「うぅ…ひもじいアル…ひもじいアルヨ〜」

昼時の万事屋。
定春の背にうつぶせに凭れ掛かって神楽が零すのは、十代前半の少女が口にするのは余りに物悲しい台詞。

「真選組に貰った報酬、あっという間に無くなっちゃいましたね…」

ソファに腰掛けている新八は、遠い目をして呟いた。

「くそ、あのババァ根こそぎ持って行きやがって。まるでハイエナだぜ」
「アンタ一体何ヶ月分の家賃溜めてたんですか!ああもう、こんなことならやっぱり振込みにしてもらえば…!」

新八は呻いて頭を抱える。
万事屋の報酬は、大抵の場合はその場で現金払いだ。それはそもそもの仕事内容が、雨漏り修理だの迷い猫探しだの、あまり大きな額にならないものばかりであることからすれば自然な成り行きで。
今回の真選組の報酬は決して小額では無かったが、いつも通りの感覚で現金で受け取った。
口座振込みという手を考えないでもなかったが、分厚い札束を拝んでみたいという極めて庶民的な発想も手伝って、茶封筒に現ナマを入れてもらったのだ。

しかしそれが仇となった。
報酬を持参した山崎が帰った直後。一体いつから待ち構えていたやら、玄関からお登勢が乗り込んできて。
必死の抵抗も虚しく、気付けば茶封筒の中身は三分の一以下に減っていたのである。

それから一週間。
運悪く一つの依頼も舞い込んでこない万事屋は、米も買えないほどに窮乏している。

新八はこめかみを引き攣らせて立ち上がると、デスク前の椅子にだらしなく座っている銀時に詰め寄った。

「どうすんですか銀さん!このままじゃ僕ら全員飢え死にですよ!?アンタの日頃の行いのせいで!」
「なんだオイ、俺のせいですかコノヤロー。つーか何これデジャヴ?なんか前にもこんなん言った覚えあるんですけど」

銀時は詰め寄られても怯む様子も見せず、面倒くさげに眉を寄せて新八を見上げた。

「大体、お前は家に帰りゃメシがあんだろ」
「それは僕に死ねと言ってるんですか」

銀時の言葉に、新八はヒクリと頬を引き攣らせる。
真選組の大捕物が終結した日。数週間ぶりに実家に帰った新八は、笑顔の姉に「新ちゃんとご飯食べるの久しぶりね、久々に私が腕を揮うわ」と宣告されたのだ。
新八とて自他ともに認めるシスコンであるから、姉と一緒の食卓が嬉しくないはずはない。しかしできれば、姉以外の人の作った料理を囲みたいというのが本音だ。姉の料理には最近ますます磨きがかかっていて、あのダークマターを口にして果たして生きていられるかどうか、それすらも心もとない。

姉の気持ちを無下にせず、それでいて自分の身を守る方法…それを未だ見付けられない新八は、仕事が忙しいと称して引き続き万事屋に泊り込んでいるのだった。

ハァ、と溜息を吐けば、同時に腹の虫がグルルと鳴って。その音に触発されたのか、他二人の腹も同じような音を立てる。
情けない三重奏に新八はガックリと首を垂れた。

「…トシ姉の手料理が食べたいアル」

ポツリ、と。
神楽の呟いた台詞に、万事屋の空気がピタリと止まる。
数秒の沈黙の後、新八と神楽が揃って視線を投げかければ……銀時はその視線から逃げるように、明後日の方向に目を逸らしていた。


土方にはあれから会っていない。

事件の終結から一週間と少し。
事後処理に忙しいのか…それとも別に理由があるのか。土方はここに顔を見せないどころか、どうやら市中見廻りにも出ていないようで。

万事屋に置かれっぱなしだった彼の荷物は、菓子折りと報酬を手にやってきた山崎が引き取っていった。本人に取りに行けっていったら殴られたもんで、すいません。と眉を下げて。
銀時が団子屋に足を向ければ、店の縁台には沖田が寝そべっていた。今回はウチのバカがお世話になりやしたねィ、親爺、この旦那に団子一皿、土方さんのツケで。と含みのある笑みで。
馴染みの居酒屋にフラリと寄れば、どこで聞きつけたのか近藤が暖簾をくぐって入ってきた。銀時、俺は嬉しいよ、トシをよろしくな。と訳のわからないことをほざいて。

