「うげえぇぇ……何だよこれマジで勘弁しろよコレ……」
金曜日の最終電車。
すし詰めの車内で思わず声に出してボヤいたら、隣の女に鬱陶しそうに睨まれた。
みんな我慢して乗ってんだから黙ってろとでも言いてーのか。でも俺こういうの慣れてねーんだよ勘弁しろよ。
頭の中ではブツクサ文句を言いながらも、ちょっと眉を下げて、すんません、とでも言うように微笑んでみせれば、女はちょっと驚いた様子で頬を染めて視線を逸らした。うん、実は俺、売れっ子ホストだからね。こんなん朝飯前だからね。
さて、じゃあなんでその売れっ子ホストが、金曜深夜なんてクソ忙しい時間帯に電車なんかに乗ってるかって言えば、だ。
何を隠そう、本日の金サンは風邪気味だからでっす。
なんか喉痛ェなぁと思いながら普通に出勤したら、店に着いた頃から咳が出始めて。開店からしばらくすると空調の効いてるはずの店内ですら寒気を感じるようになってきたから、こりゃヤバイかもとマネージャーの新八に相談してみた。
新ちゃん、金サン風邪ひいちゃったかも。と哀れっぽくよろけてみせたら、プロ意識の欠片もないと罵倒された後、客に菌を振りまくな今ならまだ終電に間に合うからサッサと帰れと追い出された。冷てェのか気遣ってんのかわかんねーよなアイツ。まあ十中八九気遣ってるんだろーけどね。金サンはわかってるけどね。
でも、本気で心配してたんなら、タクシー使わせてくれてもよくね?タクシー代経費で落としてくれてもよくね?
満員の乗客に押し潰されながら、俺はうんざりと溜息を吐いた。
確かに、自宅までタクシーなど使ってしまったら結構な金額になってしまうであろう距離はあるけれど。そのくらい許してもらっていいぐらいの稼ぎを店にもたらしているはずなのだが、自分は。
普段は帰宅ラッシュが始まる前の夕方に出勤して、ガラガラの始発で帰宅、という俺にとって、この混みようは地獄だ。
コレ風邪悪化するよ間違いねーよ。口を掌で覆ってケホケホと咳こむ。ああ、駅の売店でマスクを買っておくんだった。満員電車の中で派手に咳こんでいたら流石に顰蹙を買うだろう。乗客は女ばっかじゃねーから、ホストスマイルで誤魔化すにも限界がある。
チクショーもう降りてェ。段々とどんよりした気分になってきた俺の身体が、慣性の法則でグラリと傾いだ。電車がスピードを落としてホームに滑り込んだのだ。
ああ、ここを過ぎればもう一駅か。駅名を告げるアナウンスで降車駅が近付いてきたことを悟って、俺はホッと息を吐いた。
あと一駅。あと少しの辛抱だと思えば、気分もちょっとは軽くなるというものだ。
――が、しかし。
「……っぐぇ!?」
ガタンと停車して、扉が開いた途端。バラバラと降りていく乗客達と、それを上回る数でギュウギュウと乗り込んでくる人の群れ。
ちょ、マジでかオイ、ここ、こんな混む駅だったのか!?普段空いてる時間帯にしか乗らない俺は狼狽して、押されるままに車内を流される。
気付いたら、乗った時とは反対側の扉に押しつけられていた。
偶然とはいえ凭れられる場所に陣取れたのと、俺の降車駅で開くのがこちら側の扉だったのが幸いだ。ああ、まだ天は俺を見捨ててねェ。大仰な事を考えて肩の力を抜く、と。
――ガタンッ
俺が力を抜いたのを図ったようなタイミングで電車が発車して、車内が大きく揺れた。
「うお……っ」
踏ん張りきれなかった俺の身体は思いっきり、隣の乗客にのしかかる。いや、踏ん張りきれなかったのは体調不良のせいだからね。普段の金サンだったらこんなカッコ悪いコトないからね言っとくけど。
慌てて体勢を立て直して隣のヤツの様子を窺った俺は、用意していたホストスマイルの発動を中止した。
何故かと言えば話は簡単。そいつが男だったからだ。
男相手にニッコリ微笑んでも効きゃしねぇ。むしろ逆効果ってこともある。俺みてーな金髪のチャラそーな男が嫌いなオッサンもいるし、モテオーラ発動してる男を目の敵にする野郎もいる……ま、俺も実はプライベートではそんなにモテてねーんだけど。
いや違うよ。俺はホラ、皆の金サンだからね。俺にカノジョがいないのは世界中の女の子たちを悲しませないためだから。作らないだけだから。作れないわけじゃないから!
