「はぁ〜、ったくよー」
「あ、銀さん。おはようございます」
「やっと来たネ。今日も遅かったアルな」

早朝6時のオフィスビル、5階。
溜息を吐きながら姿を現した銀時を、新八と神楽が迎える。二人は既に、それぞれ道具を手に仕事を始めていた。
彼らはアルバイトの清掃員。早朝から始めて、オフィスに人が出勤し始める時間までにビル内の共有部分を清掃するのが仕事である。そこそこ大きなオフィスビルなので結構な数の清掃員がいるのだが、その中で、三人は同じ階を担当する同僚だ。
神楽に軽い嫌味を言われた銀時は、不機嫌そうな顔でバリバリと首の後ろを掻いた。

「いや、俺が遅いのは俺のせいじゃないからアイツのせいだから。文句があんならあのバカに言えよ、つーか言ってやって下さいお願いします」

疲れたような銀時の口調に、新八は事情を察して少し笑う。

「ああ、またあの人に捕まったんですか」
「おー、アレもうホントいい加減にしてくんねーかな。マジで働く前から気力をごっそり奪われるんですけど」
「気力なんか元から無いくせによく言うアル」

ぼやく銀時に神楽は手厳しい台詞を投げかけ、新八は軽い苦笑を零しながら、まぁまぁ、と宥めた。

「あの人もアレが仕事ですからね。仕方ないですよ」

あの人、というのは、銀時たちがアルバイトとして勤めているビル管理会社の正社員、要は彼らの上司にあたる男のことだ。
彼の仕事は清掃員の取りまとめと指導教育で、毎日清掃後のビルをチェックして回っている。手抜きの掃除などしようものならタチドコロに看破されて、担当の清掃員は翌日の出勤時に厳しく注意を受けるのだ。

そして銀時は、ほぼ毎朝。出勤してきたところでその男に捕まっては、何だかんだとお説教されているのである。
銀時がいつも少し遅れて担当階にやってくるのはそういう訳だった。

「で?今日は何を言われたんですか?」
「…コレだとよ」

新八の問いに、銀時はうんざりとした顔で給湯室の方へと歩み寄ると、壁の電灯スイッチを指差した。
近付いてよくよく見れば、スイッチの横の壁に、シャープペンシルが擦ったような小さな黒い汚れ。

「コレ、ですか」
「ったく、細けーんだよ!細かすぎるわ!アイツは嫁いびりが趣味の姑か!」

ガシガシとヤケのように雑巾で汚れを拭き取る銀時を見ながら、新八は肩を竦めた。
まぁ確かに、その汚れは小さい。よく見付けたなといっそ感心してしまうほどだ……しかし。

「銀さんも良くないですよ。確か、前も同じとこ注意されてたじゃないですか」
「そうアル。毎日怒られてるくせに、銀ちゃん結構適当ネ」

新八の台詞に神楽も同意する。そもそも電灯スイッチの周りというのは汚れやすいから、特にきちんと掃除しなければいけないポイントなのだ。その上に銀時は、既に何度も同じような叱責を受けている。気を付けようと思えば気を付けられたはずなのに。
向こうも細かさが過ぎるが、銀時も適当さが過ぎる。要はどっちもどっちだろう。

「たまには隅から隅まで完璧にしてみたらどうですか?そしたらあの人だって文句言わないでしょ」
「やだよそんなんメンドクセー」
「オイィィィ!即答か!アンタそんなんだから毎朝こってり絞られるんですよ!文句なんか言う筋合いねーよ自業自得だよ!」

提案を一言で却下されて新八は顔を引き攣らせた。声を荒げてのツッコミに、しかし銀時は意に介した様子もなく鼻を鳴らす。

「うるせーな。アイツに言われたから完璧にしてくっつーのがなんか腹立つんだよ」
「そうやって無駄な意地を張ってるから、向こうだってムキになるんじゃないですか?」
「きっとそうアル。だってトッシー、私の担当のとこはそんなにチェック細かくないヨ」

トッシーとは、件の上司の愛称である。と言っても、そう呼んでいるのは神楽だけなのだが。
本名は土方十四郎。「トッシー」などと気軽に呼ぶのは憚られるような、少々キツめな印象の男前だ。見た目だけではなく、性格も実際キツイのだと噂に聞いている。
…が、しかし。神楽の言う通り、チェックがそこまで細かいという話を他の清掃員から聞いたことはない。新八は我が意を得たとばかりに言葉を重ねた。

