三日に渡る闘いもついに最終日。最後の勝負の開始まで、あと15分。
そんな時に、そいつは控室にやってきた。


「よ」

ノックもせずにドアを開いた男を一瞥して、土方は眉を寄せて舌打ちした。

「……テメー、何しに来た」

不機嫌な声音で言い放って背を向け、鏡に向かってわざとらしくコックコートの襟を正す。
言外に、帰れ、と言っているのを充分に分かっているだろうに、男はまったく頓着することなくズカズカと部屋に踏み入ってくる。それを鏡越しに見て、土方はまた舌打ちを一つ。
鏡に映っている白髪天然パーマの男は、相変わらず覇気のない目で、へらりと緩い笑みを口元に刷いていて。
その佇まい、すべてに神経がピリピリと刺激されて、土方は更に深く眉間に皺を寄せた。

――今は。コイツにだけは遭いたくなかったのに。

きちんと結んであったパティシエエプロンの前紐をほどいて、一段と丁寧に結び直してから。ギロリと肩越しに視線を送る。

「テメーは今年は出てねぇだろうが」

低い声で、まるで責めるように。
こちらの不機嫌がせいぜい伝わるよう、とげとげしい口調で言ってやれば。

男はパチリと一つ瞬いて、それからニタリと嫌な笑みを浮かべた。

「なに?不安になっちゃった?安心しろ、もちろん俺は出ねーから。お前の金賞を阻む最大の壁は今年はいねーから。よかったなーオイ初優勝できるかもしんねーぞ?俺が出ないおかげで」
「あああうるっせェェァア!!」

腹の立つ事を腹の立つ口調でのたまう男に、土方はついに切れて振り返った。
そこにいるのは、改めて見るまでもなく、上から下まで気の抜けた私服の男。
見慣れたコックコート姿ではない……完全なオフモードの男の姿に、土方は落胆と失望が綯い交ぜになった感情に奥歯を噛みしめた。

今更だ。
今年はコイツが出ないことなど、一日目の一次予選が始まった時から――
否、本当はもっと前から知っていたのに。


この男、名を坂田と言う。
実は数年前まで土方と同じパティスリーで働いていた……一応、先輩に当たるパティシエだ。


土方が三年前に製菓学校を出て、初めて就いた職場。坂田はそこで既に、新作ケーキの開発を任されるほどの立場に居た。
彼の腕は、名門製菓学校を優秀な成績で卒業した土方から見ても確かなもので。大胆な発想と繊細な技術の同居に、素直な感嘆を覚えて向上心を刺激されたもの、だったのだが。

土方にショックを与えたのは、坂田がその店に入るまでは製菓の勉強など欠片もしたことのない素人で。
それも最初は販売のアルバイトとして雇われたのだという事実だった。

単に甘味が好きでケーキ屋のバイトに応募してきた坂田は、ひょんなことから厨房の手伝いに入り、そこで驚くべき才能の片鱗を見せて当時のシェフ・パティシエの目にとまったのだとか何とか。それからたった数年で、そこらの職人では敵わないような最高級の技術を身に付けているのだからとんでもない話だ。
製菓学校出身の土方にとっては信じ難い事で、己の技術が坂田に敵わぬことが……そう認めざるを得ないことが、堪らなく悔しかった。坂田本人が、普段は死んだ魚のような目をしたダラけた男であるものだから、尚更。

だから、いつか越えてやると。
一方的に、ではあるが、ライバル視してきたというのに。

年に一度のこのコンクール。
この国で行われるパティシエ・コンクールの中では歴史は浅いが、比較的ルールの自由度が高く、毎年多くのエントリー者の中からパティシエ界の鬼才を発掘してきた人気の大会だ。
坂田はここで、他を寄せ付けぬ強さで三連覇。
今年に至っては、「若手にチャンスを与えてほしい」と審査員側から出場の自粛を求められたのだ。異例中の異例である。

「出場もしねーくせに何しに来たんだっつってんだよ!」

苛立ちも顕わに吐き捨てる。
まさか審査員席に座るとか言わねーよな。己の脳裏を過った考えに、土方は目の前が眩むような思いがして拳を握りしめた。
コイツに審査されるなんて腹立たしい……という以前に。
そこまで差を付けられているとしたら、正直ヘコむ。

