金曜日。仕事をほどほどで切り上げて帰り支度をしていたら、同僚の女性教諭に「土方先生、何かイイ事でもありましたか」と尋ねられた。
自分では普通通りに過ごしていたつもりだったのだが、よもや浮かれた空気でもダダ漏れにしていたのだろうか。驚いて我が身を顧みた土方に、彼女はニッコリと笑ってこう言った。
「
まるで夏休み前の生徒のような顔をしていますよ。」
――まったく、女は鋭い。
修学旅行から帰って来て、最初の週末。
明日の休みは、坂田と過ごす約束をしている。
Wait a moment
「おー、土方センセー」
土曜日、午前十時半。待ち合わせ時間の三十分前。
ちょいと早く来過ぎたかと、己のハリキリぶりに苦笑しながら最寄りの駅前に辿り着いた土方は、しかし数分も待たずして、改札の向こうに銀髪の姿を見付けた。
当然だが今日は白衣は着ていない。ラフな私服が、新幹線の中で逢った時よりも男を若く見せている。実年齢はさておき、今の坂田の身体はおそらく土方と同年代なのだろうと思われた。
眼鏡は今日もかけている。伊達なのか、視力を落としたのか。本人には聞いていないが、あの男が洒落でそんなものをかけるとは思えない。きっと教師を目指す過程で近眼にでもなってしまったのだろうと土方は推測している。
――まあ、話はこれから、ゆっくり聞けばいい。
「随分と早ぇじゃねーか」
改札口を出て来るのを、ニヤリ、口角を上げて迎えてやれば、男は眼鏡の奥でちょっと目を細めてみせた。
「いやそれはオメーだろ。俺はアレだよ?オメーが駅前で待ちぼうけになったら可哀そうだから、ちょっと早めに来てそのへんでコーヒーでも飲んでてやろうかなー的なアレだから。優しさだから」
「そりゃこっちの台詞だ。テメェが使い慣れねェ駅で独りでそわそわしねーように早めに迎えに来てやったんだよ」
「嘘つけ。待ちきれなくて早く出てきちまっただけのくせに」
「ハッ、テメーが俺に早く逢いたかったんだろ」
売り言葉に買い言葉。後で考えたら顔を覆いたくなるような台詞を吐いてしまった土方に、しかし坂田はそこで言葉を切って、ふ、と笑う。
「うん、まあ、そうだな」
「……そこで認めんなボケ。恥ずかしいだろうが」
土方は唇を歪めて軽く睨んでから、踵を返して歩き出した。自分で言っといて照れてんじゃねーよ、笑い含みの声で言いながら坂田が左に並ぶ。
ゆったりとした歩調で肩を並べた男に視線を遣って、土方は口元を緩めた。
「オイ、ほんとに俺の家なんかでいいのか?もっとなんか……あの高校に行ってみるとか……」
「あの高校って、今じゃ俺もオメーも部外者だろ。入れねーって、この御時世」
あの池ももうねーし。そう言った坂田の口ぶりはあっけらかんとしていて、ああ、未練は無いのだな、と土方は安堵する。
無言で小さく息を吐いた土方から何を感じ取ったのか、坂田はこちらへ顔を向けて、気だるげな半目の奥を微かにきらりと煌めかせた。
「それに、人目のあるとこじゃオメーに触れねぇじゃねーか」
――人間になれと、有無を言わせず約束させたのは、自分の我儘だ。
鯉の身を捨てた事を後悔してはいないだろうかと、胸の奥底に抱いていた一抹の不安が、坂田のその言葉で溶かされていく。
「……そうだな」
土方は少し俯いて表情を隠しながら、半歩、左に寄って軽く肩をぶつけた。
「お邪魔しますよっと……へえ、意外と綺麗にしてんだな」
「今朝掃除したんだよ。そのへん適当に座っとけ」
1DKのアパート。少々手狭な居間へ坂田を追いやって、コーヒーメーカーのサーバーからマグカップにコーヒーを注ぎ分ける。家を出る直前に淹れたところだからまだ温かい。
片方のカップには、ミルクと砂糖をたっぷり。ちなみにカップが二つあるのは金曜に職場用のを持ち帰ってきたからであって、あの男のために買っておいたとかではない。否定しすぎると却って怪しくなるが、違うものは違う。
カップを両手に居間へ向かうと、ローテーブルの側で胡坐をかいていた坂田の前にカップを置いて、土方はテーブルの向かいへ回る。
「え」
「あ?」
「何でそこ?隣来いよ」
ぽんぽんと傍らの床を叩かれて、土方は思わず一瞬言葉に詰まった。何というか、コイツには照れというものが無いのだろうか。
「いや俺、煙草吸うから」
テーブルの上の灰皿を引き寄せ端的に答える。すぐ隣で吸われては流石に煙たいだろうと配慮したつもりだったのに、坂田は緩く首を横に振った。
「や、俺も吸うし」
ほら、と煙草のソフトケースを取り出してみせられて、土方は目を瞠った後に呆れて溜息を吐いた。
「テメェ、人のこと散々ヤニ臭ぇだのニコチン中毒だの言っといて……」
言いかけて、坂田の持つパッケージに目が止まる。
その銘柄は、土方が昔から吸っているものと……ミリ数すらも、同じ。
「……なんで吸うようになったかなんて、分かるだろ?」
ケースから一本抜き出した坂田にどこか自嘲ぎみに微笑まれて、堪らず腰を上げる。テーブルを回り込んで膝も触れ合わんばかりの距離に腰を下ろすと、煙草を咥えてライターを擦った。坂田が顔を寄せて、同じ火に煙草をかざす。
コイツがライターの灯す熱に躊躇なく顔を近付けて、熱い煙を吸い込む様を見ると、ああ、本当に人間になったんだな、と今更ながらに実感する。間近でじっくり眺めていたら、煙草を口から離した瞬間を狙って伸ばされた腕にぐいと肩を引き寄せられた。抵抗もせず、胸に凭れる。
