第七訓 自分に自信がない時って実際よりも敵が強く見えたりする
(あれ、神楽ちゃんがいない)
TVドラマを見終えて厠へ行ってきた新八は、居間から神楽の姿が消えていることに首を傾げた。
自室へ引っ込んでしまったのだろうか。それとも、和室で銀時にドラマの感想でも述べているのか。
(どっちが先に風呂に入るか決めておこうと思ったのに。トシエさんが出たらすぐに入らないと、ガス代が…)
節約主婦さながらのことを考えながら、新八は和室へと続く襖へと歩み寄った。
「神楽ちゃん?」
何気なく襖を開いて、寸の間、新八は固まった。
そこにいたのが神楽でも銀時でもなくトシエだったからだ。
それも、寝巻きらしい白地の浴衣をゆるく纏い、畳に正座を崩して座って、長い黒髪を櫛でといている。
襟足からのぞくうなじは風呂上りのために軽く上気していて、その婀娜っぽさに新八は思わず狼狽した。
「すっすすすすいまっせんトシエさん!お風呂、上がられてたんですね!」
泡を食ってシュバッとその場で回れ右をした新八に、トシエは不思議そうな目を向け、次いで苦笑した。
「なに慌ててんだ」
「え?あ、そ、そうですよね」
かけられた声の低さと男言葉に、新八は我に返った。
(そうだ。この人は土方さんだった)
つまり、男の人。男同士。湯上り姿を目撃したところで、何も慌てる必要なんかないじゃないか。
咄嗟にうろたえてしまった自分がひどく恥かしくて、新八はバツ悪く頬を掻きつつ土方に向き直った。
「すいません。その、お風呂上がられたの知らなかったんで、ちょっとびっくりしちゃって…あ、神楽ちゃん知りませんか?」
「チャイナなら俺と入れ替わりに風呂に行ったぜ」
「ああ、そうですか」
ならいいんですけど、と言う新八に、土方は少し笑う。
年齢の割りに所帯染みたことを言っている自覚のある新八は、苦笑して頭を掻いた。
「あ、トシエさん、その櫛どうしたんですか?」
何気なく、話題を逸らそうと思って土方の手にある見慣れぬ櫛を指差す。
すると土方はピクリと手を止め、言葉を詰まらせて俯いた。
その目元がうっすらと赤く染まっているように見えて、訳も判らず新八は焦る。
「え、あ、あの…?」
「……カツラが、絡むんでな。今日…経費で買った」
「あ、ああ、なるほど」
ぼそりと呟くような土方の答えに、新八はコクコクと頷いた。
なんでそれで赤くなるんだろうと思いはしたが、どうにも聞いてはいけないことのような気がして、その疑問は唾とともに飲み込む。
「と、ところで銀さんは…?」
「……っ」
ギクシャクと話題を変えれば再び意図せずに地雷を踏んでしまったようで、土方の手がまたピクリと震える。
わわ、どうしよう、と新八は冷汗を流した。
「…知らねーよ。さっきまでいたけどな」
急に出てった。
ぶっきらぼうにそう答えた土方は、止まっていた手を何事も無かったかのように動かすと、再び髪を梳かし始めた。
新八はもう、そうですか、としか言えずに、所在無く視線をさまよわせた。
「あー…」
玄関のすぐ外、木柵に肘をついて銀時はぼやいていた。
万事屋の間取りは、そこそこ広い割りには個人の空間がほとんど無い。個室をあてがわれているのは神楽のみで、その他は共有スペース
である。普段はそれで不自由ないのだが、ここ最近は新八が実家に帰れない上に、さらにもう一人寝泊りする人間が増えている。
それ故に、一人になりたいと思ったら厠にこもるか外に出てくるかしか手は無いのだ。
つまるところ、銀時は一人になりたくてここへ来ていた。
もっと有体に言えば逃げ出して来たのである。和室から。
…というか、和室にいる人物から。
「まずいよなァ…」
銀時はわしゃわしゃと髪を掻き回した。
別に、トシエさんの湯上り姿にドキッとして居たたまれなくなったとかではない。
…いやまァ確かに、上気した肌とか石鹸の香りとかにほんの少しだけ色気を感じてしまったことは認めざるを得ないが。
「って、いやいやいや!違うから!アレはほら、驚いた方の『ドキッ』だから!ちょっとびっくりしただけだから!」
いやに慌ててブツブツと独り言を漏らすと、銀時は左右に首を振った。
共同生活を始めてから結構日数が経過しているが、実は銀時が風呂上り直後のトシエを目撃したのは今日が初めてだった。最近毎日のように
