第十七訓 勝った負けたも悪くない


剣戟の音と疎らな銃声が響く中。
倉庫の入口から逃れようとした敵に太刀を浴びせて、土方は周囲の喧騒に視線を巡らせた。
徐々にだが確実に、事態は収束しつつある。沖田を始めとする隊士たちは抑圧から解放されたバネの如く、それでいて統率のとれた動きで刀を振るっていた。
――そして。

視界の端の、白銀は。

決して派手な動きをしているわけでもないのに、確かな存在感でそこにいる。
巻き込まれるのは御免だとでも言うようにのらりくらりと敵をかわしながら、新八や神楽の背後に向けられる武器には、見逃さずに木刀を繰り出して。
退くべきところと戦うべき相手を、的確に知っている、動き。

それを目に収めたところで…土方はツイと視線を逸らした。


思えば、出遭った頃から。


そうやって束の間だけ輝いて、すぐに鳴りをひそめるその銀色に。
目を奪われては――そんな己を懼れて。無理矢理に見ないようにしてきたのだ。




張り巡らされた黄色いテープと、サイレンの音。
土方は倉庫の外、慌しく行き来する隊士たちから少し離れて佇んでいた。
何時間かぶりに出た空の下。太陽は既に西空に差し掛かり、その色を徐々に橙色へと変えようとしている。

長い一日だった。

今日、万事屋の玄関を出た時にはまだ中天にも達していなかったはずの太陽を思って、土方はフと軽い溜息を吐いた。

刀は鞘に収められ、闇商人は縄を打たれて移送車の中。
真選組が総力を挙げ、数週間を費やした大捕物は一応の成功を収めた。

――だが。
土方の心境は、晴れ渡っているとは言い難い。


その原因は今、土方の目の前で鼻をほじっている。


「…何で、来た」

低く絞り出すような声で問えば、銀時は鼻をほじるのもやめずに気怠く答えた。

「あん?ガキどもが言ってただろ、定春の背中に乗って匂い追ってきたんだよ。俺ァ原チャだけどな。三人乗りはしてねーからパクるとか言うなよこの横暴警官」
「んなこたァ聞いてねェ!手段じゃなくて理由を聞いてんだ俺は!」

いつも通りの悪態に思わず怒鳴り返してしまってから、土方は唇を噛んだ。
――理由、など。
それを聞いてどうするというのだろう。

土方とて本物のバカではない。本当はそんなもの、聞くまでもなく判っている。
お人よしのコイツが、顔見知りの窮地に駆けつけた。ただそれだけのことに敢えて理由など求めるならば、辿り着くのは至ってシンプルな答え。

『――助けたいから助ける、他に理由なんかいらないネ』

頭にリフレインした少女の声が、土方の顔を歪ませる。

ただ純粋な好意が故だと。
それをハッキリと口に出して言われてしまえば――困るのは、俺だ。


「理由だァ?」

銀時は押し黙った土方の表情にはまるで頓着しない様子で、面倒くさげに片眉を上げる。

そして、さらりと。
当然のことのように、銀時は答えた。

「そんなもん決まってんだろーが。依頼人に勝手に死なれてウチに報酬払うヤツがいなくなったら困んだよ」

やる気のなさとふてぶてしさを足して2を掛けたような、実に腹の立つ表情で。

「頼まれた以上の仕事してやったんだからギャラ上乗せしろよコノヤロー。危険手当と成功報酬込みで少なくとも三倍な。それ以下にはビタ一文まからねェから」

上に向けた手のひらをズイと突き出して、恩着せがましく言い放った…その。
好意の欠片も見えない、ぞんざいな態度、に。

――あァ、まただ。

土方は目を伏せて、ギリリと奥歯を食いしばった。


短期間の共同生活で学んだことの、その一。
銀時が殊更に喧嘩を売ってくる時には、その裏に判りにくい優しさが隠されているのだということ。


気遣いに気付かせまいとするこの男は、今もまた。
土方の当惑と…恐れを、察して。すべてを元の関係のまま済まそうとしている。


(……くそ)