それでも、土方本人は姿を見せない。
――当然だ。と、銀時は思っていた。

あの時は、自ら壁を乗り越えてくるようなマネをした土方だけれど。アレはきっと、十中八九、一時の気の迷いというやつで。
アイツにとっては、無かったことにしたい出来事なのだろう。
土方の口からそう言われたわけではないが……何も言いに来ないことこそが、何よりも明確な答えの気がした。

このまま、しばらくの時が過ぎれば。
きっと何事も無かったかのように、会っては憎まれ口を叩く関係に戻るのだろう。

土方がいなくなっても数日は万事屋に漂っていた煙草の残り香が、次第に薄れて消えていったように。


「銀ちゃんがさっさとトシ姉をモノにしとかないからいけないネ」
「何言ってんのお前、何言ってんの?」

ふてくされたような神楽の声に、銀時は鼻をほじりながらやる気のない声で答える。

「何日も一つ屋根の下で暮らしてたんだから、既成事実の一つぐらい作っとけヨこのヘタレが」
「ちょ、ホント何言ってんのお前ェェェ!?」

ブシ、と思わず深くまで人差し指を突っ込んでしまった銀時は、鼻を押さえながら立ち上がった。
ツッコミ役のはずの新八までもが神楽のきわどい発言に「確かに」と頷いていて、銀時は頬を引き攣らせた。

「オイオイオーイ、ったく、いい加減にしろよオメーら!いいか?トシエさんなんて女は最初から存在しねーんだよ!いつまでもあの不良警官に変な幻想抱いてんじゃねーよ。そろそろ現実と向き合えバカヤロー」
「現実から目ぇ逸らしてんのはアンタでしょ」

ビシリ、と説教口調で言い放てば、逆にピシャリと返ってきた台詞に銀時は思わず口を噤んだ。

「確かにトシエさんなんて女の人はいませんよ。でも、土方さんって男の人はちゃんといるでしょう」

ソファに腰を下ろした新八の瞳は、真っ直ぐに銀時の目を射抜いている。

「あの人がここで暮らして、ご飯作ってくれたり一緒に戦ったりした事実は何も変わらないですよ」
「そういうことアル。さっさと認めたらどうネ」
「…………」

二人の子供に畳み掛けられて、銀時は柄にもなく言い返せずに沈黙した。
そんな銀時を見て、新八の表情がふっと和らぐ。

「今更ぜんぶ無かったことにしようったって無理ですよ、銀さん。人生はゲームじゃないんだから、リセットボタンなんて効かないんですから」
「くさっ!新八お前なに上手いこと言おうとしてんの?言っとくけどその喩え全然上手くないからね。むしろイラッとするだけだから」
「なんだとォォォ!?アンタだっていつも何かこんな感じのこと言ってんだろーが!」
「言ってませんー。俺の喩えはもっと的確かつ秀逸ですー」

やる気のない口調で適当に言い返して、銀時は再び椅子に身を預けた。
まだ何か言いたげな新八の視線を感じたが、視線を逸らしてそれを黙殺する。


…別に、全部無かったことにしようなんて思っているわけじゃないのだ。
しようと思ったってできないことも、言われるまでもなく知っている。

煙草の残り香が消えても、未だ寝室に残っている灰皿のように。今回の一件は銀時とその周辺に、確かな変化をもたらしていて。


あの男を、憎からず思っている。そして多分、思われている。
それはもう否定しようのない事実だ。

…けれど。


(…違うから。そういうんじゃないから)