夜中に仕事に行っていたせいだ。
だから、土方が風呂上りで普段の化粧を…銀時が「きっと特殊メイク的な何かに違いない」と信じている化粧を…落としているはずなのにも
かかわらず、違和感無く「トシエさん」に見えることに驚いた。
(…つーかアレは多分、風呂出てすぐに寝化粧でも施してから和室に戻ってきたんだよな。きっと)
でなきゃアレだ。色々とオカシイ。すっぴんであの顔はオカシイだろ。うん。
自分で自分を無理矢理納得させて頷いてから…「あの顔」って何だよ、と木柵に額をゴツリ。
銀時は深く溜息を吐いた。
違う。違うのだ。
銀時がここへ逃げ出して来たのは、湯上りのトシエの色気のせいでは断じてない。ナイったらナイ。
和室に居たたまれなくなったのには、…ある意味、もっとやっかいな理由があるのだ。
和室に戻って来た土方が、「借りるぞ」と一言いって、柘植の櫛を手に取ったから。
それを思い返して、銀時は木柵に額をつけたまま頭を抱えた。
土方が風呂へ向かう直前。
手櫛で髪を掻き回しているのをじっと見詰める視線を感じて、銀時は「しまった」と思った。
「自分の天然パーマのために」と言って買った櫛。
それが嘘だと、あの瞬間、確実に見破られた。そう感じたからだ。
襖が閉められた後、銀時は小さく舌打ちをした。
カツラがもつれて困っているクセに、女物の櫛を進んで買おうとはできないあの男。
バカらしいとは思わない。そういう些細な矜持を捨てないからこそ、何週間も女装して生活しながらも自分のペースを保てるのだろう。
ここ数週間の土方の働きは半端じゃない。変装して、演技して、他人の家に寝泊りして。そうして最前線で仕事をしながら、山崎を介して
隊士に指示を飛ばしていたりするのだから。
男の自分を確かに保ちながら、女の仮面を器用に付け外ししなけらばならない毎日。副長さんも大変だな、と、皮肉抜きでそう思う。
だから、ちょっとだけ協力してやろうと思った。ただそれだけだ。
「俺が使う」ということにして櫛を買って。
強引に真選組の経費で金を出させれば、「それならウチの備品だろ」という口実で、土方が無理なく櫛を手にできるだろうと。
それなのに。
銀時があの櫛を使う気がないと、ああも早々にバレてしまっては。
あの場では何も言わずに風呂へ向かったが、出てきたらきっと問い質される。そう思った。
「テメェどういうつもりだ」と眉を寄せられて。
土方のためにしたことだと知れたら、プライドの高いあの男は、侮辱だと感じるのではないだろうか。
「余計なお世話だ」と意地を張って櫛を受け取らないかもしれない。
そもそも、自分があの男を気遣ったなど。他の誰に知られても本人には気付かれたくなかったのに。
失敗した。
ガリガリと頭を掻いて、さてどう誤魔化そうかと思案を巡らせた。
しかしいい案が浮かばないうちに、土方が風呂から上がってきてしまって。
お前カラスの行水かコノヤローと逆ギレしつつ顔を上げれば、思いのほか色香の漂うトシエの姿に一瞬言葉を失い。
そして。
「借りるぞ」
と一言。何気なく言って櫛を手に取った土方に、思わず「へ?」と間抜けな声を上げてしまった。
「何だよ。そもそもウチの経費で買ったんだから真選組の備品だろうが。文句言われる筋合いはねェぞ」
…なんて、土方の言葉は、まるでこちらの予定通り。
しかし。
驚いて見詰めれば、ぶっきらぼうな口調に似合わない、伏し目がちな土方の表情。
ちらりと上げられた瞳は逡巡をはらんでいて、その意味に気付いた時、銀時は堪らず部屋を出た。
土方は気付いている。銀時が何故あの櫛を買ったのか。
自分では使わないものを自分用だと宣言した理由も、無理矢理に経費でと押し通した理由も、全て。
気付いていながら、問い質すこともせず。侮辱だと怒り出すことも、意地を張って突っぱねることもせず。
銀時の嘘に騙されたフリをして、櫛を受け取った、のだ。
(あー、くそ)
いい男だ。
銀時は木柵にぐっと体重を預けて、また深く溜息を一つ。
市中で鬼と噂のあの男、は。
他人から寄せられる好意に疎くて、周囲の人間の感情の機微など意に介さない、傲慢で人の情に薄い男……の、フリをできる男なのだと、
知ってはいた。
寄せられる好意を知ったこっちゃないと突っぱねるのは、危険な生業の自分に相手を深く関わらせないため。
