「……間に合った」
ふう、と一つ溜息を吐いて、土方は黒いTシャツの半袖で額の汗を拭った。
ちょっとした機材トラブルがあって焦ったが、今日は何とか時間通りに撮影を始められそうだ。
土方十四郎は映像制作会社に勤めている。今はまさに、新作映画の撮影が始まって二週間というところだ。
今回メガホンを執っているのは、若手の鬼才、坂田銀時。
独特な作風は好みが分かれるが、賛否両論ながらも何やかんやで高い評価を得ている監督である。自分がスタッフとして携わるのは初めてだが、土方も彼の映画は嫌いじゃない。
――映画、は。
「ひーじかーたくーん」
背後から気だるい口調で呼ばれた名に、土方はヒクリと頬を引き攣らせた。
振り返ればそこに立っているのは、死んだ魚のような目をした男。ピンクのシャツが途方も無く胡散臭い、坂田銀時監督その人である。
「……何でしょうか、監督」
嫌な予感を覚えて固い声音で尋ねれば、その予感を肯定するかのように坂田はヘラリと笑う。
「今日の最初のシーンな、アレ、ちょっと撮り方変えっから」
「は」
「セット、縁側じゃなくて座敷の方にすっから。で、カメラの角度こっちな。暗い感じにしてーから照明も――」
「ちょ、ちょ、待……っ!」
慌てて声を上げる土方には全く構わず、坂田は立て板に水のごとく一方的に変更点を告げて踵を返した。
「役者には俺が説明しとくから、土方君その他諸々全部よろしくゥー」
背中越しにひらひらと手を振られて、土方は声を失った口を開閉させる。
(ふ……っざけんなクソ天パァァァ!)
あちこちに跳ねた坂田の銀髪天然パーマを睨みつけて土方は胸中で怒鳴った。
こちとら予定通りの時間に撮影を始めるために先程から奔走していたというのに、突然あんな大きな変更、何を考えてんだあのバ監督が!
……とは、口には出せない。当然だ。相手は曲がりなりにも監督なのだから。
その他諸々全部。
……そりゃ、指示する方はそれが一番ラクだろうよ。土方は大きく舌打ちをしてから歯を食いしばってその場を離れた。他のスタッフに変更を伝えに行くためだ。
機材のセッティングも変更しなければならない。ああ、クソ。撮影を開始できるのは何時になるだろうか。急がなければ。
この映画の撮影が始まってからというもの、土方は坂田に振り回され続けていた。
常にやる気のない表情、覇気のない口調で、それでも撮影に対する情熱は一応本物らしい。妥協という言葉を知らないかのごとく、予定変更の嵐。しかもその調整をほとんど土方に丸投げしてくる。
信頼されている、と思って密かに嬉しかったのは最初のうちだけだ。
こうも何度も続けば嫌になる。というか、腹が立つ。何なんだアイツはいい加減にしろよバカヤロー切腹しろ、と最近では思っている。
……それでも、変更の末に撮られたシーンは確実に良いものになっているのだから、気分は複雑だ。
他のスタッフと打ち合わせを済ませ、土方は機材を抱えて早足でスタジオを通り抜けた。
セットの裏手に回ったところで人とぶつかりそうになって慌てて避ける。謝ろうと顔を上げれば、役者の一人と目が合って土方は内心で顔を顰めた。
最近人気の若手俳優。この映画では脇役だが、他では主演の経験もある注目株だ。
