サイコロをテーブルに放った時、無造作な仕草ながらも土方は警戒していた。
 万事屋が何の脈絡も無く「振ってみろ」と仕向けてきたコレが、ただのサイコロであるはずがないのだ。何か特別な代物である事は間違いない。危ないモンじゃないからビビらなくていい、なんてあからさまな挑発だ。挑発だと分かっていて乗ってしまった自分も大概バカだが。
 しかし、危険な物ではないというのは嘘ではなかろうと思うのだ。
 元攘夷志士で、胡散臭くて、実力の底が知れなくて、何を考えているやら読み難い男だけれど。決して友好的な間柄ではなく、いつだって実にムカつく野郎なのだけれど。それでも土方はこの坂田銀時という男を「敵ではない」と認識している。
 本当に危険な物を騙して押し付けてくる事はない。そう信じているから、あえて挑発に乗った。けれど百パーセント無害な物だとも思っていない。冗談で済ませられる程度の何らかの事態が起こるのであろうと予測していた。
 テーブルの上を転がったサイコロは三の目を上にして止まる。
 数秒間ほど身構えてそのサイコロを見詰めていた土方は、時に何も起こらぬ事を訝しんで視線を上げた。一体何なんだ、と問おうとして、目を瞠る。
 ピピッと微かな音を立てて視界に突如照準器のようなマークが出現したかと思うと、向かいのソファに座る男の両眼がピンクの絵の具で丸く塗り潰されるかの如く覆い隠されたのだ。
 間を置かず、喉仏から胸元にかけても青い丸に覆われる。何だコレは、まさかこのサイコロのせいか。動揺して固まっていると万事屋の唇がフッとやわらかく弧を描いて、今度はそこが黄色く塗り潰された。本当に何なんだコレは。
 唖然と目の前の光景を眺めていれば、万事屋は身を乗り出してテーブルに頬杖をついた。

「あのな、土方くん。このサイコロ……」

 空いた片手でツンとサイコロを軽くつつく。こちらを覗き込むような角度で顔を向けながら投げかけられた台詞はいやに楽しげだけれど、両眼と口元が奇妙な丸に隠されてしまっているせいで表情が見えない。
 やはりサイコロが原因なのか。黙って続きを待てば、万事屋が微かに笑ったのが吐息の音で知れた。

「出た目の数だけ、『欲情する部分』が目隠しされる道具、なんだけど」
「…………は?」

 告げられた言葉が咄嗟には理解できなくて目を瞬く。
 そんな土方に、万事屋はまた少し笑った。

「で、オメーはどこが隠されちゃってんの?土方くん」

 やわらかに、それでいて悪戯っぽく。からかうように紡がれた台詞を呑みこんだ途端、土方はカッと目を見開いて声を失った。
 ――何を、言っているのだ。この男は。
 転がすだけで欲情する場所が目隠しされる。そんな荒唐無稽な代物があって堪るものかと反駁しかけて、天人の技術であれば可能かもしれないという考えに至って愕然とする。今、自分の視界に不可解な目隠しが現れている事は事実なのだ。
 土方は呆然と眼前の男を見詰めながら片手で口元を覆った。幾度瞬きをしても、男の両眼と口と喉を覆うカラフルな丸は消えてはくれない。  欲情、などと。そんなバカな。
 確かに、確かに自分はこの男のことを憎からず思っている。「敵ではない」なんて控えめ過ぎる表現だ。非常時にこの男と背中合わせで戦う事に何の不安も覚えないぐらいには信頼しているし、ずば抜けた剣の腕には正直憧憬に似た感情も抱いているし、いつだって周りを護ろうとしている優しさに、哀哭や寂寥を抱えながら決して表には見せようとしない強さに、惹かれていないと言ったら嘘になる。
 そうだ。包み隠さず本音を言えば、土方は坂田銀時という男がずっと前から好きだった。だがそれは人間として、男として、侍として好意を抱いているのであって、欲情、なんて感情ではない――はずだ。
 そのはずだった、けれど。
 今、己の視界を遮る目隠しを見ていると徐々に自信が揺らいできて土方は拳を握り締めた。
 平素は半分死んでいるかのような瞳が煌めく瞬間に鼓動が高鳴った。いつも憎たらしい言葉ばかりを吐く唇が、たまに穏やかに綻ぶと落ち着かない気分になった。喉仏から胸元にかけて晒されている肌の男らしさに、そういえば自分は時折ドキリとしていたように思う。
 アレがひょっとしたら、欲情していたという事なのだろうか。
 自分は『そういう意味』で……この男を、好いていたのだろうか。  混乱に陥りそうな頭を必死に回転させてそこまで考えたところで、ふと重大な事に気付いて土方は一気に青褪めた。
 ――万事屋は何故、土方にサイコロを振らせたのだ。

 先程の口ぶりでは、この男は土方の視界の何処が目隠しで覆われているのか半ば以上の確信を持っている……つまりそれは、万事屋は土方が『そういう感情』抱いていると見抜いていたという事ではないか。  自分では気付いていなかったけれど、あちらにはそんなにもハッキリ分かってしまうほどに欲を孕んだ目で万事屋を見ていたと、そういう事ではないか。

(自覚して、自重しろ……ってこと、か……?)