「ほら、やっぱり銀さんの態度がいけないんですよ。僕だってそんなに厳しいこと言われた覚えないですし」
「……俺の態度が、ねぇ」

銀時は面白くもなさそうに呟くと、それでこの話は打ち切りとばかりにモップを手に取った。
新八はやれやれと肩を竦めながら、中断していた掃除を再開しようと踵を返す……と。

「…俺はむしろ、アイツに気ィ遣ってやってんだけどね」
「はい?」

銀時がボソリと何かを呟いたのが聞こえて、そしてその声色が、何故か心なしか笑いを含んでいたような気がして、新八は振り返った。
だが、目に入った銀時の表情は、先程と変わらず不機嫌そうなもので。

「何でもねーよ。おら、仕事なんかさっさと済ませて朝メシ行くぞオメーら!」
「キャッホォウ!焼肉がいいアル!」
「朝メシ焼肉ってお前どんだけ!?つーかやってねーよこんな時間に焼肉屋!」

朝食と聞いて即座に目を輝かせた神楽に引きずられるように、話題はコロリとくだらない日常に移って。
そのまま、三人はいつも通りの仕事に戻っていった。



時刻は8時過ぎ。そろそろ、オフィスに人が出勤し始めている。
土方は5階へ向かうエレベーターの中で、そっと溜息を吐いた。

――今日は、どこに。文句をつけられる場所があるだろうか。

(…随分と嫌われてんだろーな、俺ァ)

今朝ロッカールームで呼び止めた時の坂田のうんざりとした表情を思い出して、土方は自嘲に唇を歪めた。
それはそうだろう。毎日毎日、無理矢理のようにイチャモンつけてくる上司など、誰だって嫌うに違いない。

土方の手が胸ポケットの辺りを彷徨って、そして下ろされた。口と心情は煙草を欲していたが、禁煙のオフィスビル内。それもエレベーターの中では吸えるはずもない。ましてや自分は、このビルを清掃管理する立場なのだ。
胸の内にわだかまる黒いモヤを煙に変えて吐き出すことも、ヤニとともに壁にこびり付かせることも許されなくて。
土方は今日も、塵埃を腹の底に降り積もらせていく。

別に、嫌われたいわけではないのだ。
逆にアイツが嫌いだというわけでも、本当にあんな細かい事に目くじら立てているわけでもない。

ただ、それ以外に。話しかける術がないだけで。


あのアルバイトの清掃員のことを、土方は実は随分と前から気にしている。
要注意従業員とかそういうことではなく…所謂、恋情的な対象として。

(ホント、どうしようもねぇな)

エレベーターが5階に着いた音とともに、また自嘲の溜息を一つ。
近付きたくて。だが二人で話せる機会など、仕事内容を叱責する時ぐらいしか無くて。そのために、坂田の仕事に粗を探している、なんて。

いつか銀時が毎朝の説教にうんざりして、汚れ一つない完璧な仕事をするようになるんじゃないかと、それを恐れ。
毎朝小さな汚れを見付けてホッとしては、それでいて、以前に注意したところが直っていないことに、アイツは俺の話など完全に聞き流しているのだなとヘコみ。

――本当に、バカのようだ。


「……あ?」

エレベーターから出てまず給湯室に向かった土方は、思わず声を上げた。
一目見ただけで、わかる。今日はいつもと様子が違った。
美しいのだ。床も壁もシンクも。
慌てて要所要所に目を向ける。電灯スイッチの周りも、蛇口も、壁と床の境目も……今までずっと目を光らせてきた所のどこにも汚れ一つなくて、土方は立ち尽くした。

ついに、嫌になったのだろうか。あの面倒臭がりが、こうまで完璧に仕上げるほどに。
それとも。どういう風の吹き回しか、今朝は俺の話をちゃんと聞いていたということか。
…どちらにしても。

土方は口元を押さえて押し黙った。

――明日の俺は、どうすればいいのだろう。
文句をつけることが一つもなければ。俺は、アイツに話しかけることなど。

(…い、いや待て。これは逆にチャンスじゃねぇのか?明日、やればできるじゃねーかとか声掛けて、特別に朝メシ奢ってやるとか何とか…)

