烏間惟臣は、暗殺対象である超生物がどのような経緯で月を破壊するに至ったのか、すべてを知っている訳ではない。
三月には地球をも爆破すると公言している理由も、それでいて椚ヶ丘中学校3年E組の担任教師を志望した訳も、正確なところは何も知らない。
防衛省の臨時特務部から、あの超生物の監視と暗殺のために派遣されている身だ。無論、ヤツに関する情報は一通り聞かされている。
ただしそれは国がヤツについて把握できている限りの事に過ぎず、更にそれが国から防衛省のトップへ、本部長から烏間へと下げ渡されていくうちにどれほど情報量が減らされているか、それこそ烏間には知り得ぬ事であった。

いつだって、最前線に立つ者に与えられるのは最低限の情報だけだ。

だが、知らされぬからこそ推測できる事実という物も世の中には存在する。

――それは、例えば。



椚ヶ丘中学校旧校舎の教員室で、烏間は机上に並べた武器を黙って見詰めていた。 ナイフ、拳銃、マシンガン、ライフル……どれも、一般的な武装組織が使う物とは形状が異なる。烏間はその中からナイフを一本取り上げて、握って感触を確かめた。
何も知らぬ者には子どものオモチャにしか見えぬであろうナイフ。鋭利さを感じぬ色。ゴムのような触感。刃を模した部分を握っても、掌に傷すら付かない。
ただしこの素材は、マッハ20で動くあの超生物の細胞をのみ、脆く破壊する。

人体には無害で、超生物にのみ有効な武器。
そう説明して支給した時、3年E組の生徒たちは誰も疑問は感じなかったようだ。
むしろ、中学生に実銃を与えるよりは良識があると納得した様子ですらあった。

そうだ、彼らはまだ中学生だ。唐突に超生物に引き合わされ暗殺者などに任命されて、それだけで理解のキャパシティを越えただろう。そこで更に、もう一歩踏み込んだ疑問を抱けとは無理な注文だ。
……例えば。

傷を付ける事すら至難で、ましてや捕える事などほぼ不可能な、突如現れたこの世に一体の超生物。


――ならば何故、この武器の開発者は、ヤツの細胞の構造を知っている?


この不自然にE組で最初に気付くのは、やはり赤羽業だろうか。案外洞察力の鋭い潮田渚かもしれない。
気付いた時に、彼らはそこから何を推測するだろうか。
一点の不審から、知らされなかった事実を透かし見て……この国の闇を、察するだろうか。


「おや、烏間先生。こちらにいらしたのですか」

教員室の扉をガラリと開けて入って来たのは、まさにこの武器のターゲットとされた超生物だ。
時計を見れば午後四時を回っている。本日最後の授業を終えて一服に来たというところだろう。
甘党で食道楽なこの超生物は、休み時間や放課後ともなれば諸外国に飛んで行って食べ物を調達してくるのが常だ。多分また教員室の冷蔵庫に何か入れているのだろう。そう予想を立てて横目を向ければ、案の定、冷蔵庫からプリンらしき容器を取り出しているところだった。
まったく、そうやって買い食いばかりしているからすぐ給料が底をつくのだ。場違いな小言を胸の内に呟きながら、烏間は黙って目を逸らす。

「烏間先生もお茶いかがですか?」
「結構だ」

ウキウキとした声音で話しかけてくるのへ冷たく返して、不機嫌に唇を引き結んだ。
人の気も知らずに、コイツは。
そんな台詞が脳裏を過って、どんな気分だと言うのだと自問自答する。

……ああ、くそ。腹立たしい。

「おい」
「なんですか?」
「おまえの触手を一本、千切ってこちらへ寄越せ」
「はい?いきなりそんな乱暴な」

出し抜けに声をかけて、対超生物用の弾を込めた拳銃をヤツに投げ渡す。
無茶苦茶な要請をしている自覚はあったが、ヤツはちょっと不審げな顔をしただけで、まあいいですけど、と答えて自らの触手を拳銃で撃ち抜いた。
バァン、派手な音とともに千切れた触手がビチビチと床に転がるのを拾い上げて、はいどうぞ、と渡してくる。
烏間は溜息とともにそれを受け取って、武器を押しのけた机に無造作に置いた。

本当に、何を考えているのか分からない奴だ。国の武器開発者にも、こうやってアッサリとサンプルを提供した可能性もある。

重ねて言うが、烏間はこの生物についてすべてを知っているわけではない。むしろ知っている事など極僅かだ、
自分がE組の生徒たちよりも知っている事があるとすれば、ほんの少し。例えばヤツが元は人間であったらしいとかいう、事実の表面を撫でたかのような知識と。
こんな風に限られた情報しか寄越されない時は――国が何かを、隠しているのだという、経験上の直感だけ。

