「……げほっ」
口から入った煤の臭いが喉に絡んで咳き込む。唾を吐き捨てれば、砂の混ざった唾液がべちゃりと足元に落ちた。
――赤いな。唾の色をチラと見て舌で口内を辿る。左頬の内側にざらりとした感触があって、先程地面を転がった時に歯で切ったのだと知れた。内臓からの血でないならば御の字だ。そう思って土方は嗤う。
肋骨付近を抉った刀傷も、脇腹を貫いた銃弾も、臓腑に達したかどうかの判断すらおぼつかないとは。
両手で握る刀はもう柄巻きまで血塗れだ。べっとりと重さを増した隊服の上着はとうに脱ぎ捨てた。返り血を被るのは未熟の証だろうか、脳裏を過った疑念を土方は肩を竦めて否定した。これだけ斬れば血も浴びようというものだ。
その証拠に、背後で木刀を構える男の白い着流しにも、既に大胆な紅い模様が入っている。
この男が未熟だと謂うなら、現代の江戸に剣豪なんてものは存在しないのだろう。
自分でも意外なほど率直な賛辞が胸中に沸いて、ああ、これはいよいよ追い詰められてんなと土方は苦く唇を歪める。
くだらぬ思考に逃避しようとも、目の前の敵の数が減るわけではない。
四面、見渡す限りの人、人、人、たまに天人。
これがぜんぶ敵だというのだから笑える。
どの方向のどいつを見ても、こちらへ向けられているのは殺意の籠った視線と、切っ先、もしくは銃口。あァそうだな、銃口が交ざってんのが実に厄介だ。
ついでにもう一つ、笑える事実を付け加えようか。
これが他の何よりも可笑しな話だ。
この状況で唯一こちらに害意を向けていないのが、真後ろに背中合わせで佇む一人の男で。
それが、まったく何てこった、真選組の隊士でも警察組織の所属でもない、本来味方でも何でもない胡散臭い自称一般市民であるということ。
……まあ、断じて仲間ではないけれど。
コイツが突然背後から斬りかかってきたりしない事だけは確信している。
この確信がまた、自嘲の種だ。
「土方ァ」
不意に背後から呼びかけられて、アァ?とガラ悪く声を返した。ちょっと前に間近で響いた爆発音のせいで、まだほんの少しだけ耳が遠いのだ。
土方の大きめの声音に事情を察したのだろう。背後の男は僅かに口元を緩めたような気配を漂わせる。
鼓膜をやられたのを不覚と笑われたようで、土方は舌打ちしながら視線を背後に流した。
「オイ何だ。話があんならサッサとしろ。この忙しい時に用もねぇのに話しかけんじゃねぇ」
「いやいやいや、用ならあるから」
視界の端に捕えた男の顔は予想通り、点々と紅く彩られてなかなか風情がある。
男前になってんじゃねーか。そう言ってやる前に、野郎は手の甲でグイと乱暴に顔を拭った。
赤い水玉が、紅のように伸びて男の目の下に走る。
「明日、デートしようぜ」
片手で木刀の血を振るいながら寄越された台詞に、土方は寸の間だけ押し黙ってから、ハッと吐き捨てた。
「生憎と明日は非番じゃねぇ。昼休憩の間だけでよけりゃ付き合ってやらァ」
「ちょ、お前ワーカホリックすぎんだろォォォ!今日こんだけオーバーワークしてんだから明日ぐらい有給とれっつーの!」
「実戦に時間取られた翌日は書類仕事で忙しいんだよ!」
やかましい抗議に言い返しながら、刀を両手で構え直す。
暢気な会話に痺れを切らしたのだろうか。周囲の敵さん方はいよいよ一斉攻撃の構えだ。
「……ったく、たまにはデートのお誘いぐらい素直に頷いてくれてもよくね?内心誘われて嬉しいくせに」
「ふざけんな。誰がだ」
溜息とともに木刀を握り直したらしい男の言葉には、最早一顧だにせず拒否を返してやって。
土方は地を蹴り、刀を頭上に振り上げた。
ふざけんな、誰が頷くか。
――俺がここで素直に喜んでみせたりしたら、それこそ死亡フラグではないか。
四方を敵に囲まれて、ただ二人。
この状況で平然と明日を約するお前に、鼓舞されたなどとは認めたくないが。
普通に仕事をして、休憩時間に戯れのようにこの男に逢う明日を――コイツとなら、勝ち獲れるという確信があるのだ。
あァ、そうだな。
この確信がまた、自嘲の種だ。
誰にともなく応えて、土方はニヤリ、口角を上げた。
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翌日は二人でお泊まりデート@病院です(それただの入院)