……まあそれは置いておいて、だ。
俺がぶつかってしまったその男は、まだオッサンと呼べる歳ではなさそうだったし、モテる男を僻んで憎んだりするような野郎にも到底見えなかった。
むしろ、アレだ。コイツは僻まれる側だろう。
スラリと適度に高い身長、切れ長の目、シャープな顎のラインにスッと通った鼻筋。男にしては肌理の細かそうな肌と形の良い眉、そして黒髪のサラッサラストレート……コレばっかりは俺も僻むぞコノヤロー。
服装を見る限りでは会社員のようだけれど、眉間に深い深い皺を刻んでこちらを睨みつけてきたことを除けば、俺と同業でも相当な売れっ子になりそうな美形サンだ。
……ただ、ウン。やっぱりちょっと眼光が鋭すぎるねコレ。怖いわ女のコ怯えちゃうわ。
瞳孔が開き気味の目でギラリと睨めつけられて、俺はちょっと頬をひきつらせた。
なんだよちょっと押しかかっちまっただけじゃん。揺れたし満員電車なんだから仕方ねーじゃん大目に見ろよこんくらい。ケツの穴ちっちぇーなオイ。
「あー……すんません」
「…………」
ひどくキツイ視線に多少ムカッとしながらも一応謝れば、男は不機嫌な表情のまま、別にいい、とでも言うように軽く頷いて視線を逸らした。
その横顔を見て、おや、と俺は思う。
眉間に刻まれたままの皺。扉脇のスペースに凭れて閉ざされた瞼。薄く開いた唇から漏れる深い溜息と、きちんと着ているのに少しヨレッとして見えるYシャツの襟。
――ひょっとしてコイツ、俺を睨んでたんじゃなくて、ただ疲労困憊で人相悪くなってただけ?
そういえば、金曜日の最終電車、しかも歓楽街で有名な駅を通る路線だけあって、周りの乗客は花金(この言葉ひょっとして古い?)の酒盛り帰りらしき連中が多い……が、コイツからは酒臭さを全く感じない。
純然たる、仕事帰り、なのだろう。
……え?まさか朝から?朝からこんな時間まで働き通しですか?うわっ、ムリムリありえねー。金サンにはとても出来まっせん。
内心で肩を竦めて視線を逸らす。サラリーマンは大変だなと素直な感想が浮かんだけれど、言っておくが決して引け目を感じたわけではない。
この隣の男にはもしかしたら「夜遊び帰りのチャラ男」に見えているかもしれないが、自分だって歴とした仕事帰りなのだ。今日は風邪で早退してきてしまったが、普段は宵の口から明け方まで働き詰め。同伴やアフターがある日の労働時間はこの男に匹敵するかもしれない。
ただ、住む世界が違うだけ。
ま、お互いお疲れさんってとこだな。
そう結論付けて俺はコツリと扉に額を付けた。冷たい窓が気持ちいい。熱が上がってきているのだろうか。
ハァ、と疲れた息を漏らすと、同じタイミングで隣の男がまた溜息を吐いていて少し可笑しくなった。
『――まもなくー……』
車掌の声が俺の降車駅の名を告げて、電車のスピードが落ち始める。
今度は慣性に負けぬように身構えつつ、ようやくこの息苦しさから解放されると俺は安堵した。
――安堵した、のに。
プシュウ、と音を立てて開いた扉。人波に押し出されるようにしてホームに降りた俺の足は、左腰のあたりを引っ張る何かによって強制的に止められた。
「ちょ……っ、オイ!」
そして、背後から聞こえる焦ったような男の声。
「へ?ちょ、なに?何に邪魔されてんのコレ!?俺降りてェんだけど!」
電車から一歩降りたところで引き止められている状況に慌てながら振り返れば、そこには、こちらもまた随分と慌てた様子で俺に声を掛けている先程のイケメンサラリーマン、と。
彼の手にしている鞄の留め具部分に、ガッチリと噛んでいる俺のウォレットチェーン。
「え、ええええぇぇえ!?なにコレ!何をどうしたらこんなことになんの!?」
「知るかァァァ!ちょ、待て、とりあえず動くな!コレ外さねェと……!」
グイ、と、男が留め具部分を見ようと鞄を引き寄せる。すると当然ながらウォレットチェーンが引っ張られて、俺は危うくホームと電車の隙間に片足を落としそうになった。
「うおわわァァ!待て待てお前が待て!ヤバイから!ここで引っ張り合うのすげー危険だから!落ちる!クレバスに落ちる!」
「つっても、早く取らねーとお前コレ、扉閉めらんねーだろ!」
「いや、ちょ、なんか発車ベル鳴ってんですけど!プルルルって言ってんですけど!閉める気じゃね?コレ閉める気じゃね!?ちょ、おま、一旦降りろ!ホームでゆっくり取ろう!」
「ふざけんな俺の降車駅はここじゃねェんだよ!お前が乗れ!車内で外そう!」
「俺の降車駅ここォォォ!!」
半ばパニックに陥ってギャンギャンと引っ張り合っている俺達の横を、好奇の目で眺めながら他の乗客が乗り降りしていく。
テメーら少しは手を貸そうって気はねェのか。都会の冷たさを恨みながら、とにかく危険なクレバスから離れたくて強い足取りで一歩退がった時だ。
俺の左腰をギリギリと引っ張っていた力が、唐突に消えた。
――あ、外れた?喜ぶ間もなく、急な解放に後ろに倒れ込みそうになって慌ててたたらを踏む。
手足を格好悪くバタつかせ、何とか尻餅をつかずに堪えた俺の目の前でプシューと音を立てて扉が閉まり。
ゆっくりと動き出した電車を見送って……俺は、やれやれと深く溜息を吐いた。
まったく、なんて災難だ。
体調不良で早退してきた日に限ってこんなアクシデントに遭うなんて……たぶん、チェーンが噛んでしまったのは俺がアイツにのしかかってしまった時だろう。あれだけのことでガッチリ絡むなんて、運が悪かったとしか言いようがない。
引っ張っただけで外れてくれたから助かったものの。ああ腰が痛かった。これウエスト伸びちまったんじゃねーの?