しかし土方は、この俳優の演技があまり好きではなかった。
ただ、現在撮影中の映画では彼は自意識過剰で傲慢なおぼっちゃまの役どころで、今のところはイイ味が出ていると思う……まあ要するに、本人から実際そういう印象を受けるのである。
目上の人間には上手く隠しているようだが、彼の性格は決して良くない。
「すみません」
「ああ、気を付けろよ」
会釈すれば、居丈高に言われて鼻を鳴らされる。
こうも絵に描いたような『嫌なヤツ』も珍しいなと、いっそ感心しながら土方は彼の脇を通り抜けようとした。その腕を、男が掴む。
「あのよ、休憩スペースのお茶、無くなっちまったんだけどストックねーの?」
咎めるような口調で言われた言葉に土方は眉を顰めた。
まだ今日の撮影も始まっていないのに何故飲み物が切れるのだ。どれだけ飲んだんだ。それとも洗面所にでも捨てたのか。程度の低い嫌がらせとしか思えない所業にムッと唇を引き結ぶ。
この男はクランンクイン当初から、何故だか土方に執拗に絡んでくる。理由は分からないがどうやら嫌われているらしい。
「……すみません、後でストックを確認しておきます」
「後で?」
「今はちょっと機材の関係で手が塞がってまして……」
「ふーん」
機材を抱え直してみせながら軽く頭を下げてその場を去ろうとするも、掴まれたままの腕に力を加えられて眉根が寄る。
意味が分からない。一体この男は何がしたいんだ。
怪訝な視線を向けると、男は嫌な感じに口角を上げた。
「お前さー……前から思ってたけど、顔だけは俳優なみだよな」
「は?」
「スタッフのくせにおキレーな顔してやがんなっつってんだよ。澄ました顔しやがって、実は裏で女優とメアド交換とかしてんだろ」
「……いえ、そんなことは」
スタッフのくせに、ときた。
投げ付けられた台詞に呆れ返って、土方は思わずつっけんどんな声音で答えた。
するとそれが気に食わなかったのだろう。男はピクリと片眉を跳ね上げる。
「アァ?なんだその顔。バカにしてんのか?」
「そんな、まさか」
――してるけど。
内心で溜息を吐きながら、すみません急ぐので、と離れようとする。
しかし腕をやんわりと振りほどこうとする仕草もどうやら俳優の気に触ったようで、彼は手を離さぬどころか、もう片方の手で土方の顎を掴んだ。
「ちょっと顔がイイからって調子乗ってんじゃねーぞ」
(それはお前だろ)
無理やり顎を持ち上げられ鼻先で凄まれて、つい顔が歪む。まったく、くだらない。
「この顔で女優……に、限らねーか。女も男もさぞ誑かしてきたんだろうな」
「いや、男もって」
あまりにも心外な言葉に思わず突っ込んでしまえば、俳優はハンと見下した目で嗤った。
「なんだお前、自覚ねーのかよ」
「あ……?」
「テメーのその反抗的な面、誘ってるとしか思えねーっつってんだよ」
誘うって、何だ。
言われた事の意味が本気で分からなくて目を瞬かせる、と、何がツボを突いたやら、俳優は不機嫌だった表情をニヤリとした笑みに変えた。
「わかんねーなら、わからせてやるよ」
そんな台詞とともに鼻先から更に間近に顔を寄せられて、遅まきながら気付く。
――キス、されようとしているのだ。
「やめ……っ」
「アァ?抵抗してんじゃねーよ」
(いや、するに決まってんだろォォォ!)
