一.
南校舎の二階。階段を上って左手、一番奥。
朝の廊下にたむろする同輩と声を掛け合いながら、土方は教室の引き戸に手を掛ける。
ガラリと引き開ければ身を包むのは適度な喧噪と、南窓のせいか廊下より少し高めの室温。ずいぶん暖かくなったな、もう初夏か、と、土方は梅雨明けの陽光差し込む窓を見遣って手の甲で額を拭った。
そう言えば最近、朝練で流す汗の量が増えてきた気がする。二年に進級して後輩もできて、夏の試合に向けて練習内容が過熱してきたせいだと思っていたが、どうやら単純に気温によるところが大きいらしい。ああ、うちはこれからがキツイな、と、土方は夏場の防具を思い出して秀眉を顰めた。
剣道に打ち込んで丸四年経つけれど、あの暑さと臭いには未だに辟易させられる。もともと暑いのはあまり得意じゃないのだ。
それを考えると、数日前の席替えはラッキーだったかもしれない。廊下側の列、後ろから二番目の自席に腰掛けて土方は思う。
これからどんどん暑くなるであろう初夏の気候。陽がじりじりと照らす窓側を避けて、一番涼しい北端に陣取れたのは僥倖だった。
――席替え直後は、ただ一点の大きな不満に、己のくじ運の無さを心底嘆いたものだけれど。
この席も悪いことばかりではなかったらしい。土方は皮肉げに口端を歪める。
……そうとでも思わなければ、次の席替えまで忍耐力がもちそうにないというのが正直なところだ。
「おはようございます、土方さん」
緩慢な手つきで鞄から机の中へ教科書を移していると、左斜め前方が人影で陰った。
目を上げればいつの間に来たのか、クラスメイトの山崎が立っている。にこやかな挨拶に、土方はジロリと剣呑な視線を返した。
「おはようじゃねーよ山崎テメェ、朝練はどうした」
「え、しばらくはミントンの方に行くって言ってありませんでしたっけ俺。いや言いましたよね?」
土方の眼光に半歩引きながら山崎は応える。重ねて言うが、二人はクラスメイトだ。土方はダブりはしていないし山崎がスキップしているわけでもない。つまりは同い年なのだが、山崎は土方と知り合った直後からずっとこんな喋り方である。
癖なのかと思えば、誰にでも敬語だというわけでもない。何でだと問えば、「さぁ、前世の業か何かじゃないですか」と意味ありげに微笑まれた。以来、なんだか空恐ろしくて土方は深く突っ込まないことにしている。
「他部の助っ人は剣道部に支障をきたさない範囲にしろっつっただろうが」
「えええ、いやでも試合が近いんですって!今週の朝練はあっちに行くってことで近藤先輩にも許可とってますから!」
部長の名まで出しての山崎の主張に、しかし土方は全く動じることなくに鼻を鳴らした。
「別に向こうに行くなとは言ってねぇだろ。ただ、うちの練習は休むなっつってんだ」
「いやそれ同じことでしょうがァァァ!」
「両方行けばいいじゃねーか」
「分裂しろと!?俺を何者だと思ってんですかアンタ!」
ひくり、顔を引き攣らせた山崎に向かって、当然の如き口調でサラリと応える。
「早く来れば両方できるだろ。先に武道場来て素振りしてからミントン行けや」
「……お、鬼だ…」
平然たる顔で吐かれた台詞に、山崎はガクリと項垂れて呻いた。
俺 何時に起きればいいんですかそれ。抗議というよりも泣き言に近い調子で漏らされた声は、最早あきらめ半分で。あーまァ頑張れやと容赦のない声を投げかけて土方は笑った。
部長でも何でもない同級生の言葉など本来何の強制力も無いはずなのに、山崎は何故か土方の言う事には逆らわない。前世の業だか何だか知らないが、不思議なヤツだと土方は思う。思いながらも、ついつい色々と便利に使ってしまっているのだが。
……だがしかし、同輩に何の根拠もなく偉そうに命令だけしているのも、さすがに気が咎めるのであって。
「テメェが早く来るっつーなら、俺も付き合ってやらァ」
「マジですか」
あっさりと告げた言葉に目を丸めた山崎へ、土方は口角を上げて頷いた。