フゥと息を吐きながら左腰を見下ろした俺は――ビシリ、凍り付いたように固まった。
――無い。
そこにぶら下がっているはずの、チェーンが。
「は、え、ええええぇぇぇ!?」
思わず混乱の叫びを上げて、俺は左腰を凝視した。
そんな、バカな。なんで無いんだ。まさか切れたとか……いやいやナイナイ。だってチェーンだよ?鎖だよ?それもウォレットを繋ぐ鎖だよ?そんな簡単にぶち切れるわけねーじゃん!
まあ確かに、今日の俺は同伴もアフターも無かったから油断して服装こそゆるっゆる……店でスーツに着替えりゃいいからって何年も着倒してクッタクタになった安モンの服着てっけど、財布とウォレットチェーンだけは気合い入った格好の時と同じモン持って来たわけよ。昔なじみのホスト仲間が誕生日に寄越したヤツなんだよ
いや、プレゼントだから無くしてショックとかそういうんじゃなくて。プレゼントっつーか賭けで勝ち取ったようなモンだったし。アイツは結構ブランドとかにうるせーヤツだから、そんな簡単に切れたり部品外れたりするようなチャチな代物じゃねーはずだっつー意味でね。
「ひょっとしてあのバカ杉、嫌がらせに不良品寄越しやがったか……?や、それにしては二ヶ月以上普通に使えたしな……」
ブツブツと呟きながら丈の短いジャケットを捲って、チェーンを付けていたはずのところをよくよく見れば。
切れた鎖の残りの部分でもぶらさがっているかと思われたそこにあったのは……縫い目部分がちぎれたベルトループで。
「ありえねェェェェ!!」
俺は絶叫して頭を掻き回した。
いやいや、確かに着倒してクタクタだとは言ったよ?何年も着てる安モンだとも言ったさ。
でもベルトループ切れるってどういうことコレェェェ!?
ベルトループなんてお前、すげー生地厚いじゃん!めちゃめちゃしっかり縫製してあんじゃん!
「あんのバカリーマン……!どんな馬鹿力で引っ張りやがったんだあのヤロォォォ!!」
電車の中からグイグイと鞄を引っ張っていた黒髪の男を思い出して、ギリリと歯軋りする。まったく、無理に引っ張るからこんなことになるのだ。アイツがおとなしく電車を降りていればこうはならなかったのに。
自分も同じような力で引っ張っていたことは棚に上げて、俺は全責任をあの男に押しつけた。実質的な被害をこうむっているのは俺なのだから、このくらいの悪態は許されるはずだ。
そこまで考えて、はたと気付く。
被害。
――そうだ。何が一番の被害って。
バッと左の尻ポケットを押さえた俺は、ザーッと血の気が一気に引いていく音を、聞いた。
ベルトループが、切れて。
そのせいでチェーンは俺の左腰を離れて、あの黒髪イケメン馬鹿リーマンの鞄に引っ張られて電車内に拉致されたわけだ。
つまり、それは当然。
チェーンのもう一方の端に付いていた物を連れて。
「お……俺の財布ゥゥゥ!!!」
グラリ。忘れていた体調不良が急激に戻ってきたような感覚に、俺は目眩を感じてよろめいた。
落ち着け。
落ち着いて考えよう、俺。
よろよろとホームのベンチに座り込んで、痛みだした頭を抱える。
寒い。ショックのせいか、急に風邪が悪化したような気がする。最悪だ。
「あー……アレだ。うん。牛乳に相談だ。いやいや違う違う。駅員さんに相談だ。カルシウム摂っても何の解決にもならないからね今は」
我ながら相当テンパッてんなコレ。こんな時に笑えないボケをかます自分に失笑して、ぐしゃりと金髪を掻き乱す。
「……つっても、この時間じゃな……すぐに取り戻すのは無理か?無理だよな。だってアイツがどこの駅で降りるかわかんねーし」
あの男はきっと、自分の降車駅で俺の財布を駅員に届けるだろう。それはまず間違いない。
自分の鞄に他人の財布がくっついてきて、それをそのままパクるような人間には見えなかった。かと言って、わざわざ降りる予定もない駅で降りて駅員に届けたりするとも思えない。まだコレが昼間ならそういう希望も持てたかもしれないが、何しろ時間が時間だ。途中下車など考えの外だろう。
この駅から連絡を回してもらって財布の届けられた駅が判明したとして、それが一駅向こうぐらいなら歩いて取りに行くこともできるが。今の俺には二駅以上歩く体力はない。つーか正直、一駅でもかなりキツイ。途中でぶっ倒れるかもしれない。
「あー……コレもう明日取りに来ることにした方がいいんじゃね?今日はもう帰るか。うん、そうしよう」
駅員に報告だけして、財布が届けられたら連絡もらうことにして。それで翌朝取りに来ればいい。