 サイコロを振らせた意図をそう解釈して土方は背中に冷たい汗を伝わらせる。  万事屋は優しい。ドSでデリカシーが無いのも本当だが、根っこは気遣い屋でお人好しだ。
 あからさまな情欲をこめた視線を投げかけていた土方の気持ちを頭から拒絶する事はしないのだろう。土方自身が自分の感情に気付いていない事すらも見抜いていて、やんわりと釘を刺してくれたという事だ。
 ……なんてこった。とんだ気を遣わせてしまった。

「……悪ィ」
「ん?」
「今まで、悪かった。これからは気を付ける」

 鈍感な自分が恥ずかしくて申し訳なくて居た堪れない。せめて今後は迂闊な視線を送らぬように、万事屋にこれ以上不快な欲を感じさせぬようにせねばとだけ決意を固めて、手短に謝罪して席を立つ。
 じゃあな、と逃げる如く出て行こうとすれば、背後から慌てた声が追って来て腕を掴まれた。

「ちょっ、ちょちょ、ちょーっと待ったァァァ!違う違う違うから!土方くん絶対なんか誤解してるから待ってくださいコノヤロォォォ!」

 掴まれた腕を馬鹿力で引っ張られて、踏ん張りきれずによろめいたところをソファの上に突き飛ばされた。背もたれに後頭部をぶつけて反射的に抗議しようと顔を上げれば、思いのほか近くに万事屋の顔があってのけぞる。
 万事屋は土方の頭の両脇に手をついて、逃さぬと言わんばかりにソファに閉じ込める体勢をとっていた。

「あのな。俺はここ一ヵ月半、まともにオメーの面見られてねーんだよ。せっかく久しぶりに見たっつーのに来て三分で帰られちゃ堪んねーから。勘弁してマジで」
「……あ?」

 ピンクと黄色の丸に覆い隠された顔から苦しげな声が聞こえて目を瞬く。
 何を言っているのかサッパリ分からぬという内心を無言裡に察したのだろう。万事屋は寸の間沈黙してから、土方を閉じ込める姿勢は変えぬままで片腕だけをテーブルの上に伸ばした。
 コロン。指先でサイコロを弾いて転がす。その音に思わず目を遣った土方が視線を戻すのを待ってから、徐に囁くような声を零した。

「――両眼が見えねェ」

 いつも真っ先に隠れんのはオメーのその眼だよ。
 万事屋はそう言うと、再度テーブルの上に手を伸ばした。
 サイコロを摘まみ上げて手元に持ってくると、ソファの上にポトリと落とし、拾ってはまた落とすを繰り返す。

「口も見えねェ。耳も。ほっぺたも。今、喉が見えなくなった」

 次々に投げかけられる台詞に理解も追いつかぬまま片手で喉を覆えば、ああ、その手も隠されちまったな、と何でもない事のように万事屋はのたまう。

「腕も、脚も、胸も……見えねェ。もう、何も見えねーよ、土方」

 するり。頬を撫でながら紡ぐその声音が苦しげと言うべきか……いやむしろ、切なげ、であることに、土方は訳も分からずゴクリと唾を呑み込んだ。
 ……嘘だ。ちゃんと分かっている。
 この男が、何を言っているのか。自分が何を「誤解している」と言われたのか。
 分からないのは、それを知った自分が一体、どうすればいいのか。どうしたいのかだ。

「身体だけ、とか言うなよ。違うから。オメーの身体だけが転がってたって目隠しなんか絶対ェ出ねーから」

 俺ァ最初にサイコロを振った時から、お前が隠されてた。
 万事屋はそう言うと頬から首筋を通って喉元へとそっと撫で下ろして、それから手を離した。

「……ひいた?」

 目元も口元も、隠されてしまって見えない。
 けれど万事屋のその声から、男の逡巡や仄かな不安が伝わってきて土方の胸中を一層掻き乱す。

「……ひ、かねぇ」

 一瞬の躊躇の後にそう答えてしまったのは、果たして間違いではなかっただろうか。
 ドクドクと心臓がうるさく鳴って、頭にひどく血が上ってくる。顔が熱い。たぶん真っ赤になっている。万事屋の言を信じるならば、この面は目隠しに覆われてコイツには見えていないらしいのが救いといったところだろうか。
 万事屋は土方の返答を聞くと、一度離していた手をまた頬に添えてくる。そのまま片手でぐっと肩を押して体重をかけてくるのに土方は焦って声を上げた。何だコレ、ひょっとして押し倒そうとしてないかコイツ。