正規の朝練の前に自主練習。それは山崎も眉を下げた通り、相当な早起きを強いるだろう。土方とて特別朝に強い方ではない。今まで朝練には無遅刻無欠席だから部活仲間には誤解されているかもしれないが、むしろ寝起きは悪い方だ。
しかし、夏の試合のためと思えば。
部長の近藤をはじめとする三年生たちが引退するまでに、今のメンツで成績を残したいというのが土方の偽らざる本音だった。そのためならば、苦手な早起きだって何とでもできる気がする。
……なんて言うと、熱血スポ根男子のようで少々気恥ずかしいのだが。
そこまで考えて、土方は誤魔化すように視線を鞄に戻した。
実際土方は剣道部に関しては熱血と呼ぶにふさわしい情熱を傾けているのだけれど、ストレートにそうと認めるのは少々照れくさい。難しい年頃の高校男子である。
折しもHRの開始を告げるチャイムが鳴って、山崎は「わかりました、土方さんがそう言うなら」と諦観と感嘆を足したような苦笑を浮かべて自席へ戻っていった。
さて、明日から目覚ましを何時にセットすれば良いか。そんなことを考え始めて幾分もしないうちに、ガラリと教室前方の戸が開く。担任の御成りだ。
ここ二年一組の担任教師は、本日もまさに「御成り」と言いたくなるような貫禄でもって教卓に歩み寄った。
今時珍しい和服に、結い上げた日本髪。名をお登勢という。
本名は寺田なんとかという全く違う名なのだが、生徒ばかりか一部の教員の間ですら「お登勢さん」で通っている。何故なのかは土方はよく知らないが、実家が経営する店の屋号に由来しているとか何とか。
「おはようお前ら。今日も元気なバカ面さげて結構なことだね」
教壇に立つや否やのそんな言葉に、せんせーその言い方はねーよ、と教室は笑いさざめく。
口は悪くとも情が深く肝も据わっているこのベテラン教師は、おおかたの生徒たちから多少の畏れとともに慕われていた。冷静に見えて実は沸点の低い土方も、お登勢にバカ面よばわりされたところで怒る気にならない。
――これが例えば、アイツから言われた台詞だったとしたら、それこそ光の速さで怒鳴り返していただろうけれど。
土方はそこまで考えて、左斜め前の席に目をとめた。
先程まで、机の傍らに立っていた山崎に遮られていた視界。土方の席から教卓に視線を向ければ否応なしに目に入ってくるその位置は、今朝もまだ空席だ。
(あの野郎、またか)
土方が眉を顰めたのと、同時。
ガラッ
「セーフ」
大した勢いもなく開いた戸の音と、次いで聞こえた間延びした声に。土方の眉間の皺は、さらに深まった。
「セーフじゃないよ銀時、テメー毎朝毎朝、いい加減にしないかい」
「へーへー」
お登勢の呆れ声にも適当に返して、男はのんびりと教室に入ってくる。
土方は苛立ちを抑えるように頬杖をついて視線を逸らした。
こうやって、ほぼ毎日。
遅刻ギリギリの時間にだらだらとやってくる、坂田銀時という名の男子生徒のことが。
土方はハッキリ言って、大嫌いだった。
忘れもしない高一の体力テスト。
一学年合同でおこなわれたそれの最中、何故か隣のクラスの銀髪の生徒と張り合うような状態になって。
運動神経にはそこそこ自信のあった土方は……やる気なんかまるで無さそうな、死んだ魚のような目をしている男に、ことごとく僅差で負けた衝撃に打ちのめされたのであった。
いや、それだけの理由で人を嫌うほど、土方は狭量な男ではない。己より優れた能力をもつ人間に出会えば、悔しがりもするが素直に尊敬もする。
――しかし。
他の種目とは別日程でおこなわれた長距離走。
雪辱に燃えて銀髪頭の隣につけば、まるっきり初対面の相手を見る目で扱われた上に、本気を出す気なんか欠片も感じられない走りで軽く流された。
土方が許せなかったのは、むしろそちらの方である。
それ以来「気に食わないヤツ」という認識だった坂田と二年で同じクラスになって。
その印象は改善するどころか、ダラけた態度と人を小馬鹿にした言動の数々に、既に地の底へと墜ちていた。