土方は胸中に悪態を吐いた。

ここで、自分が。ふざけんなボッたくってんじゃねぇと、いつものように青筋立てて喧嘩を買いさえすれば。
この男との関係は、単なる腐れ縁に戻るのだろう。
いつの間にか近付いていた距離を、覚えてしまった感情を、すべて無かったことにして。
真選組以外に何も見るものなどない…今まで通りの日常に。

ああ、なんて好都合な。
胸の内に呟いた土方は――その言葉とは裏腹に、眉間にキツく皺を寄せた。

渡りに漕ぎ着けられた舟。
何食わぬ顔で乗ってしまえば、自分は望む岸につける。
…そうと判っていて、何故か。

土方の胸の奥底で、何かが気に喰わないと騒ぎ立て。舟に乗ろうとする足を堰き止めている。

「…オーイ、てめ、なに黙ってんですかコノヤロー。まさかギャラ上乗せしねぇとか言うんじゃねーだろうな?ふざけんじゃねーぞコルァ!俺が何のためにわざわざこんなトコまで来てやったと思ってんの?こちとら慈善事業でやってんじゃねーんだよ!」

黙り込んだ土方に何かを感じ取ったのだろう。一瞬の間の後、ますます腹の立つ態度で言い募った銀時に、土方の眉間の皺は更に深められた。

コイツはこういう男なのだ。

手を差し伸べては、別にお前のためじゃないと嘯いて。
事が済めば相手に負い目を感じさせまいと、身勝手なフリをして離れていく。
あちこちで人を助けては、誰にも深入りせず深入りさせず。
救われた人の心に、温かな爪痕だけを残して。


――俺も、その中の一人になれというのか。


(冗談じゃねェぞ)

ザワリと、脳内を掻き乱すような感覚とともに。反射的に零れたのは明確なまでの拒絶の意思で。
土方は拳を固く握り締めた。


任務中やたらとお前の顔が浮かんだのも。
作戦を無視してチャイナを助けに行ってしまったのも。
…結局、お前に助けられてしまったのも。

全部、全部。自分にはあってはならなかったこと。恐怖すら感じる事実。
銀時の気遣いに甘えて、無かったことにしてしまった方がいいのは判りきっているけれど。

(……甘える、だと?)

俺が、コイツに。

――そう、考えただけで。


腹の底からせり上がってきた目も眩むほどの衝動に、気付けば土方は口を開いていた。


「…ふざけんな。誰が追加報酬なんか払うか」

そう言えば、銀時の瞳の奥が一瞬だけ緩む。
そうだ、それでいい――と。土方の心情を慮って、僅かに微笑んだその瞳を睨みつけながら。土方は言葉を続けた。

「仕事だったなんて認めてやらねェ」

テメェが、ここに来たことが。
報酬だけが目当ての行動だなどと、認めてやるものか。

目を見据えて、キッパリとそう言い放てば。
一瞬ピタリと固まった銀時の顔には、みるみるうちに心の底からの驚愕が広がって。滅多に見られないその表情に、土方はほんの少しだけ溜飲を下げた。


助けられた上、気遣われて。
ただただ一方的に救われて、それに甘えているだけ、だなんて。

他の誰とどうあっても、コイツとだけはそんな関係でいたくないから。


「…一つ、借りだ」

唸るような声で土方は言う。
銀時に。真選組以外のものに。ただ個人的に、救われたのだと――声に出して認めることは、未だに背を震わせるほどの恐怖を伴うけれど。


コイツが今までに助けては離れてきた、不特定多数の一員になどされてたまるか。
コイツに遠くから感謝と憧憬の眼差しを向ける、数知れない人間の一人になどなってやるものか。


「いつか必ず返してやるからな。覚悟してやがれ!」


まるで仇を誓うかのように。
瞳孔の開いた眼でキツく睨み据えて宣告した土方に、銀時は言葉を失った。



(何だって、コイツは、こう…)