銀時は胸中で誰にともなく呟いた。

既成事実がどうとかこうとか、そういうことじゃない。
ただ、互いに互いの位置付けがほんの少し変わった。それだけの話だ。

たったそれだけのことが――自分たちにはもう、手に余るほど大きく、重い。


例えば、この先、万が一。
何かの危機に瀕したアイツが…「依頼だ」と胸を反らすのではなく。「頼む」と一言で、こちらに助けを求めるようなことがあったとしたら。
他人から見たら些細な差異でも、それがあの男にとってどれだけの覚悟を必要とすることなのか、俺は知っている。


――それで、充分だ。


ギシリと背もたれに寄りかかり、口端に微かに笑みすら滲ませて瞑目すれば。

新八と神楽は顔を見合わせ、ハアァァ、と。それはそれは深い溜息を吐いた。
オイ待てお前らどういう意味だコノヤロー。そう問い詰めたかったが、問えば藪蛇になることが目に見えている。銀時は不本意ながら、黙って窓の方へ視線を向けた。

「あーもー、イライラしたら余計にお腹減ってきたアル」
「そうだね」
「ワン」

チッと蔑みもあらわな舌打ちとともに神楽が言えば、新八ばかりか定春までもが同意を示すかのように一声吠える。
後頭部にビシバシと突き刺さる視線を頑なに無視していると、再度の溜息とともに、ガバリ。背後で神楽が立ち上がる気配がした。

「もう我慢できないネ!下に行って米櫃かっぱらってくるアル!」
「え?ちょ、神楽ちゃん!」
「…ってオイィィ!ババァにどやされんの俺なんだぞ!」

新八の焦った声に我に返った銀時は、慌てて振り返り立ち上がった。
…が、その時には既に、神楽は玄関へ向けて走り出していて。新八とともに急いでその後を追う。偶にタダメシを食らいにいくだけでも容赦なく家賃に上乗せされるのに、米櫃を丸ごとかっぱらってきた日にはどういうことになるか判らない。

玄関を出たところで何とか神楽の腕を捕まえる。そのまま引きずって階段を降りられることを銀時は覚悟したが、予想に反して、神楽はその場でピタリと止まった。
なんだ、と拍子抜けしたのも束の間。

「トシ姉アル!」
「へ?」

嬉々とした神楽の声に、銀時は間抜けな声を漏らした。え、と隣から聞こえた新八の声は、驚きとそれを上回る期待に満ち満ちている。
見れば、神楽の視線は階下の通りに向けられていて。

(――巡邏、か)

さすがに市中見廻りをサボり続けるわけにもいかなくなったんだろうか。そう思って通りを見下ろせば、思いがけず目が合ってしまって銀時は固まった。

土方が佇んでいたのは、万事屋の正面。通りを挟んで向かい側の路上。
見廻り中でないことを示すかのように、服装は隊服ではなく黒い着流しで。
足元には吸殻の海。
こちらを見上げているその顔もまた、目が合ってしまったことに狼狽を浮かべて固まっている。

「トシエさ…じゃなくて土方さん!どうしたんですか?」
「……事後処理が一段落してな。山崎が、改めて礼に行けとかうるせーから…なんでか知らねーけど近藤さんも行けっつーし」

新八の呼びかけに、土方はハッと我に返ったような仕草の後、苦々しげな顔を取り繕って低い声で答えた。
居心地悪げに身じろぎした土方の片手には、ガサリと音を立てるビニール袋が提げられていて。
ああ、大江戸ストアの袋だと。
気付いた新八と神楽は目を輝かせ。銀時は背中に汗を伝わらせた。

視線を明後日に逸らして。煙草の煙を吐き出して、もみ消して。
さんざっぱら躊躇って言い淀んでから、土方はこちらを見上げて口を開く。

「だ…から、その……上がって、いいか」

そう言って、大江戸ストアの袋を掲げてみせた土方に。

もちろんアル!土方さんならいつでも大歓迎ですよ!即答した子供らの弾んだ声を聞きながら。
銀時は言葉を失って、ただ土方を見下ろした。

(――来やがったよ、コイツ)

