執着している。
 それは付き合いだす前からそうなのだけれど、互いに感情を自覚した一ヵ月前からは、少々心持ちが違っていた。主に、土方の心持ちが、だ。
 それまで、土方は己の体質を忌むべきものとしか捉えてこなかった。どうにか匂いが消せないか、この体質を治せないかと思い悩み続けていたし、他人に自分の匂いを嗅がれるなど耐え難い苦痛でしかなかった。
 ――けれど、銀時へと向かう感情を自覚してからというもの。
 アイツがあそこまで歓ぶなら、別にいいか、みたいな。
 匂いにばかり執着されるのは正直面白くないけれど、匂いだけを気に入っているわけじゃないと本人も言っていたし、それならまあ、許してやるか、とか。
 あんなに幸せそうな面をして抱き締めてくるのだから、この体質もそれほど、唾棄すべきものという訳でもないかな……なんて。
 改めて並べ立てるとちょっと死にたくなるが、そんな浮かれた事を少なからず感じるようになっていたのは、認めざるを得ない事実なのだ。
 ひょっとして……そのせいだろうか。
 土方が心の奥底で、己の体質を拒否するのをやめてしまったから。
 これはこれで構わないかもしれない、と、甘い匂いを漂わせる身体を受け入れてしまったから。今まで精神的な作用で抑え込まれていた体質が、蓋を押し上げるようにして溢れ出してきてしまったのだろうか。
「ハハ、ハ……んな、バカな……」
 ゆるゆると首を振りながら、土方はギリギリまで短くなった煙草を灰皿へ押し付け、新しい煙草を咥えた。
 ゆらり、揺れるような仕草で立ち上がって障子を開く。とても部屋の外へ出るような気分ではないが、もうすぐ朝の会議の時間だ。しまった、朝食を摂るのを忘れてしまった。土方は数十分を無為に過ごしていた事に気付いて溜息を吐いた。
 吐息がほのかなバニラの香りを含んでいるのに気付いて暗い気分になりながら、自室を出て縁側を歩く。
 これほど匂いが濃くなっているとなると、会議の間に誤魔化しきれなくなってしまうかもしれない。幸い今朝の会議は幹部のみが参加するものだ。場合によっては、隊長クラスの連中には自分の体質の事を話す事になるだろうか。
 暗澹たる思いで歩を進めていると、角の向こうから隊士の声が聞こえてきて土方は身を強張らせた。
「なァ、今週のシフトだとさァ、最後に風呂入んの五番隊だよな?」
「ん?あー、そうだな。たぶん俺らが一番遅いと思うぜ。それがどうかしたか?」
 足を止めて聞き耳を立てると、どうやら五番隊の平沼と二番隊の松川のようだ。会話の内容に何となく嫌な予感を覚えて、土方はその場から動けなくなる。
「今週うちが風呂掃除当番なんだけどよ、なーんか、浴槽から甘い匂いがすんだよ。俺らが掃除する時にゃもう湯は抜かれてんだけどさ……お前ら、入浴剤か何か入れてねーか?」
「はあ?入れるわけねーだろ!うちの風呂そういうの禁止じゃねーか。大体、平隊士じゃ確かに俺らが最後だったけど、その後にホラ、副長が入ってるっつーの!」
 ぎくり。平沼の口から飛び出した台詞に、土方の肩が跳ねる。
「あの人、いつも夜中に独りで入ってんだろ。副長が後で入るって分かってる浴槽に入浴剤なんか入れられっかよ。下手すりゃ切腹させられるわ」
「あー、そりゃまあ、そうか」
 松川は納得した様子で相槌を打ってから、ふと、怪訝な声を上げた。
「……ん?それじゃ、最後に湯抜いてんのも副長だよな。副長が入浴剤入れてんのか?」
 ドクドクと、心臓が嫌な音を立てて、土方は胸のあたりの服地を強く握り締めた。
「まさか。あの人そういうの入れるタイプじゃねーだろ」
「だよなー」
 軽く否定してみせた平沼に松川もあっさりと同意して、じゃあ何だろうなと疑問符を浮かべながらも、彼らは然して深くは気にしない様子で話題を他へ移して歩き去っていった。
 土方は、がくりとその場にしゃがみ込みそうになるのを辛うじて耐えた。
 ――マズイ。
 まずい、まずい。コレは、駄目だ。
 よもや浴槽にまで移り香が残ってしまっているなんて。念には念を入れて残り湯は抜くようにしていたのに、湯を抜いてすらも匂いが残るなんて想定の外だ。
 うるさく鳴り続けている心臓に隊服の上から手を当てて、浅い呼吸を繰り返す。
(……どう、する?)