普段はいっそ心配になるほど読みやすい性格をしているくせに。
肝心な時に限って、こうも予想を跳び越えてくるのか。

(――いいのかよ)

胸中に呟いて、半ば呆然と目の前の男を見詰める。

こちとら、おあつらえむきに「万事屋」なんて便利な職業。
依頼という建前さえ掲げてしまえば、そこに介在した感情は全部無かったことにできるのに。


土方の恐怖を、知っている。
だからずっと、一線引いた関係を守ってきた。
近付く時には言い訳を用意して。差し出す好意は悪意のオブラートで包んで。生まれた感情には見ないふりをして。

土方とてそれを判っていたはずだ。

突っぱねられるかと思っていた、お節介な柘植の櫛は。気付かぬふりをして受け取られた。
だから、土方もそれを望んでいるのだと。
たとえ下手くそな口実でも、縮まっていく距離を否定することを。それぞれが抱く心を誤魔化し続けることを。暗黙の了解として求めているのだと思っていた。

それなのに。

誤魔化しもせず。真正面から受け取るというのだろうか。
頼まれもせずに勝手に押し付けた、迷惑なはずの好意を。

(いいの、かよ……!)

再度の問いかけを視線に乗せて見詰めれば。土方は黙って、ただ真っ直ぐにこちらを見返した。
逸らされることのないその瞳は、逃げることをやめたというよりは……逆にこちらに、逃げるな、と迫るようでもあって。

銀時はワシャリと後頭部を掻き乱した。


――この男には、見抜かれているのだろうか。

本当に恐れているのは、俺の方だということを。


護れないことを恐れて。またこの無力な手が、大切なものを取り零してしまうのが怖くて。抱えるものなど二度と持たないと、そう決めていたはずなのに。
目の前で散ろうとしているものを、堕ちようとしている命を。諦められない自分の性分。
気付けばまた、お節介にも手を出して。その度に深入りを懼れて離れてきた。

「万事屋」なんて肩書きは、他の誰でもない、自分のための隠れ蓑。
土方を気遣うふりで、本当はただ自分を護っていた。とんだ卑怯者だ。


昔から、何故だか買いかぶられる節のある自分だけれど――臆病で無力で姑息な、自分の弱さは。誰よりも己がよく知っている。


ずっと張り巡らせていた、薄いけれど強固な壁。
それを乗り越えてこようというのか。
まるで壁が見えないかのように躊躇いなく入り込んできた、新八や神楽のように。

よりによって、お前が。

(参った……チクショー)

銀時は視線を俯けて、またガシガシと頭を掻いた。
ハァ、と。溜息のふりをして深呼吸を一つ。


俺よりももっと、目に見えて頑丈な壁を張り巡らせていたはずのお前に。
他人に近付きすぎることを、何よりも、誰よりも恐れていたはずのお前に……こうも真っ向から立ち向かわれてしまっては。


俺だけが逃げ続けるわけにいかないではないか。


「…そーかよ。じゃ、コレも貸しに加えとけや」

いつも通りの怠い声を装って、ズボンのポケットから取り出した物を土方に押し付ける。
不審げな顔をしながらも受け取った土方は、それが何なのかを見て取った途端、目を瞠った。

「俺ァ櫛なんか使わねーし?」

責任持ってテメェが引き取れよな。
そう言えば、土方は手の中の柘植の櫛から弾かれたように顔を上げる。

――使わない、って。お前が、それを、言うのか、と。

驚愕に彩られた表情はそう語っていて。
そうだよ誤魔化さねーってのはこういう事だよ今更実感したかザマァみろコンチクショー。銀時は意趣返しが成功したような気分にフフンと鼻を鳴らした。
…随分と、諸刃の剣な意趣返しではあるけれど。