顔を背けようとすれば顎にギチギチと指が食い込んで痛い。
何だこの状況は。何がどうしてこうなった。コイツは俺が嫌いなんじゃないのか。混乱する思考に衝き動かされて、どうにか振り払おうと手を上げる。
「や、めろっつってんだろーが!」
つい乱暴になった言葉遣いとともに手を振り払うと、ガリ、と指先に嫌な感触がした。
ハッとして恐る恐る目を遣れば、俳優の頬に横に一筋、線が走っている。男が唖然としたようにそこに指を当てると、指先が赤い液体で濡れた。
土方の顔から血の気が引く。
怪我を、させてしまった。俳優に。しかも顔に。
なんてことだ、マズイ、手当してメイクで誤魔化せるだろうか……真っ青になりながら半ば呆然と考えていると、土方の目の前で俳優の形相がみるみると変化した。唖然から、憤怒へ。
「テメェ……何してくれてんだ」
「す……すみ、ません……」
「謝って済む問題じゃねーよ。役者の顔に傷付けやがって。監督に報告させてもらうからな」
坂田に、報告。
吐き捨てられた言葉に、ドクリと心臓が嫌な音を立てる。
確かに顔に傷を負っては、多少なりとも今後の撮影に影響が出る。監督に報告しないわけにはいかないだろう。
……だが、この男が事実をそのまま告げるとは思えない。十中八九、土方が一方的な加害者となる。
――スタッフから、外されてしまうだろうか。
最悪の可能性が脳裏を過って土方の胸はジクリと痛んだ。
色々と苦労も多いけれど、土方は今撮っている映画が好きなのだ。むちゃくちゃな振り回され方をしているからあまり素直に認めたくはないが、坂田の作品の、ファンだという自覚がある。
押し付けられる難題に毎度文句を漏らしながらも、彼の映画に携われることに密かな歓びを感じていたのだけれど……それも、もう仕舞いになるのだろうか。
こんな、くだらないことで。
「オメーら、そんなとこで何騒いでんの?」
悔しさと後悔とで暗澹たる気分に沈んだ土方は、不意に割り込んできた第三者の声に弾かれるように顔を上げた。
見れば、セットの角から坂田が顔を覗かせている。先程少し大きめの声を上げてしまったのが聞こえたらしい。
「あ、監督!」
言うべき言葉が見付からずに口を噤んでしまった土方に反して、俳優はすぐに声を上げる。
「いえ、ちょっと話してただけなんですが、何か土方さんの気に触ってしまったみたいで、その……」
目上の者に対する時の好青年風の喋り方。困ったような口調で、そっと頬の傷に手を当ててみせる。
あえてこちらを責めずに言葉を濁すところが策士だ。腹立たしいが反論するわけにもいかず土方は唇を噛んだ。
坂田は気だるい目で俳優の顔の傷と土方を見比べた後、僅かに顔を顰めてから、ハァ、と溜息を吐いた。
呆れたようなその仕草が居た堪れなくて、自ずと自然が俯く。
「……クビだな」
冷めた声音に、思わずビクリと肩が揺れた。
土方は制作会社の従業員であって、坂田に直接雇用されているわけではない。だから坂田の先の台詞には、決して土方の職を失わせるような力はない。あくまでこの映画のスタッフから外されるだけだ。
――ただ、それ、だけ。
「映画作りの邪魔するようなヤツ、俺の映画には要らねーから」
「……っ」
掌に爪が食い込む。
嫌だ。胸の内に生じたのはそんな駄々のような思いで、しかしそれを口にするわけにもいかず土方は押し黙った。胸が、痛い。
傍らに視線を遣れば、俳優の口元に一瞬勝ち誇ったような笑みが浮かぶのが見える。ああ、チクショウ。こんなヤツのために。土方は歯を食いしばって、安易に手を上げた自分を悔やんだ。
尤も怪我をさせるつもりはさらさらなく、ただ振り払おうとしただけだったのだが。それでも動作が乱暴だったことは否めない。
自分は何故あんな風に度を失ってしまったのだろう。無理やり口付けられそうになったと言っても、所詮自分は男だ。この俳優が自分相手に本気で大した事を仕掛けてくるわけもなし、野郎同士のキスぐらい悪ふざけだと思って我慢するべきだったのに。
後悔先に立たず。
そんな言葉を思い浮かべて、土方は思い切るように一歩、足を踏み出した。