幸いここから自宅までは徒歩三分程度。金が無くても帰るぶんには問題ない。今から財布を受け取るために寒空の下を歩くよりは、温かい家の中で一晩、財布が手元にない不安に耐える方が随分マシだ。財布が無いと言っても落としたとかスられたとかではないのだから、駅員にさえ言っておけばそうそう危険な事もないだろう。
「よっし、帰宅帰宅ゥ。あ、その前に駅長室か。そのへんの駅員に声かけただけじゃダメだよなやっぱ。うわ、めんどくさっ!めんどくせーよ寒ぃよ帰りてーよ」
ぶつぶつとボヤきながらベンチから腰を上げて、気怠い歩調で歩き出す。
ホームを吹き抜ける風が襟元から入り込んできて首を竦めた。ああ、早く温かい我が家に帰りたい。と言っても一人暮らしだから、残念ながら鍵を開けてヒンヤリした空気に迎えられることになるのだけど。それでもこんなホームでぐだぐだしているよりはずっとマシだ。
「あ、そういや俺、スイカ財布ん中だわヤッベ。まーそのへんは駅員に泣きつきゃ何とか……して……もら、え……」
閑散としたホームに遠慮なく響かせていた独り言を急に途絶えさせ、俺は足を止めた。
別に、スイカが無いことが致命的だ、と思ったわけではない。
もっと、重要で、切実で、それこそ致命的な事実に――非常に遅まきながら、気付いたからだ。
「…………鍵……」
家の鍵、も。
あの財布に、くっついている。
「マ……ッ、マジでかァァァァア!?」
ガバリ、頭を抱えて、俺はその場に座り込んだ。
いやいやいや……えっ?いやいやいやいや!
しゃがみこんだまま、真っ白になった頭をぶるぶると振る。
――いや待て。ここは一から。事実を最初から順序よく確認していこう。
今日……もうそろそろ昨日になろうとしている時間だが、とにかく数時間前の出勤時。俺は普段着の尻ポケットに財布を突っ込んで家を出た。
もちろんその時、玄関の鍵はかけた覚えがある。
俺は持ち歩く荷物を極力少なくしたい質だから、キーケースとかは使わねェ。車も普段は乗らねェから家の鍵だけ一本、シンプルなキーチェーンに繋げてぶら下げている。
で、持ち歩くモンを減らしたいっつー同じ理由で、そのキーチェーンはウォレットチェーンに繋げて一体化……
「ダメじゃねーかァァァァ!!一蓮托生で拉致されてんじゃん!完全なる巻き添えじゃん!金持ちの坊ちゃんの誘拐現場に鉢合わせちゃった同級生の如しじゃんんん!!」
ベタリと両手をホームについて絶望の絶叫を上げる。そのまま頭を打ちつけたい衝動をグッと耐えた。
『金さん、大事な物をそんなひとまとめにしてたら危ないですよ。いつか痛い目にあっても知りませんからね』
いつだったか新八に言われた台詞が脳内にリフレインする。あの時の自分は、ハイハイ、と適当に応えて流したのだけど。ああ、なんであの時マジメに聞いとかなかったんだ俺のバカ。いやそれにしたって。
「痛すぎだバカヤロォォォ!バチ当てるにしてもちったァ加減ってもんを考えろや!ったく、すぐムキになるんだから神様お前はよォ!なに本気になってんの!?今のは殴るふりしてデコピンとかそういうカワイイ感じで済ますとこじゃん!なに本気で殴ってんだ空気読め!」
神様とかぜってーアレだよ。真面目すぎてトモダチいねータイプだよ。
低く呻きながらユラリと立ち上がって、俺は額に手を当てて深い深い溜息を吐いた。
……つーかホント、よりにもよって風邪っぴきの時にこんな事態。マジでTPOわきまえろ神様コノヤロー。
「え、どうしよコレ。どうすればいいのコレ」
ホームの真ん中にポツンと突っ立ったまま、途方に暮れた声が零れ落ちる。
鍵が無い、ということは。
とりもなおさず、あの財布を取り戻すまでは家に入れないということだ。
「……ってことはアレか。まず駅長室でどっかの駅に財布届いてねーか調べてもらって、取りに行くしかねーってことか」
しかしこの場合、あの男がどこの駅で降りたかが問題だ。
さっきも言ったが、今の俺の体じゃ一駅以上歩くのは難しい。タクシーを使うっつー手もあるが、こんな寒い夜に何区間も離れた駅まで行って戻って、なんてしてたら、たとえ車移動でも体調の悪化は必至だ。
その上、もし予想以上にアイツの降車駅がここから遠かったりしたら、俺が辿り着くまで駅を閉めるのを待っててくれるかどうか。いや、これは事情を話して泣きつきゃ何とかなるかもしれねーけど。
「あっ、そうだ!確か逆方面の終電ってこっちより遅かったよな!?」