「言っとくけど俺ァ取り立て厳しいからね。ビシバシいくから。追加報酬出さねーっつーなら金以外のモンでキッチリ払ってもらうから、覚悟しとけよコノヤロー」

未だ二の足を踏もうとする心を捩じ伏せるように、銀時は一息に言い切った。
視線を微妙に逸らして、ボリボリと首を掻きながら。

…すると。

唖然としたように固まっていた土方が、数秒の沈黙の後、ボッと急激に赤面したことに銀時は驚いた。
耳近くまで赤く染め上げて、信じられぬものを見るような目でこちらを見詰める。
何事かと見詰め返せば、ハッと狼狽したように視線を逸らして…ますます、その頬に赤みがさした。

その、明らかにオカシな土方の様相に。
自らの台詞を振り返った銀時は……ふと、気付く。


…金以外のモンで払ってもらうから、覚悟しておけ、…って。


それは。


(そ…っそういう意味じゃねぇよバカヤロォォォ!!)


つーかそういう意味ってどういう意味だボケェ!自分の心の叫びが墓穴を掘っていることに気付いて、銀時は胸中で頭を抱えた。

顔と頭が急速に熱くなってくる。おそらく自分の顔は今、土方に負けず劣らず赤く染まっているに違いない。
大の男が二人向かいあって赤面ってどうなんだ、と思いつつ、それもこの数週間では別段珍しいことではなかったと、その事実にまた狼狽。

「………や」
「や?」

しばし声も出せぬまま二人揃って固まっていると、やがて土方が、小さく口を開いた。
掠れた声で発せられた一音を鸚鵡返しに聞き返して、続く言葉を待つ、と。

「山崎ィィィ!!」

腹の底から発声された人名に銀時は仰け反り。はいよっと遠くから聞こえた威勢のよい返事とともに、黒服の男がこちらに駆け寄ってきた。
土方はバッと勢いよく銀時に背を向けると、走ってきた男に掌を突き出した。心得たように煙草とライターを差し出した山崎からそれらを奪い取って火をつける。

「報告!」

煙とともに怒鳴るような声を発した土方に、山崎は一度敬礼をしてから答えた。

「闇商人の護送車は先ほど出発しました。運転は原田隊長で沖田隊長も同乗しているので、まず心配ないかと」
「……待て。総悟が乗ってるっつーのはどう考えても不安要素なんだが」
「いえ、沖田さんくらいあからさまに危険なオーラを放っている人の方が、あの闇商人もナメてかからないだろうということで」
「あー…ま、そうかもな。で?うちの被害はどんなもんだ」
「はい、幸い死者は出ませんでしたが、負傷者が…」

急速に仕事モードに戻っていく土方を眺めながら、銀時はポリポリと頬を掻いた。
銀時の存在をシャットダウンするかのように向けられた背中からは、日常に戻ってパニックを脱しようという必死さがひしひしと漂ってきて。

要は…アレだ。さっきのは、その場の勢いってヤツだったらしい。
そう判断して、銀時は苦笑した。

一時のテンションに身を任せてしまってから、我に返って慌てふためいている、といったところか。
まあ、こちらとて同じようなものだから、人のことは言えないのだが。

銀時はガシガシと頭を掻いて踵を返した。

どうやら、お互いに。頭を冷やす時間が必要のようだ。


「…それと、万事屋の依頼料もお前が処理しとけ」
「わかりました。あ、追加報酬を求められた場合はどうしますか?」

その場を立ち去りかけた時に自分の呼び名が聞こえて、思わず足を止めて振り返る。
すると目に入った土方の横顔は、山崎の質問に、ひどく複雑な表情を浮かべていて。

「……却下だ。一切払うな。話はつけてある」

薄っすらと目元を染めながら、苦虫を噛み潰したような声で言った…アンバランスな土方の答えに。

「…はいよ」

山崎はチラリとこちらを見て、意味深長な笑みを浮かべる。

その微笑に、銀時が無性にイラッとしたのと同時。
まるで呼応したかのように、土方の拳が山崎を殴り飛ばしていた。





「うぅ…ひもじいアル…ひもじいアルヨ〜」

昼時の万事屋。
定春の背にうつぶせに凭れ掛かって神楽が零すのは、十代前半の少女が口にするのは余りに物悲しい台詞。

「真選組に貰った報酬、あっという間に無くなっちゃいましたね…」

ソファに腰掛けている新八は、遠い目をして呟いた。

「くそ、あのババァ根こそぎ持って行きやがって。まるでハイエナだぜ」
「アンタ一体何ヶ月分の家賃溜めてたんですか!ああもう、こんなことならやっぱり振込みにしてもらえば…!」