 足の裏から駆け上ってくるような不安に、土方は膝が震えそうになるのを必死で抑えて、手近な壁に凭れかかった。
 ――何をそんなに深刻ぶっているのだと、思われるかもしれないが。
 事は、ただ秘密を知られたくないとか、こんな体質恥ずかしいとか、隊士にナメられるとか、それだけの問題ではないのだ。
 自分は、特殊武装警察の副長だ。
 攘夷浪士を拷問にかける事もあるし、幕府の狐狸どもと腹の探り合いをする事もある。新入隊の隊士に敵方のスパイが紛れ込んでいないか目を光らせていなければならないし、時には組織のために本音を押し隠して、憎まれ役を買って出なければならない時もある。
 そんな役割を持つ自分が――体臭の変化によって、胸の内を周りに筒抜けにさせてしまったら。
 厳然と、冷血漢を装って非情な命令を言い渡さなければならぬところで、急に苦味や酸味を増した香りを振りまきでもしたら、内心の葛藤が隊士たちに伝わってしまう。
 攘夷浪士どもには、己を『鬼』だと認識させねばならないのに。生クリームと季節のフルーツの香りを漂わせながら拷問部屋に入ったりしたら、何を思われるか分かったものではない。
 ハッタリをかまして揺さぶりをかけなければならぬ時に、思わぬ情報に動揺した心がそのまま匂いの変化となって流れ出してしまったら……尋問の効率は、格段に低いものとなってしまう。
(くそ……ッ)
 このままでは、仕事に支障をきたす。
 それを確信して、土方は片手で額を覆った。
 早急に、手を打たなければならない。自分のこの妙な体質のせいで真選組に悪影響を及ぼすなど、そんな事はあってはならない。
 例え、不確実な方法でも。予測に過ぎぬ原因であっても。匂いがこれ以上濃くなっていくのを止めるためならば、手段を選んではいられない。
 ――今、考えられる原因が、あの男しかないのであれば。
 土方はグッと唇を引き結ぶと、隊服の内ポケットから携帯電話を取り出した。



「副長、あの……」
「開けるな!」
 障子の向こうから掛かった声に、土方は反射のように鋭い声を返した。
 隊士がビクリと身を竦ませた影が障子に映る。必要以上に厳しい声を出してしまった事を自覚して、土方は溜息を吐くと、「なんだ」と比較的やわらかい声で続きを促した。
 隊士は土方の声音に少し安堵した様子で、しかし緊張は解かぬまま、障子越しに言葉を続けた。
「あの、門衛からの伝言で……万事屋の旦那が」
「追い返せ」
 皆まで言わせずに遮ると、隊士がまたビクリと首を竦めるのが見えた。土方の語気に怯えつつも困惑しているのが、顔を見なくとも充分に伝わってくる。
「あの、でも副長」
「奴が何と言おうが今すぐ追い返せ。俺は絶対に会わないと言ってると伝えりゃいい」
「副長……」
 泣きそうな声を発したところを聞くに、どうやらこの隊士は、門衛からの伝言のみならず銀時と直接顔を合わせているらしい。野郎に脅しでもかけられたのか、完全に板挟みといった声音である。
 電話で一方的に別れを告げて三日。
 恥をかき捨てて全隊士に「万事屋を屯所の中へ入れるな」と通達して、市中見廻りの予定もすべて内勤に変更して、訪ねてきた万事屋へ顔を見せる事すらもせず門衛に追い返させて、土方は屯所に引き籠っていた。
 沖田には「痴話喧嘩に隊士を巻き込まねェでくだせェ」と言われたが、ギロリと無言で睨みつければ、土方の表情から何らかの事を感じ取ったらしい。ちょっと興味深げな顔をして、それから後は何も言わなくなった。何をどこまで察したやら、たまに空恐ろしいほど敏いヤツだ。
 近藤と山崎には心配げな顔をされて度々諭されたが、土方は頑として聞き入れず、銀時と一切顔を合わせようとはしなかった。
 ――そこまでして、遠ざけているのに。
 もはやあの男に我が身を嗅がせる事など金輪際しないと決意して、身体から放たれる甘い芳香など心底邪魔で忌むべきものでしかないと、何度も何度も、胸の内で確認したというのに。