ふと気付いた事実に、俺はガバリと顔を上げた。
見れば、向かいのホームにはまだ、ほんの数人だが人がいる。終電の到着を待っている乗客達だ。
……ってことは、さっきまでの俺の絶叫やら何やら全部見られてたわけか。うわ……っ、い、いやいやそれはとりあえず置いといて。
しめた。
逆方面の電車が動いてるってことは、駅員に頼めば、財布の届けられた駅から車掌に託してここまで送り返してもらえるかもしれない。なんかそんな話を聞いたことがある、ような気がする。
まあコレも、あの男の降車駅が比較的近くて、既に財布が駅員に届けられていたら、の話だけど。
「よし、善は急げだ。さっさと駅員に……!」
『まもなく、二番線に電車が参ります。最終電車です、お乗り遅れのないよう――……』
「ちょっと待てェェェェ!!」
走りだそうとした俺の足は、向かいのホームに流れたアナウンスに思い切り出鼻をくじかれつまずいた。
ベシャリと転けそうになるのをたたらを踏んで耐える。
……転けるのは、耐えたが。
精神的なダメージは隠しようもなくて、俺は再びその場にしゃがみこんだ。
「なんだよチクショー。なんでもう終電なんだよ……あーもうやだ疲れた俺。もう鍵とか明日にしてホテルにでも泊まろうかな……あ、金ねーんだ」
わしわし、片手で髪を掻き乱してうなだれる。
家に入れなくて金も無い、なんて、悲惨すぎる。唯一の救いは携帯が手元にあることぐらいだ。
「ぱっつぁんに電話すっか……」
舌鋒は鋭いが根はお人好しな割れ顎メガネの顔を思い浮かべて、やっぱそれが一番無難かもな、と俺は思った。
アイツは仕事中だから迎えに来てくれとは言えないが、事情を話して、タクシーで店に戻って、そこで金を借りる。ケチョンケチョンに言われるだろうが、この際ぱっつぁんの説教ぐらいウェルカムベイベーだ。
駅員に泣きついて遠い駅まで独りタクシーで財布を受け取りに行くより、店に戻って新八に叱られた方が精神衛生上よさそうな気がする。特に、風邪で気が弱っている今は。
「はぁ……情けねー……」
どんよりとした溜息とともにジャケットのポケットを探る。これで携帯も無くしていようものなら立ち直れなかっただろうが、幸い目的の物はきちんとポケットに収まっていた。
パチリ、折り畳み式のそれを開いて、着信履歴から新八を探す。
「頼むぜぱっつぁん、出てくれよー」
「――オイ!」
10コールで出なかったら泣くぞコノヤロー。携帯に向かって脅し文句にもならない台詞を呟いていた俺は、背後から掛けられた声にとっさに反応できなかった。
耳には入っていたが、自分に掛けられた声だとは認識していなかった、というのが正しい。
俺が認識したのは、同じ声で発せられた次の台詞からだ。
「オイ!そこの金髪失敗パーマ!」
「誰が失敗パーマだァァァ!コレ天然んんん!!」
コンプレックスを強烈に刺激する言葉に、勢いよく立ち上がって青筋立てて振り返る、と。
「地毛でそれか。そいつァ気の毒にな」
「なんだとテメ……ェ……?」
肩で息をしながらこちらにズカズカと近付いて来つつ、フン、と偉そうに鼻を鳴らしてみせたのは。
先程、電車の中と外で綱引きを繰り広げた、あの目つきの悪いサラリーマンで。
「ほらよ」
ひょい、と放って寄越されたのは、ウォレットチェーンの付いた俺の財布。
「…………え?」
予想だにしていなかった展開に、俺は目をしばたかせた。
「つーかテメ、なんでまだこんなトコでボサッとしてんだ。さっさと駅長室行くもんじゃねーのか普通?まァその目立つ頭のおかげですぐ見付かってよかったけどよ」
「あー……えーと、どうも……?」
呆れ顔で喋っている男にとりあえずそう返して、手の中の財布に目を落とす。
確かに、俺の財布だ。開いて一瞥すればカードもスイカも全部きちんと入っているし、キーチェーンもしっかり繋がっている。
「んだコラ。中身なんか抜いてねーぞ」
「や、別に疑ってるわけじゃないから!……つーか」
ピクリ、眉を跳ね上げた男に慌てて手を振ってから、俺はようやく落ち着きを取り戻して目の前の男に正対した。
「お前コレ……届けに来てくれたんだ?」
わざわざ逆の電車に乗って。
信じ難い思いでそう問えば、男は不本意そうに顔を顰めて。
「仕方ねーだろ。なんか鍵ついてんの見えちまったし。ってか、テメー財布と鍵つなげとくなよ危ねーだろ」
「あ、はいスンマセン」
苦い顔で睨まれて、思わず素直に謝った。
なんだコレ……マジでか。おいおいコレすげーラッキーじゃね?