新八は呻いて頭を抱える。
万事屋の報酬は、大抵の場合はその場で現金払いだ。それはそもそもの仕事内容が、雨漏り修理だの迷い猫探しだの、あまり大きな額にならないものばかりであることからすれば自然な成り行きで。
今回の真選組の報酬は決して小額では無かったが、いつも通りの感覚で現金で受け取った。
口座振込みという手を考えないでもなかったが、分厚い札束を拝んでみたいという極めて庶民的な発想も手伝って、茶封筒に現ナマを入れてもらったのだ。

しかしそれが仇となった。
報酬を持参した山崎が帰った直後。一体いつから待ち構えていたやら、玄関からお登勢が乗り込んできて。
必死の抵抗も虚しく、気付けば茶封筒の中身は三分の一以下に減っていたのである。

それから一週間。
運悪く一つの依頼も舞い込んでこない万事屋は、米も買えないほどに窮乏している。

新八はこめかみを引き攣らせて立ち上がると、デスク前の椅子にだらしなく座っている銀時に詰め寄った。

「どうすんですか銀さん!このままじゃ僕ら全員飢え死にですよ!?アンタの日頃の行いのせいで!」
「なんだオイ、俺のせいですかコノヤロー。つーか何これデジャヴ?なんか前にもこんなん言った覚えあるんですけど」

銀時は詰め寄られても怯む様子も見せず、面倒くさげに眉を寄せて新八を見上げた。

「大体、お前は家に帰りゃメシがあんだろ」
「それは僕に死ねと言ってるんですか」

銀時の言葉に、新八はヒクリと頬を引き攣らせる。
真選組の大捕物が終結した日。数週間ぶりに実家に帰った新八は、笑顔の姉に「新ちゃんとご飯食べるの久しぶりね、久々に私が腕を揮うわ」と宣告されたのだ。
新八とて自他ともに認めるシスコンであるから、姉と一緒の食卓が嬉しくないはずはない。しかしできれば、姉以外の人の作った料理を囲みたいというのが本音だ。姉の料理には最近ますます磨きがかかっていて、あのダークマターを口にして果たして生きていられるかどうか、それすらも心もとない。

姉の気持ちを無下にせず、それでいて自分の身を守る方法…それを未だ見付けられない新八は、仕事が忙しいと称して引き続き万事屋に泊り込んでいるのだった。

ハァ、と溜息を吐けば、同時に腹の虫がグルルと鳴って。その音に触発されたのか、他二人の腹も同じような音を立てる。
情けない三重奏に新八はガックリと首を垂れた。

「…トシ姉の手料理が食べたいアル」

ポツリ、と。
神楽の呟いた台詞に、万事屋の空気がピタリと止まる。
数秒の沈黙の後、新八と神楽が揃って視線を投げかければ……銀時はその視線から逃げるように、明後日の方向に目を逸らしていた。


土方にはあれから会っていない。

事件の終結から一週間と少し。
事後処理に忙しいのか…それとも別に理由があるのか。土方はここに顔を見せないどころか、どうやら市中見廻りにも出ていないようで。

万事屋に置かれっぱなしだった彼の荷物は、菓子折りと報酬を手にやってきた山崎が引き取っていった。本人に取りに行けっていったら殴られたもんで、すいません。と眉を下げて。
銀時が団子屋に足を向ければ、店の縁台には沖田が寝そべっていた。今回はウチのバカがお世話になりやしたねィ、親爺、この旦那に団子一皿、土方さんのツケで。と含みのある笑みで。
馴染みの居酒屋にフラリと寄れば、どこで聞きつけたのか近藤が暖簾をくぐって入ってきた。銀時、俺は嬉しいよ、トシをよろしくな。と訳のわからないことをほざいて。