 土方の纏う甘い香は、何故かこの三日で更に倍になろうかという勢いで濃くなっている。
 土方は自室で自らの身体を包むように毛布を被りながら、まるで原因の分からぬ悪化に唇を噛み締めていた。
 銀時と逢っていた事が原因では無かったのならば、これ以上、銀時を遠ざける意味などない。
 ……しかし、しかしだ。
 この三日間で、ひとつだけ分かった事がある。
 それは、門衛から「万事屋が訪ねてきた」と聞かされる度に。携帯に万事屋からの着信が入る度に。土方の脳裏を、あの銀色が過る度に。土方の纏う匂いは、ぐっと急激に増すのだという事だ。
 銀時を遠ざけていても悪化する。しかし、銀時の姿が胸の内に浮かぶと、その比ではないほど悪化するのだ。
 原因は、あの男にある。
 だが、逢わなくても悪化してしまうというのが分からない。これまでだって決して毎日逢っていたという訳ではないのに、この三日間だけ急激に匂いが増していく理由も、さっぱり分からない。
「どうしろっつーんだ……っ」
 土方は障子の向こうでオロオロしている隊士には聞こえぬように、頭から毛布を被って呻いた。
 毛布の内側に、むんと匂いが籠る。コーヒーとチョコレートの苦味が効いた、大人のケーキの匂い。溜息を吐くとクランベリーソースの酸味が混ざる。
 決して不味そうではないけれど、苦味と酸味が目立つ匂いの時は、土方の調子はあまり良くはない。身体か精神か、どちらかに不調を抱えている時にこんな匂いになるのだ。
 ――理由も伝えぬまま、一方的にもう逢わないと断言して、それ以来一切の接触を拒否している。
 銀時は、どう思っているだろうか。
 そう考えたらコーヒーの香りがより一層苦くなって、やはり不調はそれが原因かと土方は自嘲した。
 自分がした事に自分で傷付いているなどお笑い草だ。そもそも、土方には傷付く権利などない。理不尽に傷付けられているのは銀時の方なのだから。
「――っ、すまねェ……」
 畳に蹲って、頭から毛布を被って、ポツリと零す。
 今まで一度も、はっきり口にした事はなかったけれど、自分はあの男に惚れている。
 惚れている、けれど。それでも自分には、真選組よりも優先できるものなど無いのだ。
 仕事に支障をきたすと思えば、例えお前を傷付ける事になろうが、こうやって切り捨てるのだ。
 ……そういう男なのだと、たぶんお前は、知っていただろうけれど。
 それでも。さすがに、ここまで何も告げずに一方的に突き放すなど。
「呆れた、だろうな……」
「おー、まあな」
 フッと自嘲の吐息を零せば、返ってくるはずのない返事が聞こえて土方はガバリと身を起こした。
 毛布を跳ねのけて頭を出せば、すぐそこに、数日ぶりに見る白髪頭がふわふわと揺れている。
 咄嗟に声を失って固まった土方を、銀時はニヤリと笑って抱きしめた。
「おー、すげェなオイ。今日はコーヒーケーキか?」
 くん、と鼻を鳴らした銀時に、ドクリと土方の心臓が音を立てる。
「――っ、嗅ぐ、な」
「いやいやムリムリ。これは嗅がずにいられねーって」
 戯けた口調に言いながら、銀時は頬ずりするように鼻先を土方の首元へ埋めた。土方は逃れようと身を捩るが、全身を両腕にガッチリとホールドされていて身動きが取れない。
「ってか、テメェ、なんで……!」
「あー、帰るふりしてこっそり塀乗り越えてきた。オメーんとこの隊士が手引きしたわけじゃねーから叱らねーでやれよな」
「乗り……っ、んで、そこまで……テメェ、俺に、呆れたんだろうが。もう、ほっとけよ……」
 馬鹿力でしっかりと回された腕に、これは逃れるのは不可能だと判断して土方は力を抜いた。代わりに、ぼそぼそと口で抗議する。
 すると銀時は土方の首筋に鼻先を擦り寄せたまま、ぶはっと噴き出して肩を揺らした。
「ほっとかねーよ。いや確かにちょっと腹立ったし呆れたけどね。でも今のオメーの状態見りゃ、何を考えて俺を追い返してたのかは一目瞭然だし。いやホント、バカだねーお前」
「な……っ!?」