数日前に席替えをした時には、黒板を見ると嫌でも目に入ってくる白髪頭に、己のくじ運を呪ったほどだ。
やっぱ、暑くてもアイツと離れた席の方がよかったか。
イライラしながらそんなことを考えていると、ガツ、横を通った坂田の鞄が土方の机にぶつかる。頬杖からガクリと顎が落ちて、ピキリ、土方の額に青筋が浮かんだ。
「オイこらテメェ、何か言うことねぇのか」
「あぁ?」
低く抑えた声を上げれば、坂田は眠たげな目で振り返った。
土方に不機嫌に睨めつけられて、一瞬だけ考えるようなそぶりをした後、面倒くさそうに応える。
「あーハイハイ、おはようさん。なに?挨拶なしで素通りされて哀しかったのか?高校生にもなってとんだ淋しがり屋さんだなテメェは」
「誰がだァァァ!俺ァひとこと謝れっつったんだよ!テメェの鞄が俺の机にぶつかっただろうが!」
いつも通りの神経を逆なでする言い草に、土方はついに堪えきれず声を荒げる。
「はァ?何それちっちゃ!そんなことイチイチ謝れって?人間がちっちぇーなぁオイ。うちの隣のオッサンの額ぐれぇちっちぇーよ」
「いや知らねーよお前んちの隣のオッサンとか!」
「おまっ、権田さんの額すげーんだぞ?めっちゃ狭ぇから。眉毛と生え際の距離めっちゃ近いから。ご近所中知ってるっつーの」
「テメェの近所のことなんざ知るかァァァ!」
思わず怒鳴ってしまってから、土方はグッと口を噤んだ。
ここは教室、それも朝のHRが始まろうとしていたところだ。案の定、教卓からはお登勢の怒声が飛んでくる。
「いい加減にしろっつってんだよ!テメーら出席とるから静かにしな!」
ベテラン教師の貫禄に満ちた一喝に、土方は黙って頭を下げて席に座りなおした。
坂田の「ホレ見ろ怒鳴られたじゃねーかお前のせいで」とでも言うような目には腹が立ったが、無視を決め込む。ここで喧嘩を買ってしまっては、今度はお登勢から怒声どころか拳が飛んできかねない。
くそ、全部コイツのせいだ、と、土方は小さく舌打ちした。
いささか八つ当たりじみた考えだという自覚はあったが、事実、坂田のせいが八割だ。そもそも土方は、普段はあんな小さなことで目くじらを立てたりしない。相手が坂田だから、些細なことでも盛大に気分を逆なでされるだけで。
――土方は、とにかく坂田が嫌いだったのだ。
そんな日常の、或る日の朝。
「やっべ…!」
土方は前傾姿勢で自転車を飛ばしながら、ちらりと腕時計に目を落として低く呻いた。
時刻は朝8時半。あと10分でホームルームが始まってしまう。要は遅刻ギリギリだ。土方にしては非常に珍しいことである。
今朝は昨日から続く武道場の塗装工事で、剣道部と柔道部は朝練を禁止されていた。
ここ最近、正規の朝練よりさらに早い時間に自主練していた身としては、久方ぶりの遅い起床にどうやら油断しすぎたようで。
いつもの時間に鳴った目覚ましを止めた後、うっかり二度寝してしまってこの事態だ。
「くそ…っ」
学校はもう目の前。だが敷地は高いフェンスで囲まれていて、正門はここから反対側。
土方は自転車から飛び降りると、ガシャン、フェンスに立て掛けてチェーンで繋いだ。
今日だけだ、このくらいの校則違反は勘弁してほしい。心の中で弁解しながら、サドルを踏み台にしてフェンスをよじ登る。
いつも滑り込みで教室にやってくる連中にとってはよく使う手だけれど、土方はめったにしない行為だ。それは土方が真面目だとかそういうことではなくて、単に、自転車置き場と武道場がともに校舎の北側、すなわち正門側に位置しているから、普段はする必要がないというだけなのだが。
フェンスを乗り越えて敷地内に飛び降りる。校内の南西の端。目の前に広がるのは無人のテニスコート。テニス部の朝練もとうに終わってしまっているらしい。土方は舌打ちとともに足を踏み出した。
コート整備も終わっているところを申し訳ないけれど、突っ切らせてもらおう。ここを斜めに走り抜ければ、おそらく始業のチャイムまでには教室に入れるはずだ。
――タン!