……チッ、烏間は舌打ちすると、徐に振りかぶったナイフで目の前の触手を突き刺した。
特殊素材で作られたナイフは触手を豆腐のように貫き崩し、ドロドロと溶かしていく。
引き抜いて、もう一度、突き刺す。溶け崩れる触手から引き抜いて、もう一度。

「にゅやッ!?な、何をしているんですか!?」
「憂さ晴らしだ」
「ひ、ひどい……」

ザシュザシュ音を立てて滅多刺しにしていると、超生物は小さな丸い目からダバダバと涙を流した。そりゃあ本人は気分が良くないかもしれないが、何に使うのかも聞かず触手を寄越した方が悪いのだ。良心などまったく痛まない。
滅多刺しを続けながら、ぐしゃぐしゃになっていく触手をじっと眺め下ろす。
ゴムのようなナイフで脆く崩れて、ドロリと溶けて蒸発していく謎の触手。
こんな触手を何本も生やした生物が、元は二本ずつの手足しか持たなかったなどと誰が信じようか。

――お前は一体、何なのだ。

国は一体、何を隠している。

お前は何故、何も語らない。


お前を殺す事が、本当に――世界を護る事なのか。


……たとえそれが嘘でも、防衛省に属する俺は、その嘘に従うしかないのだけれど。


もはや原型の無くなった触手へナイフを振り上げざま、前触れなく体を反転させて、背後の生物へ刺突を繰り出した。
普通の相手であれば完全に喉元を貫けたであろう不意打ちは、しかし、掠った手応えすらもなく躱される。
予想していた通りの結果だ。落胆はしない。
溜息を吐く気にもならずに傍らの机にナイフを置こうとすると、その手首に、ヌルンと触手が絡み付いた。

「……?何だ」

手首を掴むヒヤリとした感触に、怪訝に眉を顰める。
不意打ちを咎められるとは思わない。自分がヤツの暗殺のためにこの学校にいる事など、今更言うまでもない事実だ。今までも数えきれないほど銃弾やナイフを繰り出してきたが、それにコイツが怒った事などありはしない。眉や髪を手入れされた事こそあれ、だ。

ああ、コレも手入れの一種か。ハンドマッサージでもされるのだろうか。
暗殺未遂の報復にしては屈辱的な仕返しの数々を思い出して、ジロリと超生物を睨み上げる。
――と。
てっきり、いつもの腹の立つ緩い笑みを浮かべていると思っていたヤツが、丸い目を細めて吊り上げ、禍々しいオーラを背後に漂わせて笑っていたものだから烏間は驚いた。
こんな表情は、見たことがない。
いや、表情は普段とほとんど変わらないのだが。この、不吉な空気は、何だ。
そういえばイリーナが、初めて暗殺に失敗して手入れされた時に恐怖を感じたと、何をされるか分からぬ迫力と威圧感に身が竦んだと、悔しげに語っていた。その時の雰囲気が、コレだろうか。

知らずと息を呑んだ烏間に、超生物はニタリと笑う。

「切っ先に迷いがありますね、烏間先生」

ナイフを掴んだままの手首をキュッと締められて、片眉がピクリと跳ねる。
痛いほどの力では締められていない。眉を動かしてしまったのは、投げかけられた台詞に心当たりがあったからだ。

烏間の沈黙を肯定と受け取ったのだろう。ヤツは不穏なオーラをよりいっそう濃くして、瞬きの間に、烏間の鼻先まで詰め寄った。

「いけませんねぇ……貴方の刃には、きちんとした手入れが必要なようだ」

右手の手首は、捕らわれたまま。

幾本もの触手が、超生物の黒い服からざわりと這い出すのが、見えた。



「うわああああああ!」

旧校舎に響いた悲鳴に、グラウンドで暗殺バドミントンをしていた生徒たちはビクリと肩を跳ね上げた。

「なっ何だ!?」
「教員室の方から男の人の声と激しいヌルヌル音が!」

顔を見合わせて頷き合い、揃って旧校舎の方へ駆け出す。
ヌルヌル音がしたという事は、我らが担任にしてターゲットの殺せんせーが何かやったという事だ。それでは、先程の叫び声は一体何事だろうか。

「さっきの、烏間先生の声……だよね?」
「烏間先生が叫ぶの初めて聞いた!」
「やっぱり殺せんせー暗殺しようとして反撃されちゃったのかな……」

校舎に足を踏み入れて、ひそひそと言葉を交わしながら廊下を進む。
烏間先生と言えば、E組の生徒にとっては出会った時からずっと冷静で、暗殺の基礎をしっかり教えてくれる、厳しいけれど授業以外では意外なほどに優しい副担任の先生だ。
彼はE組の生徒が殺せんせーを暗殺するのをサポートしてくれる立場にいて、彼自身が殺せんせーに暗殺を仕掛けるのは滅多に見た事がない。まるで挨拶のようにナイフを振るったりはしているけれど、躱される事を当然と考えているようだった。