人の言動の裏に隠された感情を斟酌しないのは、相手がその感情を「隠して」いるのだと察しているから。
薄情で冷酷な振舞は、真選組内外の憎悪や不満を一身に集めて、近藤を中心とした一枚岩を崩さないため。
腐れ縁とも言える付き合いの中で、銀時は土方のそういう、高慢なくせに自己犠牲的な性分を見抜いていた。
他人への警戒心は強いが、一度自分の内側に入れた者には意外なほど優しい男なのだ、と。
しかしまさか。
その判りにくい優しさが、自分に向けられる日が来ようとは。
「…うー…」
銀時は呻いた。
垣間見えた優しさが、嫌だというわけではない。
いい男だ、と思う。ただ、そう思わされてしまうのが悔しいのだ。
気遣いに気付かせまいとした自分。
気付かぬフリをしたアイツ。
「……コレ、負けてねーか、俺。」
銀時は低く唸って、再びガシガシと頭を掻いた。
眉の寄った顔を上げて夜空を見上げる。
いつまでもここでこうしている訳にもいかない。そろそろ部屋に戻らなくては。
…外に出ていた口実を何か見付けてから。
銀時は顎に手を当てて少し思案すると、足音を響かせぬように、そっと階段を降りていった。
「あ、銀さん。どこ行ってたんですか?」
ガラピシャ、という戸の音に新八が和室から顔を出すと、銀時が廊下から居間に入ってきたところだった。
今までどこにいたのかと尋ねれば、面倒そうに短く答えられる。
「あー、下のババァんトコ」
「え?お登勢さんの?」
首を傾げた新八は、すぐにちょっと眉を顰めた。
「…ってアンタまさか、飲んできたんですか?」
「なんだよ。いいだろ一杯ぐらい」
「よくないですよ!明日も仕事あるんでしょう!?」
「一杯じゃ明日まで残ったりしねーっつーの」
小言を軽く流されて新八は溜息を一つ。
銀時はそんな新八の横を擦り抜ると、開いたままの襖から和室に足を踏み入れた。
そこで、脚を少し崩して座っている土方と、バシリ。目が合う。
「………」
「………」
互いに一瞬固まった二人は、無言のまま、ほぼ同時に相手から目線を逸らした。
土方は斜め下に視線を落としたまま手の中で柘植の櫛を弄び、それにチラリと目を向けた銀時はガシガシと頭を掻く。
なんだろこの人たち、やっぱ何かあったのかな、と新八は何故だかソワソワした。
だがそうしていたのはほんの数秒。
銀時は俯いて頭を掻いていた手をピタリ、と止めると、急にいつも通りになった顔を上げて土方に歩み寄った。
そういやさァ、と平静な声で、思い出したように懐に手を入れる。
「ババァがさ、長い髪を下ろしっぱなしでいると絡みやすいからっつって、コレ寄越したんだけど」
使ってみねェ?と銀時が差し出したのは、深い紅色の髪結い紐だった。
それを見て「ああ、似合いそうだな」なんて素で思ってしまった新八は、声に出してもいないのに慌てて口元を押さえる。
女性用の髪結い紐が似合うだなんて、土方にとっては侮辱でしかないだろうと思ったからだ。
「ほら」
「………ん」
僅かに眉を寄せ、少々いぶかしむような表情で結い紐を受け取った土方は、意外にも慣れた手付きで髪をポニーテールの位置に纏め上げた。
白いうなじが見えて思わずドキリとすると同時に、顕になった生え際が不自然に見えないことに新八は目を瞬く。
最近のカツラってすごいな、どうなってるんだろう…なんてついマジマジと観察していたら、銀時が土方の背後に回ったことで視線を遮られた。
そして、その銀時が。
「あー、ポニーもいいけど、もうちょい低い位置でお団子とか作ってみねェ?」
などと言って土方の後れ髪をスルリと掻き上げたものだから、新八は仰天した。
その上、一瞬身を固くした土方が、何も言わずに任せるように両手を下ろしたことにさらに驚倒する。
(ええェェえ!?土方さんが、銀さんに好きに髪をいじらせてる…って、ななななんで!?え?コレ普通なの?普通の光景なの!?)
ダラダラと汗を流して固まってしまった新八に、銀時はチラリと振り返って怠い声を投げかけた。
「新八、茶ァ」
「あ、ははははい!」
その声に救いを得たように、新八は即座に回れ右をする。
普段は「飲みたいなら自分で淹れて下さいよ」と文句の一つも出るところだが、今はそんなことを言っている余裕がない。
(そうだ、お茶。お茶を淹れよう。お茶を飲んだら僕もきっと落ち着くはずだ…!)