鞄を握る手に力を込めて駆け出しかけた時。
ふいに右手の方角から響いた澄んだ音に、土方は思わず足を止めた。
(――?…何の、音だ?)
喩えるなら、ピンと皮の張った太鼓をバチで鋭く叩いたかのような。
決して大音量ではないのだけど、天を高く突くような、耳というよりも胸に残る音。
土方は時間を気にしつつも右手を振り返った。
そこにあるのは。
(弓道場……)
テニスコートの隣にそう呼ばれる建物があることを、土方は今の今まで失念していた。
更に言えば、その建物が現在も使われているものであることを知らなかった。つまりは、うちの高校に弓道部なんてあったか?というレベルの認識である。
誠に失礼な話だが、己が新入生の頃に受けたオリエンテ−ションでは弓道部の紹介など無かったように思うのだが。
しかし、先程の音はあの弓道場から聞こえたもので相違ない。
誰かいるのか。土方は弓道場に向き直ると、そっと歩み寄った。
一刻の猶予も許さない状況であることを忘れたわけではないが、あの音の正体が、何故かどうにも気になって堪らない。
弓道場は剣道の道場とは随分造りが異なる。建物は横長で、何よりも、的に向かう側の壁がない。おそらくシャッターか何かで大きく開くようになっているのだろう。おかげで、土方は数歩左に移動するだけで道場内を見ることができた。
そこには男子生徒が一人。
弓を構え、ゆっくりと引き絞っている。
土方はその生徒の横顔を見て、パチリ、瞬いた。
(……坂、田…?)
道場に差し込む日光をチラチラと反射する、白銀の天然パーマ。
あんな髪色の生徒など、この高校には一人しかいない、はずだ。少なくとも、土方は他に知らない。
それでも土方が一瞬確信を持てなかったのは。彼の知る坂田という人物像と、今、目の前にいる人間の姿が……あまりにもかけ離れているせいだ。
あの、坂田が、弓を引いている。
――それも、
見たこともない真摯な目で。
パァン、乾いた弓弦の音と、微かに聞こえたヒョウと風を切る音。
そして。
タン!
再び響いた天鼓の音に、土方はドクリ、鼓動を高鳴らせながら的の方を振り向いた。
見れば、白黒で円を描かれた的に、ビン、と突き立っている二本の矢。
先程の音は、矢が的を貫く音であったらしい。
(こんな音すんのか)
土方は半ば呆然と胸中に呟いた。
(……つーか)
呆けたような表情のまま、弓道場を振り返る。
(あんな目、すんのか)
視線の先には、いつも教室で怠惰な面しか見せない男。
スッと伸びた背筋に真っ直ぐな瞳、見事に的を射抜いた矢にも緩むことなく結ばれている口元。
ゆったりとした動作で弓を下ろす。ああ、きっと決まった所作があるのだろう。肩幅より広く開いていた足を片足ずつ綺麗に閉じて、的前から退がる姿には一分の隙もなく
て。
的に背を向けた坂田が、ふ、と構えを解いたように見えたところで、土方はようやく金縛りからとけたように我に返った。
「―っ、坂田!」
「……あ?」
背に投げかけた声に、坂田は振り返ってパチクリと瞬いた。
ほぼ無意識のうちに声を上げていた土方は、何故呼びかけてしまったのか判らずに内心で動揺する。
意外そうで、かつ怪訝そうな坂田の視線に、ひょっとして道場の外から声を掛けるのはマナー違反であっただろうかと焦りも覚えて、鞄を握る手に知らず力が入った。
「……遅刻、すんぞ」
「へ?……うお、やっべ!」
動揺が見えぬように気を付けながら、無難な台詞を選べば。坂田は軽く首を傾げた後、道場内の時計に目を遣って慌てた声を上げた。
――その纏う空気がいつもの坂田に戻っていることに、何となくホッとする。
土方はそれ以上何も言わずに踵を返すと、予想外に大幅ロスしてしまった時間を取り戻すべく、昇降口を目指して全速力で駆け出した。