手の中の財布を握りしめて、降って湧いた幸運にゴクリと唾を呑み込む。
タクシーで店に戻ることまで考えたのに。金を借りて一晩どこかに泊まることすら考えたのに。自宅に入れるうえに金もある、なんて。さっきまでとは真逆の状況に心が一気に解きほぐされていく。
悪態吐いてゴメン神様。やっぱアンタやる時はやる男だよ。俺は信じてたよ。調子のいい台詞を胸中に零して笑みを浮かべた。
――ああ、そうだ。神様に感謝するくらいなら、この目の前の人間にもちゃんと礼を言っておかなければ。
遅まきながらそこに思い至った俺は、ゴホンと一つ咳払いをして男へ笑顔を向けた。
「あー、なんつーか、ありがとなオニーサン。助かったぜ」
「……お、おう」
男の返答に一瞬奇妙な間があったのは、おそらく俺の唐突な笑顔に鼻白んだからだろう。しまった、うっかり男相手にホストスマイル使っちまった。
女性客には概ね好評だが、男の知り合いには「うさんくせェ」と評されることの方が多い自分の笑顔を思い出して俺は少し焦る。やべーよ「馬鹿にしてる」とか思われたかもしんねーよ。珍しく本気で感謝してんですけど俺!
自分の苦手なことを挙げろ、と言われたら、『真摯な謝罪』と『素直な感謝』が堂々トップ3にランクインする俺だ。もちろんホストだから仕事だったら両方できるんだけどね。こと日常生活となると、どうにもままならない。
怒らせたか?と目の前の男を窺えば、当人がアッサリと「じゃあな」と背を向けたものだから俺は更に焦った。
「ちょっ、待った待った!」
「あァ?」
慌てて呼び止れば、男は不思議そうな顔で振り返った。
ガラの悪い返事のわりには別段腹を立てている様子はなくて、ひとまず胸を撫で下ろす。別に俺の態度にムカついて会話を断ち切ったわけではないようだ。
――じゃあ、単に早く帰りたかっただけか。
そこまで考えた俺は、ふと思い至った疑問をそのまま声に出した。
「じゃあなって、アンタどうやって帰んの?上りも下りも終電行っちまってんだけど」
そう、問えば。
男は、はたと気付いた表情になって、口を薄く一度開閉させた後、眉間に皺を寄せて押し黙った。
――え、なにコレ。もしかして。
「アンタ……」
ひょっとして、なんにも考えてなかった……とか?
まさかな、と思いながら表情を窺うと、男は不機嫌な表情で気まずげに目線を逸らしていて。
……マジでか。俺は唖然と男を見詰めた。
「あ、ああ、なに?実はアンタんち、ここからそんな遠くないとか?えーっと、何駅ぐらい?タクシー代ぐらいカンパするぜ。アンタのおかげで財布戻ってきたし」
一駅や二駅の距離だったら、終電を逃してでも引き返してくることがあるかもしれない。まあ、それでも極度のお人好しだとは思うが。
内心で焦りながらもそんな尤もらしい事を考えて問うてみたのに、男はあろうことか、舌打ちとともにこう答えた。
「……二駅先で乗り換えて、そっから××線に乗り換えて六駅」
「は……ああああァァ!?めっちゃくちゃ遠いじゃねーか!」
示された経路の距離に、思わずのけぞって叫ぶ。
乗り換え、ときた。しかもそこから六駅。はっきり言って、タクシーで帰るような距離じゃない。
「おま……っバカ!?なんでそんなんで途中下車なんかしてんの!?」
「バ……ッ、バカとは何だコルァ!誰のために降りたと思ってやがる!」
「だーかーらァ!なんで他人のためなんかにそんなことしてんだっつってんだよ!」
今時いねーよ、こんな漫画みてーなお人好し。何考えてんのコイツ。それとも本当に何も考えてないバカなのか。
助けられた身で失礼極まりない事を考えたのは、それだけ動転してたからだ。そりゃ動転すんだろこんな事態!予想外にも程があるわ!