「あ、俺やっぱいちご牛乳で」という銀時の声を背中で聞きながら、新八は逃げ出すように台所へ向かった。
土方が最初にオカシイと感じたのは、髪結い紐を差し出された時だ。
それから銀時が近付いてきて、スルリと髪を掻き上げられ、そして。
「なァ、トシエさん」
そう呼びかけられた瞬間に土方は確信した。
監視者が、いる。
おそらく屋根裏に。
監視カメラが設置する端から壊されるので業を煮やしたか。忍び込んで直接室内を監視するなど大胆な真似を。
土方は舌打ちしたい気分を堪えてトシエの仮面を整えた。
日常生活までずっと監視されては流石に堪らない。ここは監視に気付いていないフリをして誤情報を与えて満足させ、早々にお帰り
いただくのが得策だろう。
あちらが知りたいのはおそらく、銀時とトシエの関係と、所属組織の正体。
どこの組織が生物兵器の取引を嗅ぎ回っていて、その組織の中枢に近いのはどちらなのか。最低でも後者は掴んで帰りたいに違いない。
ならば、こちらがすべき演技は。
一つには、銀時とトシエは真実恋人同士だと見せなければならない。金で雇われた部外者と雇い主だなどと知られてしまえば、万事屋に
仕事を依頼したことがある、という筋を辿って真選組に辿り着かれかねない。だが情事の間柄とあれば、女性隊士のいない真選組は敵の目から
外れやすくなるはずだ。
もう一つ。組織の中枢に近いのはトシエだと思わせたい。首謀者は正体不明の女の方で、銀時はトシエの恋人故に巻き込まれただけ、という
ことにできれば、万事屋の関係者が情報源として狙われる可能性は少なくなる。子供達やお妙、大家のお登勢などの身の安全を確保できる上に、
万事屋と真選組の繋がりも着目されにくい。
これらの情報を自然に与えられる演技をしなくては。
土方は黙って銀時に髪をいじらせつつ策を練った。
銀時もおそらく、誤情報を与えてさっさと監視者を帰そうと考えているはずだ。
だからこそ、新八が下手なことを口走らないように一旦この場から遠ざけたのだろうから。
何をどう言い出すべきかと土方が考えていると、ふいに後ろから前へと回された手が土方を抱き寄せた。
一瞬驚きはしたが、取りあえずされるがままに銀時の胸へもたれる。
すると銀時は左肩口から土方の顔を覗き込み、柔らかく微笑んで左手で土方の頬を撫でた。
「…難しい顔してるぜ?」
「あ…」
思わず息を飲んで、土方は少し身体を震わせた。
恋人同士のふりをするようになって数週間。腕を絡めたり肩を抱き寄せられたり、時に額を肩口に擦り寄せることもあったが、こんな風に
触れられるのは初めてだ。
そう思った瞬間に、何を考えているのだ自分は、と顔に血が上る。
銀時はそんな土方に気付いているのかいないのか、右頬に添えた手はそのままに、身体に回した右腕に力を込めた。
「気持ちは判るけどさ…あんまり四六時中、気ィ張り詰めてっと…倒れちまうって。だからさァ…」
そこまで言って、少し困ったように眉尻を下げる。
「せめて俺が横にいる時ぐらいは、もうちょい力抜かねぇ?」
俺、頼りねぇ…?と微苦笑を零され、労わるように横髪を撫でられて、土方は震える唇を必死に引き結んで俯いた。
(演技。コレは演技だ。動揺するな!)