結局。土方はチャイムが鳴り終わると同時に教室に駆け込んで奇跡的に遅刻を免れたが、坂田は大幅に遅刻した。
HRが終わった頃になってようやく教室に現れた姿に土方は眉を顰め、一限目が始まるまでの僅かな時間に、立ちあがって斜め前の席に近付く。
「おい」
後ろから声を掛ければ、坂田は座ったまま、少しだけ驚いたような顔をして振り返った。
だが、ついさっき顔を合わせたことが頭にあるのだろう。いつものように無駄な憎まれ口を叩くことなく無言でこちらの言葉を待っている。
「……お前、なんでこんな遅いんだよ」
声を掛けたはいいものの、また何を言うべきか惑ってしまった土方は、幾ばくかの逡巡とともにそんな台詞を選んだ。
あれからすぐ走ってくれば、こんな時間にまではならなかったはずだ。
坂田はあの時、制服の上を脱いだだけのTシャツ姿で弓を引いていた。着替えに手間取るということも無さそうだ。弓道場の戸締りをして来たにせよ、少々遅すぎる気がするのだが。
坂田は土方の問いに一つ瞬きしてから、軽く肩を竦めてあっさりと答えた。
「まぁ、すぐ出れたなら間に合ったかもしんねーけど。片付けが色々あんだよ。矢ァ拭いたり安土整えたり」
「アヅチ?」
「あー…アレだ、的の後ろの、土の…壁?みてーな」
「ああ」
耳慣れない単語に眉を寄せた土方に、坂田は言葉に迷うそぶりを見せながら説明を加える。
土方は先ほど目にした弓道場を思い返して頷いた。そう言われれば、あの白黒の的の背後には茶色い土が盛られていた気がする。
「矢がガスガス刺さるから練習終わると穴だらけなんだよアレ。それ整えんの」
「へぇ」
「ぶっちゃけ面倒くせーんだけど、ちゃんと片しとかねーとヅラがうるせーし」
「…ヅラ?」
再び発せられた耳慣れない言葉に、土方は少しためらってから聞き返した。
何か言うごとに聞き返されては面倒がるかと思われた坂田は、特に嫌な顔をすることもなくサラリと答える。
「桂。二組の。知ってんだろ?」
二組の桂。端的な坂田の回答に土方は隣のクラスを思い浮かべて、一秒ほどの沈黙の間に該当する人物を思い出した。
桂、下の名前は何だっただろうか。同じ組になったことはないから親しくはないが、一年の頃から色んな意味で目立っていた生徒だから顔は知っている。言動は真面目らしいのに、校則をまるで無視した見事なまでの長髪の男。
「ああ……あれヅラなのか」
「いや違ぇよあだ名だよ。や、ひょっとしたら被ってるかもしれねーけど。なにお前天然?」
「誰が天然だ」
ムッとした口調で言い返せば、坂田は呆れたような面白がるような微妙な表情で口を開きかけたが、それ以上は言いつのることなく目を逸らしてガシガシと頭を掻いた。
本気で天然かコイツ、意外だなオイ。そんな呟きが聞こえた気がしたが、聞き咎めた土方が抗議するより早く、坂田がこちらへ視線を戻す。
「ってかオメー、なんであんな時間にあんなトコいたんだよ。部活はどうした。サボリですかコノヤロー」
「サボるか!」
即座に怒鳴り返した土方は、テメェと一緒にすんな、と続けかけて咄嗟に口を噤んだ。
脳裏を過ったのは、弓を引く坂田の真剣な瞳。
――今まで自分が知っていたのは、いつも眠たげで死んだ魚のような目をしている、授業も部活もサボれるものなら極力サボりたがるような、そんな印象の男、だったのだけれど。
「…塗装工事のせいで今朝は武道場全面使用禁止なんだよ」
「へぇ。そりゃ残念だったな」
何のてらいもなく返された台詞に、意外の念を禁じえず土方は軽く目を瞠った。
「残念」とは。部活の朝練が否応なく休み、なんて事態、これまでの坂田のイメージだったら、「ラッキーじゃねぇか」とでも言いそうなところなのに。