それでも、土方本人は姿を見せない。
――当然だ。と、銀時は思っていた。

あの時は、自ら壁を乗り越えてくるようなマネをした土方だけれど。アレはきっと、十中八九、一時の気の迷いというやつで。
アイツにとっては、無かったことにしたい出来事なのだろう。
土方の口からそう言われたわけではないが……何も言いに来ないことこそが、何よりも明確な答えの気がした。

このまま、しばらくの時が過ぎれば。
きっと何事も無かったかのように、会っては憎まれ口を叩く関係に戻るのだろう。

土方がいなくなっても数日は万事屋に漂っていた煙草の残り香が、次第に薄れて消えていったように。


「銀ちゃんがさっさとトシ姉をモノにしとかないからいけないネ」
「何言ってんのお前、何言ってんの?」

ふてくされたような神楽の声に、銀時は鼻をほじりながらやる気のない声で答える。

「何日も一つ屋根の下で暮らしてたんだから、既成事実の一つぐらい作っとけヨこのヘタレが」
「ちょ、ホント何言ってんのお前ェェェ!?」

ブシ、と思わず深くまで人差し指を突っ込んでしまった銀時は、鼻を押さえながら立ち上がった。
ツッコミ役のはずの新八までもが神楽のきわどい発言に「確かに」と頷いていて、銀時は頬を引き攣らせた。

「オイオイオーイ、ったく、いい加減にしろよオメーら!いいか?トシエさんなんて女は最初から存在しねーんだよ!いつまでもあの不良警官に変な幻想抱いてんじゃねーよ。そろそろ現実と向き合えバカヤロー」
「現実から目ぇ逸らしてんのはアンタでしょ」

ビシリ、と説教口調で言い放てば、逆にピシャリと返ってきた台詞に銀時は思わず口を噤んだ。

「確かにトシエさんなんて女の人はいませんよ。でも、土方さんって男の人はちゃんといるでしょう」

ソファに腰を下ろした新八の瞳は、真っ直ぐに銀時の目を射抜いている。

「あの人がここで暮らして、ご飯作ってくれたり一緒に戦ったりした事実は何も変わらないですよ」
「そういうことアル。さっさと認めたらどうネ」
「…………」

二人の子供に畳み掛けられて、銀時は柄にもなく言い返せずに沈黙した。
そんな銀時を見て、新八の表情がふっと和らぐ。

「今更ぜんぶ無かったことにしようったって無理ですよ、銀さん。人生はゲームじゃないんだから、リセットボタンなんて効かないんですから」
「くさっ!新八お前なに上手いこと言おうとしてんの?言っとくけどその喩え全然上手くないからね。むしろイラッとするだけだから」
「なんだとォォォ!?アンタだっていつも何かこんな感じのこと言ってんだろーが!」
「言ってませんー。俺の喩えはもっと的確かつ秀逸ですー」

やる気のない口調で適当に言い返して、銀時は再び椅子に身を預けた。
まだ何か言いたげな新八の視線を感じたが、視線を逸らしてそれを黙殺する。


…別に、全部無かったことにしようなんて思っているわけじゃないのだ。
しようと思ったってできないことも、言われるまでもなく知っている。

煙草の残り香が消えても、未だ寝室に残っている灰皿のように。今回の一件は銀時とその周辺に、確かな変化をもたらしていて。


あの男を、憎からず思っている。そして多分、思われている。
それはもう否定しようのない事実だ。

…けれど。


(…違うから。そういうんじゃないから)

