「銃口がブレてんぞ、土方先生」
そんなんじゃ俺は殺せねーよ?
古びた木造校舎。誰も生徒の居ない教室で、逆光を背に男は笑った。
窓から差し込む日射しに銀色の髪が透けて、後光でも差しているかのように淡く煌めく。
無言のまま拳銃を向け続ける土方に、ゆったりと滑るような足取りで近付いて彼は己に向けられた銃身を無造作に掴んだ。
「殺してーなら、ほら、ここ」
ぐいと引っ張った銃口を、自らの左胸に押し付けて口角を緩める。
「ここをズドンと撃ち抜かれちまったら、さすがに俺も生きらんねーなァ」
眼鏡のレンズの奥で細められた目。
傷んだ板張りの壁から、隙間風が吹き込んで男の白衣を揺らした。
コチ、コチと、黒板の上に備え付けられた時計が、かそけき音を立てている。
しばしそのまま、向き合って。やがて男は、反応を返さぬ相手に困ったように仄かな苦笑を浮かべた。
「何してんだ。早く撃てよ」
「…………」
「ひーじかーたせーんせー?」
胸に押し当てた銃口をどかしもせず、戯けた調子で呼びかけられて、土方は未だ口を噤んだままでその響きを反芻した。
こうして小馬鹿にした口調で『先生』と呼ばれるのも、今日が最後だ。
三月十九日、火曜日。午前十時三十分。
3年Z組の生徒たちは、本校舎の講堂で卒業式の最中である。
土方が体育教師という肩書きでこの中学校に籍を置くのは本日限り。
――地球爆破のタイムリミットも、あと、僅か。
コイツを殺すなら今しかない。
殺すのは、自分しかいない。
土方は銃身を掴まれたままの拳銃を、じっくりと形を確かめるように握り直した。
今頃講堂で涙しているであろう生徒たちには、たとえ式の後にこの教室へ戻って来たとて、コイツを殺せはしない。
彼らには、この男を殺せない。それは能力云々の問題ではなく、この男が彼ら生徒たちにとって、もはや掛け替えのない『先生』であるからだ。
容赦のない銃口を向けながら、ナイフの切っ先を閃かせながら、それでも彼らがいつも笑っていたのは、この男が殺されるはずなどないと心のどこかで信じていたからだ。
自分たちが何をしようと、先生は平然と躱してニヤリと得意げに口角を上げるのだと。
死なぬと信じていたからこそ、本気で殺しに向かっていた。
ならば、本当に、この男の存在を抹殺しろと。
落ちこぼれのレッテルを貼られて非道な差別に晒されていた彼らを、真正面から受け止めて教え導いてくれた男を、この世から、お前たちの手で葬り去るのだと言われたら。
……彼らには、出来ぬだろう。
もとより、そんな酷なことを、未成年の少年少女に強要したくはない。
――だから。
この男を殺るのは、俺だ。
俺しか――いない。
「……あのさ。俺ァお前が思ってるような御大層な存在じゃねーよ。ただのバケモンだ」
沈黙を貫き通す土方に何を思ったのか、男は左手で銀色の天然パーマを掻き回しながら短い溜息を零した。
右手で掴んだ銃口を引っ張って、軽く揺らす。
「オメーがこの引鉄を引きゃ、迷惑な怪物が一匹死んで世界が救われる。それだけの事だ。それがオメーの任務だろ?」
わかっている。
そんな事、テメェに言われるまでもなく分かってんだよ。土方は胸の内に吐き捨てた。
明日になればこの男は地球を滅ぼす。それは彼の意志の如何に依らず、必然として疾うに決定してしまっている事実だ。
人類の滅亡を阻止したければコイツの息の根を止めるしかない。
分かっている。もう何ヵ月も前から、分かっている。
だから、銃を握る右手が震えているなんて、そんなのは気のせいだ。
引鉄に掛けた指が動かぬのは、銃弾を避けさせぬタイミングを見計らっているからだ。
――ただ、それだけ。それだけだ。
躱すのは許さじと眼光鋭く、真正面に佇む男を射抜けば。
さぞ瞳孔のカッ開いた獰猛な目付きであろうに、男は何故か、慈しむかのように眉尻を下げた。
「なァ、俺ァオメーに同情してもらえるような、そんな綺麗なモンじゃねーんだよ」
……だけど、と。
吐息のような声音で漏らした男の纏う空気が、不意にほんの微か、揺れて崩れる。
「もしオメーが、ちらっとでも俺を哀れだと思ってくれてんなら……一個だけ聞いてもらいてェワガママがあるんだ」
冷たい銃口を左胸に埋めて。
両手で、まるで祈りの仕草のように銃身を包み込んで、一歩、詰める。
「俺は、殺されるならお前がいい」
「――っ」
「お前がいいよ。土方」
呼吸音が聞こえるほどに近くなった距離が、逆光で陰っていた表情を顕わにする。
いつもいつも憎らしい皮肉な笑みしか浮かべてこなかった男の、やわらかな微笑みを見てしまえば。
鉄面皮を保つことはもはや不可能で、土方はついに戦慄く唇を開いた。
「……っの、卑怯者、が……ッ!」
「うん、ごめん」
予想していたよりも三割増し、震えていた声を、しかし揶揄うことなく男は詫びた。
何を卑怯と言われたのか、この男はおそらく、過たず察している。
否定することもなく一言で詫びられたのが、土方には余計に腹立たしかった。
……卑怯者。
俺が断れないと知っていて、最後に特大のワガママを押し付けやがって。
テメェはどれだけ、俺を振り回したら気が済むんだ。
テメェが俺の前に現れて以来、俺はいつ胃に穴が開いてもオカシくなかったんだぞ。
胸の内で罵倒して、ギリリと歯を食いしばる。
どれだけ罵倒したところで、結局せいぜい十秒後には、土方は彼のワガママを聞き入れることになるのだ。
――ああ、そうだ。俺はお前を撃つ。
撃たない、という選択肢は無い。
土方は最後に一度、深い溜息を吐いてから、静かな視線を男へ向けた。
コイツ一人になった世界で、コイツがすべてを負うよりは。
コイツ一人がいない世界で、俺がすべてを負う方が。よっぽどマシに違いないから。
「――坂田」
「うん」
「惚れてたよ」
薄く笑んで告げれば、目の前の男は、黙ってこちらを見詰め返した。
俺も、なんて答えないのは、拒絶ではなくコイツの優しさだと知っている。
だから土方は、せめて最期まで目を逸らさず。
真っ直ぐに瞳を見据えたまま、右手の人差指に力を込めた。
――Goodbye, 俺の暗殺対象
世界と天秤に掛けたくなるほど愛したのは、テメェが最初で最後だよ。