坂田は土方と年齢はそう変わらない。製菓の勉強をしている年数だって、製菓学校時代も入れれば同じぐらいのはずだ。
それなのに、何故こうも実力に開きがあるのか。最初から現場で鍛えられた者と学校で教わった者の違いか、それとも、持って生まれた才能の差か。

ぐつぐつと、腹の底が煮えるような感覚に鳩尾に手を当てる。
この中でコンポートでも作る気か俺は。では、煮えているのは劣等感という名の果実だろうか。
己らしくもない自虐的な考えに、苦く口元が歪んだ。

そんな土方の胸中など露知らず。坂田は何を問われているのか分からないという顔で、アッサリと答えた。

「は?何ってお前、決まってんだろーが。応援に来たんだよ」
「……あァ?」

応援?誰のだ。まさか、俺のか。
土方は思いもよらぬ言葉に一瞬唖然として、それから胡乱げに眉を顰めた。

確かに、今は別の店に勤めているとはいえ、土方は坂田の後輩に当たる。そう考えれば、応援、というのもさほどオカシな話ではないのかもしれない……が。
その態度のどこが応援なのか。むしろ神経を逆撫でしにきたとしか思えないんだが。

疑惑と非難を込めて眇目で睨めば、坂田は逆に呆れたように肩を竦める。

「オイオーイ、何ですかその眉間の皺は。本選前でナーバス?そんなメンタルじゃ金賞は狙えねーぞ土方。もっと図太くいけ」
「うるせーよ。ガトー・デコレの課題に堂々とパルフェ出しやがったテメーと一緒にすんな」

テメーの存在がナーバスな気分にさせてんだよ、とはさすがに言えず、土方はそう言い返した。

あれは三年前のパティシエ・コンクール。初出場の坂田は、デコレーションケーキというテーマが課された本選で、あろうことか見事なパフェを作り上げたのだ。
このコンクールはかなり自由度が高いとはいえ、さすがに課題を無視していいはずがない。当然眉を顰めた審査員に向かって、ふてぶてしくも「文句を言う前に食べてみて下さい。二度と同じ口がきけますかね」と言い放ち、あまつさえ、結局そのパフェで金賞を掻っ攫ったのだからめちゃくちゃな男だ。

坂田曰く、グラスを使ってパルフェ風に盛り付けただけで中身は立派なガトー・デコレだから反則ではないとか何とか。そういう問題ではないと土方は思う。
初出場で反則ギリギリの事をやってのける心臓もさることながら。そもそも、不利なはずなのだ。そんなやり方は。

飾り立てる場所をパフェグラスの中に限定してしまったら、パイピングも飴細工もマジパンも、チョコレート細工の技術さえもほとんど活かしようがない。他の出場者たちは、自分の得意分野を活かせるデコレーションをデザインして、その技術の高さを最大限にアピールしようとしていたのに。
本選の出品作品はサイズも大きく、パッと目を惹きつけるような煌びやかなものが多かった。デコレーションケーキという大きなくくりの他に何も縛りがなかったのだから当然の話だ。主催側だって、どどんと大きなケーキが出揃うことを想定していただろう。

その中に、小さなパフェグラスひとつ。

純粋に、味で。
他を圧倒したのだ。この男は。

土方が店を移ったのは、その直後である。
このまま同じ店に居ても、自分はコイツの後を追うばかりで追い越すことはできない……そう思ったから。


あれから三年。
今の店では随分評価を得て、新作ケーキの開発だって任せられるようになったが。坂田にはコンクール本選で二連敗。
今年こそはと思ったのに……コイツは出もしない。

……既に、同じ土俵で戦える相手じゃないとでも言うのか。

ふざけんなクソ、俺はそんなん認めねーぞコラ。沸き上がる悔しさと腹立たしさに歯を食いしばって坂田から目を逸らす。と、坂田はそんな土方の様子をどう受け取ったのか、軽く苦笑してポンと肩を叩いた。