ドクドクと鳴っている心臓の音は聞かないふりで、自分に言い聞かせる。
悔しいが、流石だ。監視者に誤情報を与えるには絶好の流れ。
本当に恋人同士だということ。トシエの方が中枢に近いということ。銀時の演技が自分の意図した方向と合致していることに安堵すべきだ
と、土方は細く息を吐いて呼吸を整えた。
監視者に確信を得させるには、もう一押し必要だ。
「銀時さん…ごめんなさい」
俯いたまま、絞り出すような声を発する。
半ば素で唇が震えていていっそ好都合だ、と、頭の冷静な部分で土方は自嘲した。
何を謝るのか、と顔を覗き込もうとする銀時に、潤んだ目を向ける。
「私のせいで、こんな大変なことに巻き込んでしまって…」
「―っ」
銀時が目を見開いてハッと息を飲む。どんだけ演技巧者だコイツと、土方はまた俯いて表情を隠した。
「……もし私に何かあったら、このことは全部忘れて、子供達と逃げて下さ…っ」
「オイオイ!何言ってんだコノヤロー!」
突然ガッと両肩を掴まれ、正面から顔を見据えられる。荒くなった言葉使いに一瞬目を瞠ったが、そういやコイツは元々男女分け隔てなく
こういう話し方だよな、と思い直した。演技が崩れたわけではないようだ。
その証拠に、土方を見詰める銀時の瞳は常のダルさの影もないほど真摯で。安心させるように笑みを浮かべた口元は、口調に似合わない、
驚くほど優しい声音を発している。
「お前、俺をどんな男だと思ってんだ?万事屋銀さんは一度引き受けたやっかいごとを途中で放り出したりしねェよ。それに…」
ここで一旦言葉を切った銀時は、肩を掴んでいた右手をそっと頬に添えると、土方に顔を近付け、ひどく優しい目で微笑んだ。
「一度惚れた相手のそんな顔も、放っておけねェな」
「――っ!」
土方は今度こそ、無視しようもないほど心臓が跳ね上がるのを感じた。
「銀時さ…っ!」
感極まったふりをして銀時の胸に顔をうずめる。
こんな、明らかに演技ではあり得ないほど赤く染まった頬を、この男にだけは見られるわけにいかなかった。
(―っの、タラシがァァア!)
心の中で土方は絶叫した。
演技であんな瞳が、あんな声が、あんな台詞が、出てくるなんて。
演技巧者だとかいうレベルではない。男で、しかも演技だと判っている土方すらこんな気分にさせられるのだから。そこらの女なら十中八九
落ちる。間違いない。
(モテねぇとか絶対嘘だろコイツ…ッ)
熱の上った頬と踊り狂う心臓のせいで涙すら浮かんできて、土方はグッと、銀時の胸の服地を握りこんだ。
(…行ったか)
屋根裏から気配が消えるのを感じて、銀時はホッと息を吐いた。
よかった。土方を抱き込んでいるのもそろそろ限界に近かったのだ。
…って限界って何。
銀時は自分の思考にピシリと固まった。
…気持ち悪さに堪えかねる、という意味ではない。非常に残念なことに違うのだ。
では何が限界なのかと言えば。
一番近い言葉は、理性、だ。
(イヤ、イヤイヤイヤイヤ!)
そんなバカな、と銀時は内心で激しく首を振った。
そりゃ確かに、潤んだ瞳に震える唇、染まった頬…もう何コイツ役者で食っていけるんじゃねェのってくらい真に迫った土方の演技に、不覚にも
ドキリとしてしまったことは認める。認めるが。
しかしだからと言って、男を胸に抱きこんで「理性が限界」ってそれはいくらなんでも!
(ああああり得ねェ!あり得ねェよ!コレはアレだちょっと演技に熱が入りすぎちゃって!それを引きずってるだけで!)
バクバクと鳴っている心臓の音を土方に聞かれるわけにはいかないと、銀時は身体を退こうとした。
しかし土方の手は銀時の服地を掴んで離さず、顔は胸元にうずめられたまま。
(あ、え?)
銀時は焦って周囲の気配を探った。
「…おい、まだいるか?俺、気配感じねェんだけど…」
どうしても監視者の気配を感じないことに眉を顰めて、土方の耳元にそっと囁く。
すると土方はビクリと震えて、俯いたままバッと身体を離した。
すぐに銀時に背を向け、逃げるようにいざって離れる。
「……オイ」
それはあんまりじゃねェの、と言おうとして、また「何があんまりなんだ」と自問してしまった銀時は口を噤む。
土方は髪結い紐をスルリと解いて横顔を隠すように髪を下ろすと、そっぽを向いたまま、小さな声で呟いた。
「…うまくいったみてェだな」
「あ?お、おう」
「家の中までパパラッチが来るとは思わなかったぜ。ガキどもにも言っとかねェとな」
「そうだな」
一転して仕事モードの土方に、器用なことで、と溜息を一つ。
銀時も努めて平静な声で答えていたが、続く言葉にヒクリと頬を引き攣らせた。
「…つーか、メガネ遅くねェか…?」
「……あ」
そういえば。
まだ新八が戻ってきていなかった。茶を淹れるだけにしては時間がかかりすぎている。
先程までは監視者の気配と土方の演技に集中しすぎて気付かなかったが…
改めて気配を探って、閉じた襖の向こうに馴染みの気配が二つあることに、銀時は思わず頭を抱えた。
襖の向こうでは。
「ラブラブアルな〜」
「……そうだね…」
襖に張り付くようにして隙間から中を覗いている神楽の横で、新八が真っ赤な顔で体育座りをして。
もう大分ぬるくなってしまったお茶を、ズルルと啜っていた。