コイツ、部活には意外と熱心なのか。
そう思った瞬間に、ドクリと沸き立った心臓は。
土方自身が部活野郎であるが故の、共感による昂揚か。
それとも、知っていると思っていた相手の知らぬ一面に――驚いて、動揺したのか。
たぶん両方だ。土方は僅かに速まっている鼓動をそう決め込んで、坂田をじっと見下ろした。
弓を引く坂田の瞳が瞼の裏から離れないのも、きっと。
思わぬところで見た光景が意外すぎたせいで、うっかり印象に残ってしまった、だけだ。
「……お前」
「あん?」
「いつも、あんな時間まで朝練やってんのか」
あんな真剣な目をして、時を忘れるほどに。
だからいつも遅刻ギリギリで来るのか。言外に、そう問えば。
「……あー…ま、いいだろ別にそんなこと。どうでも」
バツ悪そうにガシガシと頭を掻きながら目を逸らした坂田は、照れを隠しているようにしか見えなくて。
そうか、コイツは努力を人に見られるのが嫌いな質なのだ、と。
土方はこの日、坂田の認識を変えた。
翌朝の剣道場。
朝練を終えた土方は、道場の清掃が終わるや否や部室に飛び込んで着替え始めた。
少し遅れて部室に入ってきた近藤は、既にほぼ身支度を終えている土方を見て目を丸める。
「なんだ?トシ、何か用事でもあんのか?」
「悪ィ、ちょっとな!」
幼馴染とはいえ今では先輩に当たる相手に思わずタメ口で応えてしまって、土方はバツの悪い顔をしながらも部室を飛び出した。戸口で擦れ違いざま、近藤には目で詫びておく。
「その辺の段差に躓いて転べ土方」
「お前が転べ!」
一つ下の後輩でこれまた幼馴染の沖田には、いつも通りの雑言に即座に怒鳴り返す。それでも、いつものように振り返って立ち止ることはしなかった。
武道場脇の部室から、ダッシュで南へ。
昇降口を素通りして校舎を回り込み、目指すは校内の南西の端――弓道場。
テニス部がコート整備をしている横を通って行けば。
――タン!
今日も、聞こえる音。
土方は道場の中が見える位置で立ち止った。
道場内では、昨日と同じ、一人で弓を引いている坂田の姿。
上がった息を整えながらその挙動を見詰める。
坂田の目はやっぱり真剣で。
門外漢の土方にも、その射は美しいのではないかと思えた。
――タン!再び的を震わす音。
胸の内に心地よく響いて忘れ得ないその音に。
アイツが外すことってあるのだろうか、と。まだ数射しか見てもいないくせに、馬鹿げたことを土方は思う。
弓を下ろした坂田が、的前から退って構えを解いた。
それを見計らって、土方は一つ、深呼吸してから声を上げる。
「坂田!」
土方の声に、坂田は驚いた様子で振り向いた。
坂田の目がきちんとこちらを認識したのを確認してから、土方はもう一声、投げかける。
「時間やべぇぞ!」
その言葉に、慌てて時計に目を遣った坂田に満足して。
土方はそれ以上何も言わずに、校舎へ向けて踵を返した。
それ以来、朝練が終わってから坂田の一射を眺めて声を掛けるのが、土方の日常になった。
「銀時、先にゆくぞ」
「おー」
「終わったらきちんと安土を整えるようにな。モップがけも忘れるなよ」
「うっせーな。いつもちゃんとやってんだろ」
弓道場を出る間際になって戸口でごちゃごちゃと言ってくる男に、坂田はユガケを右手に嵌めながら苛立った声を返した。
「遅刻はせんようにな。時計はちゃんと見るのだぞ」
「うっせーっつってんだよ!お前は俺の母ちゃんか!」
「大きい声出すんじゃないの!もおぉー、こっちはアンタを心配して言ってるんじゃないのぉ!」
「余計なお世話なんだよ!やめろその母ちゃん口調!」