銀時は胸中で誰にともなく呟いた。

既成事実がどうとかこうとか、そういうことじゃない。
ただ、互いに互いの位置付けがほんの少し変わった。それだけの話だ。

たったそれだけのことが――自分たちにはもう、手に余るほど大きく、重い。


例えば、この先、万が一。
何かの危機に瀕したアイツが…「依頼だ」と胸を反らすのではなく。「頼む」と一言で、こちらに助けを求めるようなことがあったとしたら。
他人から見たら些細な差異でも、それがあの男にとってどれだけの覚悟を必要とすることなのか、俺は知っている。


――それで、充分だ。


ギシリと背もたれに寄りかかり、口端に微かに笑みすら滲ませて瞑目すれば。

新八と神楽は顔を見合わせ、ハアァァ、と。それはそれは深い溜息を吐いた。
オイ待てお前らどういう意味だコノヤロー。そう問い詰めたかったが、問えば藪蛇になることが目に見えている。銀時は不本意ながら、黙って窓の方へ視線を向けた。

「あーもー、イライラしたら余計にお腹減ってきたアル」
「そうだね」
「ワン」

チッと蔑みもあらわな舌打ちとともに神楽が言えば、新八ばかりか定春までもが同意を示すかのように一声吠える。
後頭部にビシバシと突き刺さる視線を頑なに無視していると、再度の溜息とともに、ガバリ。背後で神楽が立ち上がる気配がした。

「もう我慢できないネ!下に行って米櫃かっぱらってくるアル!」
「え?ちょ、神楽ちゃん!」
「…ってオイィィ!ババァにどやされんの俺なんだぞ!」

新八の焦った声に我に返った銀時は、慌てて振り返り立ち上がった。
…が、その時には既に、神楽は玄関へ向けて走り出していて。新八とともに急いでその後を追う。偶にタダメシを食らいにいくだけでも容赦なく家賃に上乗せされるのに、米櫃を丸ごとかっぱらってきた日にはどういうことになるか判らない。

玄関を出たところで何とか神楽の腕を捕まえる。そのまま引きずって階段を降りられることを銀時は覚悟したが、予想に反して、神楽はその場でピタリと止まった。
なんだ、と拍子抜けしたのも束の間。

「トシ姉アル!」
「へ?」

嬉々とした神楽の声に、銀時は間抜けな声を漏らした。え、と隣から聞こえた新八の声は、驚きとそれを上回る期待に満ち満ちている。
見れば、神楽の視線は階下の通りに向けられていて。

(――巡邏、か)

さすがに市中見廻りをサボり続けるわけにもいかなくなったんだろうか。そう思って通りを見下ろせば、思いがけず目が合ってしまって銀時は固まった。

土方が佇んでいたのは、万事屋の正面。通りを挟んで向かい側の路上。
見廻り中でないことを示すかのように、服装は隊服ではなく黒い着流しで。
足元には吸殻の海。
こちらを見上げているその顔もまた、目が合ってしまったことに狼狽を浮かべて固まっている。

「トシエさ…じゃなくて土方さん!どうしたんですか?」
「……事後処理が一段落してな。山崎が、改めて礼に行けとかうるせーから…なんでか知らねーけど近藤さんも行けっつーし」

新八の呼びかけに、土方はハッと我に返ったような仕草の後、苦々しげな顔を取り繕って低い声で答えた。
居心地悪げに身じろぎした土方の片手には、ガサリと音を立てるビニール袋が提げられていて。
ああ、大江戸ストアの袋だと。
気付いた新八と神楽は目を輝かせ。銀時は背中に汗を伝わらせた。

視線を明後日に逸らして。煙草の煙を吐き出して、もみ消して。
さんざっぱら躊躇って言い淀んでから、土方はこちらを見上げて口を開く。

「だ…から、その……上がって、いいか」

そう言って、大江戸ストアの袋を掲げてみせた土方に。

もちろんアル!土方さんならいつでも大歓迎ですよ!即答した子供らの弾んだ声を聞きながら。
銀時は言葉を失って、ただ土方を見下ろした。

(――来やがったよ、コイツ)