「えええ……ちょ、どーすんだよ」
わしゃわしゃ髪を掻き乱しながら唸るように言えば、男はムッとした顔でこちらを睨んだ。
「……財布も鍵も無くした上にパーマ失敗したとか、悲惨すぎるなと思ったんだよ。感謝しろ」
「だからコレ天然んんん!え、何コレそんなに失敗に見えんの!?確かに俺はこの髪イヤだけど、お客はみんな『金さんのふんわりヘアー素敵!』って言ってくれんのに!」
「客にまで同情されてんのか。何の商売か知らねーが……ホストか?よく務まってるな」
「同情じゃねーよ!本気で褒められてんだよ!務まってるどころか金さんナンバー1だからね!」
「マジでホストかよ。店の程度が知れるな」
「天パがナンバー1張っちゃダメってかァァァ!テメー調子に乗んなよこのピッタリストレート!今に天パがもてはやされる時代が来んだよ!その時になって慌ててパーマかけても遅いからね!人工は所詮天然モノには勝てねーんだよザマーミロ!」
「いや意味わかんねーから。欠片も悔しくねーし」
呆れ顔で溜息を零されて、ヒクリ、頬が引きつる。この男、性格がいいのか悪いのか分からない。いや、根は善人に違いないとは思うのだが、口と態度が悪すぎる。
さっきから執拗に人のコンプレックス逆撫でしやがってコンチクショー。憤りというよりは妬みや僻みに近い視線で
サラッサラの黒髪頭を睨みつけて、もう一言文句を言ってやろうと口を開いた時。背後から声を掛けられて、俺は口を中途半端に開けたまま振り返った。
「すいません、そろそろ駅閉めますんで……」
そこに立っていたのは、口調だけは丁寧に、しかし明らかに迷惑そうな顔をした駅員で。
「「あ、すんません」」
ここが深夜のホームであった事を今更思い出して謝れば、隣の男とキレイにハモッて、俺は思わず苦笑した。
「……で、マジでどーすんの?」
駅を追い出されて吹きすさぶ寒風に震えながら、俺は隣に佇む男に尋ねた。
つい先程までのような喧嘩腰は引っ込めて、比較的穏やかに。財布と鍵の恩人だということを思い出したから……というよりは、どちらかというと自分の体調不良を思い出して口論する元気が無くなったからだ。
疲れた口調で問うた俺に、男も疲労を思い出したのだろうか、深い溜息とともに緩慢な仕草で前髪を掻き上げた。
「あー……こっからタクシーだとアホみてーな金額になるしな……」
「カンパするぜ?ほら俺、ナンバー1ホストだから。それなりにカネ持ってっから」
「無理して見栄張んな下位ホスト。売れねーホストに奢ってもらうほど落ちぶれちゃいねーよ。このへんで漫喫かカラオケでも探して泊まる」
「だーから嘘じゃねーっての。俺は二ヶ月前から不動のナンバー1なんだよ。去年なんか十二ヶ月中六ヶ月間ぐらいナンバー1だったんだぞ?すごくね?あとこのへんに漫喫ねーぞ」
「それ不動って言わねーよ確率五割じゃねーか。……ってか、重要な情報をついでみてーに言うな!聞き流すとこだっただろーが!」
逐一キツめにツッコんでくるのはコイツの性分なのだろうか。
全身から疲労を滲ませているくせに律儀なことだ。いっそ感心しながら黙って視線を返せば、男は吊り上げていた眉根を僅かに下げて、幾ばくかの焦りと困惑をその瞳に滲ませた。
「……マジでねぇのか?」
一段トーンを落とした声で確かめてくるのへ、さらりと頷く。
「このへん俺のテリトリーだけど、漫喫は見たことねーな。ちなみに一番近いカラオケは隣駅前」
歩くと15分くれーかな。隣駅方面に目を向けながら言ってやれば、男は目に見えてげんなりした表情になった。
ハァ、と吐かれた溜息が白い。
今にも雪でも降り出しそうな気温に、俺はポケットに手を突っ込んで背を丸めた。この寒空の下を15分歩くのはツラそうだ。他人事ながら、想像しただけで気が萎える。
他人の財布のために終電逃して?寒さに凍えながら歩いた上にカラオケ泊?……ナイナイ。そんなん俺だったらブチ切れて電信柱蹴りつけるね。自分の足が痛いだけだって分かってても蹴っちゃうね。
「チ……ッ、しかたねェ。じゃあな」
「あ、オイ!」
道端の電信柱を眺めながらボケッと考えていたら、諦観のこもった声とともに男が踵を返したものだから俺は思わず呼び止めた。
「あ?」
寒風に首を竦めながら、律儀な男が足を止めて振り返る。
不審そうなその表情を見て……アレ?俺なんで呼び止めたんだっけ、と。考えるよりも先に動いた口に戸惑って、俺はパチパチと忙しなく瞬いた。
「何だよ」
「あー、いやその、アレだ。よかったらオメー……うち、来る?」
「は」
え、ちょ、オイ。何言ってんの俺、何言ってんの?
視線を彷徨わせながら、何か応えなければ、と思って開いた口は、またしても思いもしない台詞を吐き出していて。
丸く目を見開いてこちらを見詰めてくる男に、そんな目で見んじゃねーよ俺の方がビックリだわコノヤロー!内心で逆ギレしながら、誤魔化すようにわしゃわしゃと片手で髪を掻き回す。
「いや、ほら俺、アンタのおかげで家に入れるわけだし?一応なんか恩返しっつーか。いや別に嫌なら全然いいんだけどね!無理強いとかしねーし!他意とかねーから!」
「他意って何だよ」
そこ突っ込むなバカヤロォォォ!!俺も言ってからオカシイと思ったわ!他意って何だ!今の言い方アレじゃね?飲み会で終電逃した女を「下心とかねーから!」とか言って部屋に連れ込もうとする男っぽくね!?
ねーよ!あり得ねーよ!言っとくけど金さんノーマルだからね!