元通りの関係を望むなら、土方はここへ来るべきではない。
誰に背中を蹴飛ばされようとも。個人的に万事屋を訪ねることだけは、絶対に避けなければいけなかった。そのくらいのこと、土方とて判っているはず。
…それなのに。

わざわざ私服で、手土産まで引っ提げて。独りでここを訪れたということは。


あぁ、何てこった。
俺がまた、苦労して自分を誤魔化していたというのに……この男はよっぽど、俺の苦労を踏みにじるのが好きらしい。


(…ぱっつぁんよォ、やっぱオメーの喩えはダメだわ)

だからオメーはダメガネなんだよ、と八つ当たりのように心の中で呟いて、銀時はグシャリと髪を掻き乱す。

リセットできない、どころじゃない。
後戻りすることも立ち止まることすら許されない――人生は、強制スクロールだ。

「…ッぐっは!」

言葉を失ったまま呆然と土方を眺めていたら、左右から両脇腹に肘鉄がめり込んで銀時は呻いた。
容赦の無い力の篭ったそれに非難の眼差しを向けると、それ以上に物凄い目付きで睨み返される。何してるアルかさっさと応えろヨ返事はイエス以外は認めませんよ、そう書いてある子供らの顔に、銀時の額を汗が伝った。

チラリと見下ろせば、土方は吸殻の海から未だ一歩も動かぬまま。黙って銀時の返事を待っている。

「……あー…まァ、上がれば?」

バリバリと首の後ろを掻きながらやっとこさそう言えば、土方はピクリと肩を揺らしてこちらを見た。
その、咎めるような色を含んだ瞳に――あァ、追い返してほしかったのか、と。気付いた時には既に遅く。
土方は悔しげに眉を寄せて、思い切るように一歩、こちらに踏み出したところで。

銀時は天を仰いだ。


子供の愚直さを大人の狡さで覆い隠しているようなこの男が。
自分と対峙する時だけは、ヴェールをかなぐり捨てて子供に戻るのを知っている。
負けまい、逃げまいと、小学生のような意地を張って。
恐怖する己を認めまいと目を瞑り、勢いに任せて足を踏み出しては、自らを不利な方向に追い詰めていく。バカな男だ。


お前にそうやって向かって来られる度に。俺もまた、逃げ場を失って狼狽しているのだということを――お前は知っているのだろうか。


カンカンと階段を揺らす足音がする。
それは、裾を割らないように楚々と歩いていた「トシエさん」のものではなくて。
見下ろせば、ガラの悪い男が黒い着流しの裾を蹴って、乱暴な足取りで上がってくる。
短い黒髪。腰に佩いた刀。紅のひかれていない唇には煙草が咥えられて、細く紫煙をたなびかせている。


たとえ姿形が元に戻ろうとも。

動き出してしまった関係は、もう元には戻れないらしい。
一度引鉄を引けば、弾倉には帰って来ない弾丸のように。

放たれた銃弾は自分でも気付かぬうちに、一番強固な壁に風穴を開けていた。


――さァ、そろそろ階段を上り終えるアイツを、俺は何と言って迎えてやろうか。
銀時は階段に向き直って、軽い深呼吸を一つ。


みっともなく狼狽えた姿など、アイツには見せたくないから。せめて表面上だけでも、腹をくくったフリをしてやろう。




臆病者同士。意地と見栄を張り合って、一歩ずつ距離を詰めていくのも悪くない。




負けず嫌いの辿り着く先は、きっと。

立ち止まっていては見られなかった、鮮やかな色の空だ。





--------完


長らくのお付き合い、ありがとうございました。
「きっかけはトシエさん」はこれにて完結となります。

大体こんな感じで終わることは、ほぼ最初から決めていたので…ここで終わんのかよ!という苦情は申し訳ありませんが受け付けられません。悪しからずご了承下さいませ。

長ったらしい話を最後まで読んで下さった皆様、本当にありがとうございました!
この後も番外編をちょこちょこ書いたりするかもしれませんので、その際にはまたご覧いただけたら幸いです。


2009.6.29

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