「まァそう固くなんなって。心配すんな。お前のショソン・オ・ポムは芸術品だよ?横にマヨクリームとか添えなきゃ。エクレール・オ・ショコラだって大したもんだって。マヨソースでデコレーションするのさえやめればな!おっまえ何なのあのマヨへの飽くなき探求心!悪ィこと言わねーからもうマヨとスイーツのコラボは諦めろ!つーかアレ客から苦情来ねーの!?」
「アレはテメーの限定のスペシャリテだ」
「俺にだけ出してんのかアレェェェ!何それ嫌がらせ!?ちゃんと金払ってる客に対して嫌がらせですかコノヤロー!あのクリーム避けて食うのどんだけ大変だと思ってんだ!」

嫌がらせはどっちだ。声には出さずに土方は呟いた。

土方が今の店に移ってしばらくしてから、何故だか坂田が月に一度、必ずイートインしに来るようになった。
焼菓子と生ケーキを一種ずつ。それもどうやって見分けているのか、土方が仕込みから仕上げまで一貫して担当したものだけを狙ったように注文してくる。
土方には、それが嫌がらせにしか思えなかった。
普通に考えれば、店を離れた後輩の成長を見守る先輩パティシエの図……なのだろうが、生憎と坂田はそんなマメな男ではないし、そもそも土方は坂田に温かく見守ってほしいなどとは思っていない。

追い付き、追い越したい。
対等な職人だと――願わくば、ライバルだと。思われたい、のだ。

それなのに。まだ坂田の作品には敵わぬと自分でも思っているものを、他でもない坂田に食べられるのが、どうしても堪えがたくて。
結果、彼のイートインにだけ特別なデコレーションをするようになったのである。
嫌がらせではない。土方にとってはアレが至高のデザートだ。ただ、残念ながら一般には……坂田を含む他の人間には、不評なのは分かっているが。

見るからに口に合わないクリームが添えられていたら、食べずに帰るかと。
もしくは余分なデコレーションをされないように、イートインをやめてテイクアウトにするかと、思ったのだ。
自分の作ったものを食べた坂田の反応を、まだ、見たくなかったから。

だが、坂田は文句を叫びつつもクリームを避けて完食し、その後も月一で店に通い続けている。
坂田の意図が、土方にはさっぱり分からなかった。

――分からないからこそ、腹が立つ。

土方は深く溜息をついて、ドカリと椅子に腰を下ろした。

「……チッ、もうあと10分かそこらで始まっちまうじゃねーか。こんな直前に邪魔しに来やがって」
「だから邪魔しに来たんじゃねーよ。応援に来たっつってんだろ」
「本選直前の控室に押しかけて何が応援だ。集中力切れるわ!」
「だーいじょうぶだって。お前はやればできる子だよ。今回は俺が出てねーしな」
「しつけェェ!!その嫌味は一回で充分なんだよ!」

坂田には勝てない。その事実を本人に指摘されることが、土方にとってどれほど堪えるかコイツは分かっているのだろうか。
……クソ、と、俯いて口の中で呟く。こんな精神状態で本選に臨まなければいけないなんて、最悪だ。
グシャリ、片手で黒髪を掻き乱しながら溜息を噛み殺せば、一向に出て行く気配のない坂田は、まるで心外だとでも言いたげな声を発した。

「別に嫌味じゃねーよ。お前が俺以外に負けるとかあり得ねーだろっつってんの。つーか負けたら許さねーから」
「…………は?」

頭上から降ってきた予想外の台詞に視線を上げる――と。
そこにあったのは、思いのほか真摯な目をした坂田の顔で。

「金賞、獲ってこいよ土方。で、俺の店に来い」

間違っても軽口で片付けることなど出来ない口調で、そう言われて。

土方は、思わずぽかんと口を開けた。

「……俺は、あの店に戻るつもりは」
「違ェよ、あそこじゃなくて」

前にいた店を思い浮かべて口を開けば、言下に否定される。
当惑して見上げると、坂田はどこか照れくさそうに、ポリポリと首の後ろを掻いた。

「俺、独立すんだわ」
「え」
「ま、ちっせー店だけど。でも色々売りてーんだよ。正統派の伝統菓子から斬新な新作スイーツまで幅広くな。……でもそれだと、俺ひとりじゃ作り切れねーから」