「お、おい待て」
「あ?……やっぱダメか?」
「い、いや、ダメっつーか……目隠し、消せねーのか、コレ」

 最初は押し返そうとした土方だったが、ダメかと少々怯んだ声で言われてしまっては逆に抗えなくて視線を彷徨わせる。
 しかし、この奇妙な目隠しが視界に浮かんだままでは何事もどうしようもない。こちらの情けない顔を見られないのは助かるが、目も口も見えない男が圧し掛かってくるのは頂けない。まるでのっぺらぼうに迫られているようで、正直ちょっと怖いのだ。
 もちろん怖いとまでは口にしなかったが、万事屋は土方の端的な質問だけで訴えを理解したらしい。ああ、と納得した声を漏らすと、そりゃそうだよな俺も何も見えねーままじゃ何も出来ねーし、と何やら不穏な事を呟きながらサイコロを摘まみ上げた。

「一の目がリセットだから、こうすりゃすぐ消え……る……」

 トン、と赤い目を上にしてサイコロをソファに置いた万事屋が、不自然に言葉を途切れさせてこちらを凝視した。
 何だ、と思う間もなく、ずいと眼前にのっぺらぼうが肉薄する。

「…………その顔、やべぇ」
「は」

 ああ、コイツは今ので俺の顔が見えるようになったのか。
 土方が朧げに状況を理解するのと、万事屋ががしりと両肩を掴んでくるのは同時だった。息遣いから男が先程よりも正気を失いかけているように感じられて遅まきながら土方は焦る。

「ちょ、ちょっと待て!俺もリセット……!」
「ん、もうダメ待てねー。オメーが可愛すぎんのが悪ィ」
「バ……ッ」

 予想外な台詞をぶつけられて顔に更に血が集まる。ありったけの抗議の念をこめてギリリと眼光鋭く睨みつければ、何故か万事屋はゴクリと喉を鳴らして、肩を押す力がいや増した。
 どさり。悔しい事に万事屋の腕力には適わず、ソファに仰向けに押し倒される。

「や、ちょ、オイ!」
「ひじかた……」
「聞けって、バカ天パ!先にリセット、リセットだけ!」

 事ここに及んでしまえばもう、これから先の行為自体にぐだぐだ言うのは諦めた。それはいい。認めよう。俺もコイツも互いに惚れているらしいという事で、非常に急な展開に羞恥と混乱が綯い交ぜになってはいるが、否やは無い。
 だから目隠しだけ消させてくれ。そう訴えているというのに、万事屋は一体何のきっかけで歯止めを失ったやら全く聞く耳を持ってくれない。
 これはまずい。本格的な危機を感じて思い切り身を捩った土方を、逃げるとでも思ったのか万事屋は全身で押さえ込む。その拍子に、万事屋の脚がソファの上のサイコロを弾き飛ばした。

「あ」

 カツン、コロン。床に転がったサイコロを二対の視線が追う。
 上に出た目は最大値――六だ。

「あー、もう!」

 万事屋は一瞬押し黙ってこちらを見下ろした後、ぐしゃぐしゃと頭を掻き毟って土方から身を離した。床に転がったサイコロに手を伸ばして一の目を出す。土方は今がチャンスと慌てて身を起こして、同じように手を伸ばして摘まみ上げたサイコロを一の目を上に置き直した。
 チラリと傍らへ視線を遣れば視界の丸い絵の具は流れて消えて、現れたのは、切羽詰まった目をした余裕の無い表情の男だ。
 ――その、顔を見て。
 ああ、なるほど。自分の身の内に巣食っていたこの感情は……確かに、欲情と呼べるものだったのだと。ようやく、土方は自覚した。

「なあ……」

 じっとこちらを見詰める獣のような瞳を見詰め返して土方は口を開く。

「サイコロ、蹴っ飛ばしちまわねーとこで」

 ……続き。
 そう囁いて白い着流しの襟を掴んでやれば、欲を孕んだ目をした男は息を呑んで、耳をサッと朱に染め上げた。



 まったく、賽の目隠しは視界を隠す代わりに、とんでもないモノを曝け出してくれちまうらしい。