絶望に目の前を暗くしかけた土方は、唐突に思いついた考えにグッと唾を飲み込んだ。
仕事ぶりを褒めて、見直したと言って。労をねぎらうという口実でメシを奢るなりして。
現時点ではおそらく最悪の部類に入っているであろう自分の印象を、少しでも改善できれば。

「…や、無いな。ナイナイ」

そこまで考えて、首を横に振る。
そもそも、大嫌いな相手に突然メシに誘われてホイホイ乗ってくるヤツがどこにいる。それに坂田は確か、仕事上がりにはいつも同僚の二人と朝食を摂っているはずだ。その二人を無視して坂田だけを誘うなど。

「あり得ねーよな…」
「何が?」

すぐ後ろから聞こえた声に、土方は肩を跳ね上げた。独り言に相槌が返ってきたから、ではない。その声に聞き覚えがあったからだ。
必死に平静を装って振り返れば、そこには案の定、銀髪天然パーマの男が立っている。
既に仕事を終えて帰ったはずの男がそこにいることに、土方は疑問を覚えるよりも先に動揺して一歩下がった。

「な、なんだテメェ、忘れもんか?」
「あーまぁ、そんなようなもん…つーか」

不覚にも吃ってしまったことに内心で冷や汗をかいたが、坂田は特に不審がる様子もなくバリバリと首の後ろを掻いた。
ホッとしたのも束の間、坂田が何気なく続けた言葉に、土方の息が詰まる。

「お前、もうここチェックしてんの?早くね?他の階のチェックとか終わってんのかよ」

1階で土方を乗せたエレベーターは、他の階を素通りして5階に止まった。
12階建てのオフィスビル。土方の仕事は全フロアのチェックだというのに、何故こんな中途半端な階に直行したのかといえば…それは勿論。

「…っ、テメェの、仕事が一番いい加減だから、真っ先に見に来るようにしてんだよ」
「あっそ。そりゃどーもすいませんね。で?今日もどこかダメですかねヒジカタサン?」

思わず口を突いて出た言葉に、坂田は面白くもなさそうに眉を顰めてポキポキと首を鳴らす。
呼ばれた名前が冷たく皮肉げな響きを帯びていて、傷付くのはお門違いだと知りつつも土方の胸はツキリと痛んだ。


これが自分の招いた結果だ。
今更、この険悪な関係を変えるなど…できやしないと、判っているけれど。


「いや、今日は……やりゃできんじゃねーか」
「へ?マジで?」

視線を逸らしつつ呟けば、心の底から意外そうな声が返ってきて土方はほんのり苦笑した。
どこからどう見ても完璧な清掃をしておいて、それでもまだ文句を付けられると思っていたのか。思っていたのだろう。コイツにそう思わせたのは、俺だ。

横目でチラリと窺うと、坂田は拍子抜けしたように目を丸めている。マジマジとこちらを見詰めてくるその顔からは先程までの不機嫌が抜けていて、それに勇気を得た土方はゴクリ、唾を飲み込んだ。

「…お前、朝メシは」
「あ?まだ食べてねーけど」

天啓だ。土方は思った。
普段ならば朝一の出勤時にしか会うことのない坂田が。どんな意図でかは知らないが、今日に限って完璧な仕事をした坂田が。
いつも一緒にいる同僚二人も連れず、一人で、朝食も食べずに、目の前にいる。


当たって砕けて諦めろと、天が与えた機会だろう。


「俺と一緒に食う気があるなら奢ってやるが、どうだ」

今を逃せば、それこそ一生こんなチャンスは来ない。
そんな衝動に背中を押されるままに言ってしまってから、土方は即座に後悔した。

(――何を、言ってんだ。バカか)

こんな誘いに坂田が頷くはずはないと、つい先程考えたばかりだというのに。

磨き上げられた床に視線を落として、坂田から見えないように表情を隠す。
一体どう思われたことだろう。不審に眉を寄せているか、それとも冗談じゃないと頬を引き攣らせているか。どちらにしてもあまり見たい表情ではない。
沈黙が痛くてギッと歯を食いしばったところで、ようやく漏れ聞こえた男の声に土方は肩を揺らした。

「…あー」

その声は困っているようでも戸惑っているようでもあった、が。
予想外にも嫌悪の色は帯びていないような気がして、土方は床を見詰めていた瞳を瞬かせた。
恐る恐る目を上げれば、坂田は何とも言えない表情でガシガシと頭を掻いている。