だから、烏間先生が殺せんせーに本気で『手入れ』されているところも、見たことがない。

けれど、あの冷静な烏間先生が悲鳴を上げるほどだ。何かとんでもない事があったに違いない……
教員室の前までやって来た生徒たちは、ゴクリと唾を呑み込みながら扉に手をかけた。

「先生……?」
「おや皆さん、どうしました?」

ガラリ、戸を開けると、殺せんせーはいつも通りの笑顔を浮かべて佇んでいた。
しかし視線を巡らせると、黒髪の男性が奥の机にぐったりと凭れかかるようにして肩で息をしている。
からすませんせー、と生徒の一人が声をかけたが、どうやら応える気力も無いらしい。ピクリと肩が揺れたので気を失ってはいないようだが、顔を上げる気配は無い。

「殺せんせー……烏間先生に何したの?」

遠慮がちに尋ねた渚に、殺せんせーは一瞬で笑顔を引っ込めた。

「さあ、何でしょうか」
「悪い大人の顔だ!」

表情を読ませない真顔でとぼけてみせた殺せんせーは、またすぐにいつもの笑顔に戻ると生徒たちを触手で優しく廊下へ押し戻した。

「え?殺せんせー?」
「すみません、私はこれからプリンを食べますので、暗殺希望者は十分後以降にお願いします」
「えー!プリン?私たちにも食べさせてよー!」
「にゅやっ!?ダ、ダメです!このプリンは極みの黄金という名前で、一日限定五十個の貴重な……!」
「せんせーそんなん買ってっから給料日前に苦しくなるんだよ」
「にゅ……ッ、とっ、とにかくダメです!暗殺は後で!」

痛いところを突かれた殺せんせーがムキになって生徒を追い出して、扉を閉めたのと、同時。

「――っ、殺す……ッ」

ゆらり。身を起こした烏間が掠れた声で呟くや否や、スーツの内側から電光の速さで抜いた拳銃を躊躇なく発砲した。
パンパン、パンと、続けざまに三発。それも、二発目と三発目は、超生物が弾を避けて動くであろう位置を適確に予想して。

紙一重の距離で銃弾を躱した超生物は、烏間に向き直ってニマリと笑んだ。

「真っ直ぐで容赦のない殺意、お見事です。手入れした甲斐がありました」

満足そうにニマニマと笑って、冷蔵庫の側に置きっぱなしになっていたプリンを触手が持ち上げる。別の触手でどこからともなくスプーンを取り出して、また別の触手がそわそわと容器の蓋を剥がした。

「生徒を教え導く立場の者が迷ってはいけませんよ。貴方は今は『先生』なんですから」

綺麗な黄色の滑らかな表面にスプーンを指し込みながら、片手間のように言葉を続ける。
パクリ。一口プリンを頬張って相好を崩してから、世間話の如くヤツはこう聞いた。

「さて烏間先生、貴方の任務は何ですか?」
「三月までに貴様を殺す事だ」

即答すれば、超生物の顔色は明るい朱色に染まる。

「ヌルフフフフ、出来るといいですねぇ」

目を細めて不敵に笑い声を立てながらも、パクパクとプリンを掬っては口に運んでいく。
その顔色がずっと朱色のまま、緑のしましまには変化していかないのをじっと観察して、烏間は密かに、深い息を吐いた。


殺されるのはゴメンだと、コイツは言った。
しかし本気で暗殺されるのが嫌なのであれば、ナイフをすべて躱すより、銃弾をすべて避けるより、もっと簡単な方法があるはずだ。

お前の知っている事を、全部話せばいい。
お前が元は、人間である事を。その姿になってしまった経緯を。月を爆破した理由を。
この国が隠している、闇を、すべて。
そうすればきっと、E組の生徒たちはお前に刃を向けられなくなる。

最前線の兵士たちがいつだって最小限の情報しか与えられないのは、余計な事を知ってしまえば刃に迷いが生じるからだ。
暗殺対象にとってはそれが最も有効な防御策であろうに。
何故、それをしない。何故、逆に俺の迷いを削ぎ落すようなマネをするのだ。


――なぁ、超生物。お前は本当は、殺されたいのか。


心の中でだけ、そっと問い掛けて。烏間は全身を襲う気だるさにまかせて、今は静かに瞼を下ろした。



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妄想爆発。