だから、お前に来てほしいっつってんだよ。

早口で、面白くもなさそうな口調で。
それでも、珍しくも直截的な言葉を紡ぐ坂田を、信じられないものを見るような気持ちで土方は眺めていた。

「オメーの作ったショソン・オ・ポム、俺の店に並べてーんだけど」
「――!」
「あ、マヨクリームは無しでな」

思い出したようにちょっと眉を寄せながらもフッと笑った坂田に、ドクリ、土方の心臓が高鳴る。
坂田はガシガシと頭を掻きながら、更に言葉を続けた。

「ま、俺ひとりでも作れねーことはねーんだけどね。フィユタージュとかはお前が作った方が……っていや違うから別に俺が負けてるとかじゃねーから!俺だって本気を出せば完ッ璧なフィユタージュ作れるけどね!アレだ、一つぐらいオメーが胸張れる分野を残しといてやろーかなっつー俺の優しさ……」

言い訳するようにグダグダと吐かれた台詞に、目を瞠る。
――そういえば前の店でも、フィユタージュ……つまり折り込みパイ生地はずっと自分の担当だったし、確かに得意分野だと言う自覚もあったが。

知らなかった。
コイツが、そんなに俺のパイを評価していたなんて。

ドクドクと、眩暈がしそうなほどの心臓の音と、ぶわり、急上昇した体温。
見上げれば、未だに目を逸らしてブツブツと呟いている――どこかほんのり、悔しげな坂田の顔。


――なんだ。

なんだ、そうか。

コイツはずっと、ちゃんと対等な職人として俺を見ていたのか。
ただ俺が、勝手に劣等感を覚えて焦っていた、だけなのか。


そう思ったら急に、泣きたいような笑いだしたいような気分になって。
土方は、坂田に声をかけた。

「――坂田」
「あ?」
「よろしく、頼む」

お前の店に行く、と。
そう言う代わりに、右手を差し出せば。

坂田は一度、目を瞬いてから。気怠げな瞳の奥に隠しきれぬ歓びを湛えて口角を引き上げた。

差し出した手を取られ、そのままグイと引いて立たされる。
すぐに離れた坂田の右手は、パシリと軽く土方の背を叩いた。

「時間だぜ。行ってこい」
「おう」
「金賞、獲れよ」
「テメーに言われるまでもねぇ」

――それに、今なら誰にも負ける気がしねぇ。
心の中でだけそう呟いて、ニヤリと不敵に笑ってみせる。
すると坂田もそれに応えるように、ニヤリと楽しげな笑みを浮かべた。

「ヘマすんなよ?金賞夫婦の店ってのがハクつくんだからな」
「あァ…………あ?」

深く考えずに頷いて。
控室の扉を開けようとした手が――ピタリと止まる。

――今、何か。

変な単語を、聞かなかっただろうか。

「…………夫婦……?」
「ん?……ああ」

聞き間違いか、それとも単なる比喩表現か。
ゆっくりと振り返った土方が、おそるおそる、訪ねれば。

坂田はちょっと首を傾げてから、納得したように頷いて。
まるで、安心しろ、とでも言うような穏やかな笑みを浮かべて……こう、答えた。


「そうだな。ウェディングケーキは二人で作ろうな」
「聞いてねぇし言ってねぇしそういう問題じゃねェェェェ!!」


控室に絶叫が響いたのは、本選開始の5分前。
当然、その場は会話もそこそこに会場に向かわざるを得ず。


月一で店に通って来ていたのが坂田なりのアプローチだったのだと土方が知るのは、混乱に堪えながら何とか金賞を獲ってきた後のことになる。




「わかるかァァァ!!口で言え!口で!」
「誰がそんなこっぱずかしいマネできるかァァ!甘いのはスイーツだけで充分なんだよ!」




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一周年企画リク、第…何弾?十弾かな。
『パティシエ銀土で新人コンクールに出る土方さんにエールを送る先輩銀さん(一昨年金賞受賞)エールついでに婚約まで取り付ける銀さんとか…』
…で、ございました。
えと、微妙にリクに添ってなくてごめんなさい。そもそも新人コンクールじゃないし、銀ちゃん一昨年どころか三連覇っていう…

製菓業界についてはド素人なので、色々オカシイと思いますすいません!ツッコミは勘弁して下さいませ!
参考書はYしながさんの西○骨董洋菓子店です。

素敵なリクエスト、どうもありがとうございましたー!