「へぇーそういう…あー、そうくるわけか。意外っつーか何つーか、いや、うん、なるほど」
「あァ?」

斜めの方向に視線をずらして訳のわからない独り言を言う坂田に、土方は眉を顰めた。
何だコレは。人が清水の舞台から飛び降りるぐらいの気持ちで誘ったっつーのに何だこの反応は。少なくとも嫌がっているようには見えない、と思うのだが、しかし何だコレは。

当惑のあまり、つい顔を顰めて坂田を睨み付ける。我ながらチンピラのような聞き返し方だと気付いて土方は後悔したが、坂田は気を悪くした様子もなく、頭を掻く手を止めてこちらを向いた。

「あのさ」
「な、何だ」

坂田の視線に真っ直ぐ射抜かれて、土方は目に見えて狼狽えた。さっきから吃ってばかりの自分が不本意きわまりない。
普段威張りちらしている上司があからさまに動揺している姿などさぞ滑稽だろうに、坂田は嗤おうともせずに言葉を続ける。

「実は今日ここ掃除したの俺じゃないんだよね」
「……は?」

一瞬、言われたことの意味が判らなくて、土方は間の抜けた声を発した。

「いや、一通りは俺がやったんだけど、最後の仕上げだけな。新八のヤツが、一回このくらい完璧にしてみろとか言って勝手にササーッとね。俺は別にいいっつったんだけど、真面目だよなアイツ」

ポリポリと首を掻きながら言われた台詞に、二度、三度と瞬いてから、ようやく理解が追いついて瞠目する。
今日、ここを仕上げたのは坂田ではない。
つまり、坂田は別に、いつも通り。今までと変わらぬ態度で仕事をしていたということで…それは。

この完璧な仕事ぶりには、坂田の意図など何も込められていない、と。

…なんだ。なんだそうか。半ば呆然と心の中で繰り返すと同時に、猛烈な気恥ずかしさが襲ってきて土方は再び視線を俯けた。
些細な事に勝手に推測を巡らせて、勝手に追い詰められて焦って妙なことを口走った。
これでは本物のバカだ。…それも、傍迷惑な部類の。

「…で、俺が何しにここに戻ってきたかっつーと」

羞恥と自己嫌悪に沈みかけていた土方は、思いのほか近くで聞こえた声に驚いて顔を上げた。
気付けば坂田はいつの間にか、土方の目の前まで歩み寄っていて。


顔を覗き込んで、楽しげに目を細めて。

ニヤリ。含みのある笑みを口元に浮かべた。


「奥手な土方君が口実が無くなって困らないように、ちょっとどっか汚しといてやろーかな、と」
「―――!?」


ビシリ。土方は固まった。
目を見開いて声を失う土方に、坂田はますます楽しげに口元を緩める。

「でもこういう展開になるんだったら、さっさと真面目に掃除しときゃよかったな。いやいや、なかなか積極的なとこもあんじゃねーの土方君」
「―っそ、な、テテテメ…ッ」

ニヤニヤと腹の立つような顔で覗き込まれて、土方の顔にカッと血が上った。

――バレていたのか。全部。
坂田に惹かれていることも。それを隠そうと裏腹な態度をとっていたことも。粗探しのようなチェックが、話す機会を得るための口実だったということも。
全部わかっていて、コイツは。

信じられない恥ずかしい情けない悔しい。
沸き上がる感情に脳が沸騰して目の前が眩む。顔が熱い。目の前の男を殴りつけてこの場を走り去りたいほど、居た堪れないし腹も立つ。

しかし。

土方の気持ちを全部知っていて…嫌悪も見せずに頬を緩めている坂田に。
単純な心が舞い上がっているのもまた事実で。

「じゃ、行くか」
「い、行くって」
「朝メシ。奢ってくれんだろ?」

混乱も顕な土方を見て、呆れもせずに穏やかに笑った男の顔に。
ドクリ、騒ぎ出した心臓が、土方から思考を奪っていく。



「ま、別のモン食わしてくれるっつーなら俺ァそれでも構わねーけど?」
「――〜〜〜っ!!」


言いながら更に距離を詰めた坂田に耳を食まれて。
土方は一切の思考とその日の仕事を放棄した。




----------------

バレバレ片想いな土方とそれを楽しく見守っていた銀ちゃん。