立ち上がって弓を手に取りながら思わず怒鳴る。道場は本来静謐であるべきなのだが、うちの場合、自主練習の時間はそれなりにフリーダムだ。
だが残念なことに、怒鳴られた男…桂は、まったく動じた様子も見せず言葉を続けた。
「しかし銀時、最近熱心なのは結構なことだがな、遅刻ギリギリまでやるくらいならもう少し早く来たらどうなのだ」
俺は七時半からやっているのだぞ。八時も十五分を過ぎる頃にやってきては練習し足りないのも当然だ。そう説教を垂れ始めた同輩に、坂田はちょっと言葉に詰まる。
確かに、自分は朝練の開始時間が遅い。それはわかっている。わかっているのだが。
「……眠ぃんだよ」
「まったく、早起きは三文の得という言葉を知らんのか」
ボソリと返した坂田の応えに、桂は呆れた溜息を一つ吐いてから、……だが、と言葉を継いだ。
「まぁ、自堕落な貴様が毎日朝練に来るようになっただけでも進歩というものだな」
「…………」
その、桂の言葉に。
坂田は無言のまま目を逸らして、的前に入ることで沈黙を誤魔化した。
桂はそれ以上は何も言わずに弓道場を出て行った。坂田の様子に会話する気が無いことを見てとったのか、それとも単に遅刻を懼れたのか。おそらく後者だろう。
坂田はようやく誰もいなくなった弓道場で、やれやれと一つ息を吐いた。
あの日。
朝は一分でも長く惰眠を貪っていたいタイプの自分が、何の気紛れか、朝練に顔を出した日だった。
夕方の部活には一応毎日出てはいるけれど、朝に弓を引くのは久々で。澄んだ空気に的を射抜く音が響くのが思ったよりも心地よくて、ついつい時間を過ごしてしまった時。
何の因果か、たまたま通りかかったらしいアイツに目撃された。
(……で、完っ全に誤解したよな、アイツ)
坂田がいつも遅刻ぎみなのは、毎朝熱心に部活に励んでいるためだと。
まあ、坂田は確かに、部活に関しては授業の五割増しぐらい真剣ではある。それでも土方に思われたほどには、情熱的に練習しているわけでもなくて。
いや違うから誤解だから、と、ひとこと言ってやろうかとも思った……のだ、が。
でも、何となく。
いつも眉間に皺を寄せて、何かと言えばこちらに突っかかってくるアイツが――驚いたように目を丸めて。
あからさまに見直しました、という視線を向けてきたのが、なんか、悪くなくて。
気分にまかせて珍しくも連日朝練に行ってみれば、どういうわけだか声を掛けに来た土方。
以来、引っ込みがつかなくなって毎朝来ている。
……土方も、毎朝声を掛けに来る。
どうにも早起きは苦手だから、他の部員が練習を始める時間には間に合わないのだけれど。それでも何とか毎朝顔を出して、他の部員が出て行った後までやるようにしている。
……土方が声を掛けに来る時間までは。いるようにしている。
結果、後片付けを一人でやるハメになるのは正直面倒なのだが。
でも、何故だろう。
弓道なんて余所事に気を取られたら最後、たちどころに射型が崩れるはずなのに。
アイツが見ている射は必ず中るのだ。
パァン、放った矢は的の前に僅かに外れて、坂田はほんの少し眉を顰めた。
チラリと壁の時計に目を向ける。
――土方が来るまで、あと五分。
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弓道部×剣道部。芽生え的な。
一周年企画リク、「幼馴染じゃない同級生」「銀土同級生で純情っぽいなれそめパラレル」
今後、連作形式でちまちま進展させていく予定です。まったり更新になると思いますが、お付き合いいただけたら幸い!
※ユガケ(漢字変換したら文字化けしたのでやむを得ずカタカナ…):右手に嵌めて、弓の弦を引っ掛けて引くための皮手袋のようなもの。ウィキとか見ると写真が載ってます。