もしやソッチ系の人間だと誤解されたんじゃねーだろうな。戦々恐々と男の様子を窺えば、彼はどうやらそういう疑惑をもって突っ込んだわけではなかったらしい。こちらを見詰める目には気味悪がっている気配は無く、ただ単に戸惑っているのが見て取れた。
俺の突然の提案にも引いたというよりは、本気にして良いのかどうかと迷っているのだろう。
そりゃそうか。初対面の人間にいきなりそんなこと言われて戸惑わねぇ人間はいねーよな。
俺は男の真っ当な反応のおかげでようやく落ち着きを取り戻して、コホンとひとつ咳払いをしてから笑みを浮かべてみせた。
胡散臭いホストスマイルに見えないように、気を付けて。
「えーと……本気で、どうよ。俺んち、ここから徒歩3分ぐらいなんだけど」
――そうだ。そもそも俺は今日、初対面の男の財布のために終電を降りて来てくれた、この現代都会っ子には珍しいお人好しに助けられたのだ。
だったら俺も、初対面の相手を家に泊めるっつー、今時には珍しい恩返しをしてやったっていいじゃねーか。
先程のように勢いまかせではなく、きちんと理性と相談したうえで、誘ってみる。
すると男は、ますます戸惑ったように瞳を揺らした。
「や、でも……」
「散らかってっけど、カラオケで寝るよかマシだと思うぜ」
知らねーヤツの家にそんな、と口には出さねど迷っているのが手に取るように分かって、それが何となく可笑しくて畳みかける。
今日はカラオケのソファでゴロ寝じゃ寒ィだろ。雪でも降り出しそうな空を見上げて言ってやれば、男がグッと言葉に詰まった。おー迷ってる迷ってる。おもしれぇ。
「客用布団は置いてねーけど、毛布とかなら貸せるし。コタツもあんぞ?」
「……ホストの家にコタツかよ」
「ホストとコタツ関係ねーだろ。ナンバー1ホストのマンションにコタツがあったら何かダメなんですか?ホワイ?」
「いや、画的にオカシくね?」
どんな光景を想像したのか、男はブッと噴き出して口元を覆った。
へぇ、コイツ、笑うと案外カワイイ顔になんじゃねーの。
出会ってから初めて見る笑顔をついマジマジと見詰めていると、男は口元から手を外して、正面から俺に向き直った。
その顔からもう、迷いは消えていて。
……お?コレ、イケんじゃね?と。
咄嗟に俺の脳裏を過った思考は、やはり女を部屋に連れ込もうとしている男に似ていた。
「マジでいいのか?」
「おー、ダメだったら最初から誘わねーし」
「……じゃ」
「ん。行こーぜ」
躊躇いがちに口を開いた男に、皆まで言わせず歩き出す。
男は少し驚いた様子だったが、すぐに付いて来て横にならんだ。チラ、視線だけで隣を見れば、こちらを窺っていたらしい男とバッチリ目が合って思わず笑みが零れた。
「あ、そうそう。俺、かぶき町のクラブでナンバー1やってる坂田金時でぇっす。よろしくー」
「いちいちナンバー1とかうるせぇ。そうやって強調すっから嘘くさく聞こえんだよテメーは」
「オイオイひでーな。今のはオメーも自己紹介するとこだろーが。オメーちょっと礼儀知らなすぎじゃね?そんなんで仕事やってけてんの?」
おどけた口調で詰ってみれば、うるせぇな、仕事はちゃんとやってらァ、とガラの悪い台詞が返ってくる。
本当かよ。だってコイツ、最初っからこんな口調じゃね?会って早々にトラブッたとはいえ初対面からタメ口……それもかなりの悪口雑言って、とても社会人として真っ当なマナーが守れてるとは思えねーんだけど。
疑わしいという目で横顔を眺めていたら、視線を感じたのだろう。男は一つ舌打ちすると、ジロリと瞳孔の開き気味な目をこちらへ向けた。
「土方だ」
「……ひじかた?」
「ああ……すまねぇが、一晩世話になる」
歩く足は止めずに、鋭い眼光もそのままで。
それでもほんの少し、おとなしめの声でそう言って、僅かに頭を下げた。
そんな仕草が、この男にしては……なんて、まだ一時間足らずの付き合いなのだけれど……随分と殊勝に、見えてしまって。
よろこんでー、と返したら、てめ、ホストじゃなくて居酒屋店員だろと笑われた。
やっぱりコイツ、笑うと結構カワイイ。
自分の家に他人を泊めるなんて、実は滅多に無いのだけれど。
コイツなら、一晩の宿を世話してやるのも悪くねーかもしれねーな……なんて思っていた俺はこの時、すっかり忘れていたのだ。
自分が今、風邪をひいているという事を。
結局、家に入った途端に高熱でぶっ倒れ、「一晩世話」になったのは俺の方でしたとさ。
めでたしめでたし――っつったらコレ、土方にぶん殴られるよな。
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満員電車で、鞄の留め具が自分のベルトループに引っ掛かって取れなくなりました。
自分の鞄とベルトループだから良かったけど、他人のに引っ掛かってたらヤバかったよね……と思って、そんな金土。