 唐突な馬鹿呼ばわりに、土方は言葉を失って銀時の天パ頭を見下ろした。ふわふわとあちこちに跳ねたそれは、まるで楽しくて堪らないとても言うように揺れている。
 しばらく楽しげに笑っていた銀時は、やがて僅かに身を離すと愛しげな笑みを浮かべて土方の顔を覗き込んだ。
「匂いが濃くなってきてんのに気付いて、ヤベェと思ったんだろ?」
「……って、お前」
「オメーな、俺の鼻をナメんなっつったろ。そんなんとっくに気付いてたっつーの。まだここまで仕事に支障ありそうな感じじゃなかたから言わなかったけど」
 けろりと言い放たれて、土方は思わず口を噤む。そういえばコイツは、土方の匂いが体調や気分によって変わるのを即座に言い当ててみせた男だった。沖田や他の隊士が気付くほどの匂いに気付かないはずがない。
 しかしそれならば、やがて土方がこうして悩む事になるのも読めていただろう。いくら数日前にはここまでの香りではなかったとは言え、もっと早めに知らせてくれても良かったのではないだろうか。
 それとも、匂いが濃くなっている事を知らせたら、土方が対症療法として銀時を遠ざけると予測して、言わなかったのか。
 ……現実にその手段をとってしまった土方には、文句を言う筋合いは無いけれど。
 考えているうちに罪悪感で落ち込んできて視線を俯けた土方に、銀時はしかし、ニマリと口角を上げて明るい声を発した。
「それに俺、オメーのそれの原因も対策も分かってたからね。もうちょい濃くなってから言やァいいかなーと思ってたんだけど、悪い悪い、ちょっともったいつけすぎたわ」
「…………は?」
 思いも寄らぬ銀時の台詞に、土方は目を丸くして間の抜けた声を上げた。
 固まってしまった土方の匂いをくんくんと思うさまに嗅ぎながら、銀時は何でもない事のように語り始める。
「お前、自分じゃ知らねェみてーだけど、お前の匂いが濃くなる時って隠し事してる時なんだよな。言いてェ事を言えずに腹ん中に溜め込みすぎちまうと、それが言葉の代わりに匂いになって身体の外に出てきちまう、みてーな。そんな感じ」
「は……」
 何だそれは。そんなのは初耳だ。
 土方は呆然と銀時の顔を見返した。銀時は土方の視線を受け止めて、平然と言葉を続ける。
「で、隠してた事ちゃんと言葉にすりゃ、その分だけ匂いは薄くなんだよ。オメーの身体はそういう仕組みなわけだ」
「な……そ、そんなん、知らね……」
「ああ、知らねーんだろうなって思ってた」
 そこまで言って、銀時は、ニヤリと嫌な感じの笑みを浮かべた。
「……そこで、だ。ひーじかーたくーん?お前、俺に言ってねェ事があるだろ?」
「あ?」
「一ヵ月ぐれェ前から、お前が言おうと思って言えなかった事。口にしてみろよ」
 そうすりゃ、その匂いは薄まるから。
 自信満々に言い切られて、半ばキョトンとしながら心当たりを探った土方は。
 はたと思い当たった答えに、カッと頬を朱に染めた。
 それを見て、銀時の唇が満足そうに弧を描く。
「そうそう、それが正解。ホレ、言ってみ?」
「ぐ……くそ、テメ……ッ」
 ギリギリと歯噛みしながら、耳まで真っ赤に染め上げて。睨み付ける土方に、銀時はますます楽しそうに笑った。
「そんなに言い難いなら、先に俺から言ってやるよ」
 嫌味ったらしくそう言って、土方の耳元へ唇を寄せる。
 ――そして。
「好きだぜ、土方」
 今までこの男から聞いた事の無かった、ド直球のその台詞に。
 土方もようやく覚悟を決めて、一ヶ月間、口にする事のなかった言葉を舌に乗せた。

「俺も……好き、だ」

 途端、サァッと波が引いていくように薄くなる匂い。
 一ヵ月前からこの三日間にかけて、雪が降り積もるように濃く厚くなっていった、あの甘く苦く酸っぱい香りは。言葉にできずに溜まっていた、この男への想いだったのだと――そんなこっ恥ずかしい事を思い知らされて、土方はいっそ死にたい気分で畳に突っ伏したのだった。


 ああ、ちくしょう。
 俺はどうして、こんな厄介な体質に生まれついてしまったのだ。