スタジオを、出て行かなくては。クビにされた人間がいつまでも立ち竦んでいては撮影の邪魔だろう。
……ああ、機材を運んでいた途中だったのに、これを誰に託そうか。
悄然と肩を落としながら、無言で会釈して坂田の横を擦り抜ける。
――と。
「ひーじかーたくーん」
すれ違った瞬間、坂田から掛けられた声に土方は思わず足を止めた。
何の悪感情も感じられない、いつも通りの坂田の声。
これまで用事を言いつけてきた時と全く変わらない調子で呼びかけられて、戸惑いつつも振り返る。
「この後コウキが出るシーン、代役見付かるまで全部後回しにすっから。今まで撮ったシーンも撮り直すから、撮影スケジュール組み直しといて」
「はァ!?」
坂田の台詞に素っ頓狂な声を上げたのは土方ではない。俳優の方だ。
それも当然。コウキというのは彼の役名である。
土方は咄嗟に理解が及ばず、ただ唖然と坂田の顔を見詰めた。この人は、何を、言っているのだ。
「ちょ……っ、どういうことだよ監督!」
「アレ?聞いてなかった?」
動揺のあまりか敬語を忘れて怒鳴る俳優に、坂田は冷めた目を向ける。
「映画作りの邪魔するようなヤツは俺の映画には要らねーから。スタッフへの礼儀も知らねーような役者には外れてもらうわ」
「――っ!」
さらりと、決定事項として述べられた言葉を聞いて。土方は、坂田が先程の僅かな沈黙の間に、俳優の傷の原因を正しく理解したのだと悟った。
つい、口を半開きにして坂田の横顔を見る。
観察眼の鋭い男だという事は撮影を通して感じていたけれど、千里眼でもあるまいしそんな簡単に事実が見抜けるものだろうか。
――土方が、やむを得ない事情もなく俳優に傷を負わせるはずなどないと、そんな風に信用してくれているなら願ってもないことなのだが。
「今後のことは後でマネージャーさんに伝えとくから、とりあえず出てってくんない?」
邪魔だとでも言いたげにスタジオの出入り口を指し示されて、俳優がギリギリと歯軋りする。
好青年風の擬態をかなぐり捨てた男はしばらく坂田を睨んでいたが、この場では何を言っても聞き入れられないと判断したのだろう。くそっ、と低く吐き捨てて土方を憎々しげに睨んでから、足音高くスタジオを出て行った。擦れ違ったスタッフや役者が何事だという目で彼の背を見送る。
呆然と成り行きを見守っていた土方は、いつの間にかすぐ隣にまで歩み寄っていた坂田に気付いてハッと向き直った。
「土方」
「は、い……」
「お前、ああいうのは我慢しなくていいからな」
あと、アイツが何か報復とか考えてるみてーだったらちゃんと俺に報告しろよ。
普段通りの覇気のない面で、わしゃわしゃと天パ頭を掻き回しながら監督はのたまう。
「……んじゃ、他の役者とアイツの事務所とプロデューサーには俺が説明しとくから、土方君その他諸々全部よろしくゥー」
こちらの返事は待たずに一方的に告げて、ひらりと肩越しに手を振って立ち去った坂田の背を、見送りながら。
土方は、足の裏から駆け上ってくるような安堵と焦燥と、それ以外の正体不明の感覚に、全身に震えを走らせた。
――その他諸々全部、なんて。
坂田が引き受けた事の厄介さに比べれば、なんてことのない些事ばかりだと土方には分かっている。
クランクインして二週間も経った今、役者の一人を変えるなんて。それが若手とはいえ人気俳優であれば尚更、坂田がどんな抗議や非難に晒される事になるか想像もつかない。
それでもあの男は、きっと。その原因が土方にあるなどとは決して口にしないのだろう。
「……カッコつけやがって、あのバ監督が……ッ」
土方は機材を抱えたまま、その場にしゃがみこんだ。
何てことをしてくれるのだ、あの野郎。
もとより自分は、彼の作る映画は好きなのだ――映画、は。
本人にも惚れそうだなんて、認めたく、ないのに。
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映画制作に関するツッコミはご勘弁願います。
ファンタジーだと思ってください。ファンタジーです。