「なんかさー……」
「ん?」
「もし俺が最初から人間だったら、オメー多分こんな素直にベタベタさせてくれなかったよな」
「ああ……それは、まあ、そうだろうな」
感慨深げに零されて土方は笑った。胸から伝わる鼓動と体温が心地良い。けれどそれは確かに、一度も触れることのできなかった十年前があればこそだ。
「だろ?……そう考えると俺、鯉に生まれて良かったような気がするわ」
おどけた調子で言った坂田が、僅かに身を離してこちらを見下ろす。
黙って視線を交わしたのは、ほんの数秒。二人同時に、吸い始めたばかりの煙草を揉み消した。
「銀時」
久方ぶりにそう呼べば、男が眼鏡を外してテーブルに置く。生徒には銀八と呼ばれていたけれど、それはあだ名だと聞いた。
もとより、この男が銀時という名を捨てるはずがない事を土方は分かっている。
銀時。もう一度紡いだ唇に、熱っぽい吐息を感じて土方は瞼を下ろした。
――チャラララ、チャッチャラ……
ベッドの上に放ってあった携帯から、着信を告げる音がする。当然の如く無視を決め込んで目を閉じたままの土方に反して、銀時は躊躇して動きを止める。
「……オイ、携帯鳴ったぞ」
「ああ」
「ああ、って……見なくていいのかよ」
「いい」
即答した土方に、ならば、と銀時は顔を寄せた。
幸い携帯の着信音はすぐに止んでいる。通話ではなくメール着信だったのだろう。それなら後で見ればいい。
――チャラララ、チャッチャラ……
あと1センチ、というところで再び鳴った音に、銀時は気を挫かれた様子で再び動きを止めた。土方は焦れて瞼を上げる。
「オイ銀時、何してんだ……」
「いやいやいや、土方君?嬉しいけど、銀さんは嬉しいけどね。ホントにいいの?なんかスゲー鳴ってんだけど……あ、ホラまた、三回目」
「うるせーな、いいっつってんだろ」
「いやでも」
「いいんだよ。あの音は佐々木だ」
この期に及んで遠慮を見せる銀時に舌打ちして、ピシャリと言い放つ。
だから無視で問題無い、と言うつもりだったのに、銀時は何故か、そこでヒタリと固まった。
「…………佐々木?」
「あ?話したことあっただろ。お前があの高校にいた頃の教頭だよ」
「え?マジでその佐々木?だってお前それ、十年も前の話だろ。まだ交流あんの?」
「交流っつーか、向こうが勝手にメールしてくるだけだ」
あの野郎メール魔だっつったろ。こっちからは三十回に一回ぐらいしか返してねーよ。
苦々しく答えて自ら顔を寄せようとすれば、避けるように身を引かれて土方はピクリと眉を上げる。
「……あの着信音、そいつ専用なわけ?」
「はァ?ああ、まーな。無視していいメールだって音で分かった方が便利だろ」
「でもオメーあの曲、オメーが十年前から大好きなペドロの主題歌じゃねーか」
「ものっそ頻繁にメール寄越すから鳴り続けても不快じゃねー曲にしただけだよ!毎日聞いてりゃBGNみてーなもんだ!っつーか何なんだテメーはさっきからぐちぐちと!」
寸止めも大概にしろと怒鳴りかけた土方は、ふと、違和感を覚えて口を噤んだ。
今のこの、銀時の顔は、十年前に見たことのないものだ。
あの時の、達観と諦観の混ざり合ったような、己の我儘を通すことなど考えたこともないような、あのどこか遠くで生きているような表情ではない。
そこまで考えたところで、土方はようやく、銀時が何をぐちぐちと不満そうにしているのかに気付いた。
「あー……オイ、お前、意外と……」
「何だよ。違うからね。そういうんじゃねーから」
皆まで言わせずに早口で遮った銀時に、思わず噴き出しそうになってすんでで堪える。
まさか。まさか、この鯉が。いや、元鯉のこの男が――
――嫉妬、なんてものを覚えるほど、未だ自分に惚れてくれているとは。
土方は銀時に詰め寄っていた身を離すと、途端に追うようにこちらへ視線を向けた男を真正面から見据えた。
「……十年」
「あ?」
怪訝そうに眉を顰めた銀時へ、噛んで含めるように。
「教師生活十年。色んなヤツと知り合ったが、惚れたのはテメェだけだ」
それでも何か不満があるか?口端を上げてそう問えば、銀時は虚を衝かれた様子でうろうろと視線を彷徨わせてから、テーブルの上のコーヒーを手に取って飲むふりで表情を隠した。
「……ありません」
完敗だよチクショー。百二十以上も年下のくせに。
ぶつぶつと呟く銀時の頬が薄赤く染まっているのを見て、土方は満足の笑みを浮かべた。
……百二十以上も年上のくせに、可愛いところもあるものだ。
土方はテーブルの向かい側に置いたカップを引き寄せながら、キスはこれを飲み終えるまでお預けかと内心で肩を竦める。
――だけど。
この男が、諦めも悟ったふりもせず、同じ目線で隣に居てくれるなら。十年、待った甲斐があった。
コーヒーを飲む時間ぐらいは、もう少し、待っていてやろうではないか。
とりあえず。今飲んでいるコーヒーが伊東から月に一度送られてくるオリジナルブレンドだということは、きっと言わない方がいいんだろうな。
土方はそんな事を考えて、こっそりと口角を上げた。
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『こいばな』をお手にとってくださった皆様、鯉の恋にお付き合いいただきありがとうございました。