元通りの関係を望むなら、土方はここへ来るべきではない。
誰に背中を蹴飛ばされようとも。個人的に万事屋を訪ねることだけは、絶対に避けなければいけなかった。そのくらいのこと、土方とて判っているはず。
…それなのに。

わざわざ私服で、手土産まで引っ提げて。独りでここを訪れたということは。


あぁ、何てこった。
俺がまた、苦労して自分を誤魔化していたというのに……この男はよっぽど、俺の苦労を踏みにじるのが好きらしい。


(…ぱっつぁんよォ、やっぱオメーの喩えはダメだわ)

だからオメーはダメガネなんだよ、と八つ当たりのように心の中で呟いて、銀時はグシャリと髪を掻き乱す。

リセットできない、どころじゃない。
後戻りすることも立ち止まることすら許されない――人生は、強制スクロールだ。

「…ッぐっは!」

言葉を失ったまま呆然と土方を眺めていたら、左右から両脇腹に肘鉄がめり込んで銀時は呻いた。
容赦の無い力の篭ったそれに非難の眼差しを向けると、それ以上に物凄い目付きで睨み返される。何してるアルかさっさと応えろヨ返事はイエス以外は認めませんよ、そう書いてある子供らの顔に、銀時の額を汗が伝った。

チラリと見下ろせば、土方は吸殻の海から未だ一歩も動かぬまま。黙って銀時の返事を待っている。

「……あー…まァ、上がれば?」

バリバリと首の後ろを掻きながらやっとこさそう言えば、土方はピクリと肩を揺らしてこちらを見た。
その、咎めるような色を含んだ瞳に――あァ、追い返してほしかったのか、と。気付いた時には既に遅く。
土方は悔しげに眉を寄せて、思い切るように一歩、こちらに踏み出したところで。

銀時は天を仰いだ。


子供の愚直さを大人の狡さで覆い隠しているようなこの男が。
自分と対峙する時だけは、ヴェールをかなぐり捨てて子供に戻るのを知っている。
負けまい、逃げまいと、小学生のような意地を張って。
恐怖する己を認めまいと目を瞑り、勢いに任せて足を踏み出しては、自らを不利な方向に追い詰めていく。バカな男だ。


お前にそうやって向かって来られる度に。俺もまた、逃げ場を失って狼狽しているのだということを――お前は知っているのだろうか。


カンカンと階段を揺らす足音がする。
それは、裾を割らないように楚々と歩いていた「トシエさん」のものではなくて。
見下ろせば、ガラの悪い男が黒い着流しの裾を蹴って、乱暴な足取りで上がってくる。
短い黒髪。腰に佩いた刀。紅のひかれていない唇には煙草が咥えられて、細く紫煙をたなびかせている。


たとえ姿形が元に戻ろうとも。

動き出してしまった関係は、もう元には戻れないらしい。
一度引鉄を引けば、弾倉には帰って来ない弾丸のように。

放たれた銃弾は自分でも気付かぬうちに、一番強固な壁に風穴を開けていた。


――さァ、そろそろ階段を上り終えるアイツを、俺は何と言って迎えてやろうか。
銀時は階段に向き直って、軽い深呼吸を一つ。


みっともなく狼狽えた姿など、アイツには見せたくないから。せめて表面上だけでも、腹をくくったフリをしてやろう。




臆病者同士。意地と見栄を張り合って、一歩ずつ距離を詰めていくのも悪くない。




負けず嫌いの辿り着く先は、きっと。

立ち止まっていては見られなかった、鮮やかな色の空だ。





--------完


長らくのお付き合い、ありがとうございました。
「きっかけはトシエさん」はこれにて完結となります。

大体こんな感じで終わることは、ほぼ最初から決めていたので…ここで終わんのかよ!という苦情は申し訳ありませんが受け付けられません。悪しからずご了承下さいませ。

長ったらしい話を最後まで読んで下さった皆様、本当にありがとうございました!
この後も番外編をちょこちょこ書いたりするかもしれませんので、その際にはまたご覧いただけたら幸いです。


2009.6.29