割勘
「あの…っ」
昼下がりの町を歩いていると後ろから若い女性の声が聞こえて、振り返った銀時は不機嫌に眉を寄せた。
そこに立っていたのは、顔を真っ赤にした妙齢の娘。焦茶色のリボンがかかった長方形の箱を大事そうに両手で持って、緊張に震えながらこちらを見ている。
今日の日付は2月の14日。
その箱の中味が何なのかは、容易すぎるほど容易に想像が付いた。
(あーあ…)
聞こえないように注意しつつ、苦い溜息を一つ。
彼女が見ているのは、残念ながら銀時ではない。
自分の隣で、無表情に女を見返している黒髪の男…土方十四郎である。
銀時はガリガリと頭を掻いた。
今日、この男と町を歩いたりすれば、こういう光景を見るであろうことは大体予想が付いていた。
ムカつくことにモテるのだ。この男は。
年中瞳孔開きっぱなしで有害煙をスパスパ撒き散らしているクセに、ちょっと顔が良くて高給取りでサラッサラヘアーのせいで。
そうだ。皆あのサラサラヘアーに騙されているに違いない。
俺だって天パでさえなければ、コイツなんか目じゃないぐらいモテモテなはずなのに。
負け惜しみか現実逃避にしか聞こえないことをブツブツと口の中でボヤいて、銀時は再度溜息を吐いた。
こういう不愉快な光景を見るであろうことは予想が付いていた、のに。
わざわざ今日という日に見廻りのルートを張って、偶然を装って顔を合わせて、そのまま許可も得ずに隣を歩いてきたのは。
好きでもないチョコを大量に貰って持て余しているだろう土方の前に、平素から甘味好きと公言している自分が姿を見せたならば。いい処理場を見付けたとばかりに「お前食え」と押し付けてくるのではないかと思ったからだ。
いや、名誉のために言っておくが、そうまでしてチョコレートが欲しいというわけではない。いくら甘い物が好きでも、他の男が貰ったバレンタインチョコを譲られても流石に嬉しくない。むしろ腹が立つ。
その男が曲がりなりにも自分の恋人とくれば尚更だ。
…そう。銀時と土方は所謂恋人関係にある。
ただし。バレンタインにチョコレートを贈り合うような仲ではない。
彼らは男同士だということを置いても、世間一般の恋人同士というものからは懸け離れていた。
バレンタイン・デイ。
天人からか外国からか知らないが、いつの間にかこの国にもたらされて根付いてしまったそのイベントは、男としても甘味好きとしても無視しがたいもので。
モテるモテないをわざわざ目に見える形で示すなんざァどんなドSの企画だよと呪いつつ、貰えた時の歓びを思うと全否定もできない。そんな複雑な愛憎模様を抱えて、今年もほのかな期待と苦い思い出に心揺らしていたわけだが。
ふと。
そういや今年は「恋人」ってやつがいるじゃん?とか思ってしまって。
思ってしまってから、イヤイヤ何考えてんだ自分、と頭を抱えた。
恋人はいる。確かにいる。
しかし。その恋人が自分にチョコレートをくれる可能性なんてほぼ皆無だ。
相手の性格から言っても。自分達の関係性から言っても。
あの男からナチュラルにバレンタインチョコを差し出されたりしたら、自分は歓ぶより先に引いてしまいそうな気がする。そのくらいあり得ない。
つまり。
今年は本命がいるにもかかわらず、やっぱりチョコは貰えない、と。
そう結論付けて、途端にものすごい虚しさに襲われた。
どうせ土方は、自分から銀時にチョコレートを贈るなんてことは考えもしていない。
それが面白くない。
別にどうしても本命チョコが欲しいとかそういうことではなくて。
自分一人がこの日付に土方の顔を思い浮かべてしまった、という事態が腹に据えかねるのだ。
だから。
土方が女から貰ったチョコを銀時に押し付けてきたら。
何気ない顔で受け取ってから、「へェ〜。コレくれるんだ。お前が。俺に。チョコを。しかも今日」なんて言ってニヤリと笑って。マズイことをしたと苦く歪む土方の顔を拝んでやろうと思ったのだ。
そうして、土方の中のバレンタインという日に、銀時の存在を刻み込んでやろうと。
それが向こうにとって嫌な思い出でもいい。2月14日という日付にフと銀時の顔が頭を過ぎるようになれば、ざまァみろというものだ。
恋人同士の行事など、普通に楽しめるはずもないのが自分達だ。
だったらこういう楽しみ方をしても構わないだろう。
そう思ったのだ。
だが。
「これ…受け取って下さい!」
うら若い乙女が、震える手で土方にチョコレートの箱を差し出す。
この光景は、想像していた以上に不愉快だった。
(あーあ…何コレ)
銀時は不機嫌に歪んだ顔を誤魔化すように、コキリ、と首を鳴らした。
認めたくない。
認めたくはないが。
この腹の奥に渦巻く、嫌な感覚は。
これは、嫉妬だ。
それも、今日まだ一個も貰っていない自分の目の前でチョコを差し出されている男に対する嫉妬、ではない。
自分の恋人にチョコを渡そうとしている女への嫉妬、でもない。
今日という日のこの行事を、普通に楽しめることへの嫉妬だ。
好きな人のためにチョコレートを用意して、ドキドキしながらそれを差し出す。
そんなこと。自分と土方の間では考えられないし、むしろ想像したら鳥肌が立ってしまうぐらいなのに。
両手で箱を差し出した姿勢で固まって真っ赤になっている娘と、何を考えているのか、それを黙って見詰めている土方。
その二人を見ていると。
コレが所謂、色恋沙汰ってヤツなんじゃね?とか。
こういう風にドキドキそわそわして、甘かったりほろ苦かったりするのが恋愛ってヤツなんじゃね?とか。
アレ?そうすると俺らって本当に恋人同士なのか?とか。
くだらないことが頭を回って、気分はグングン、ジェットコースター並みの急下降。
「恋人同士の行事など、普通に楽しめるはずもない」と。
最初にそう考えてしまったことが、目の前の彼女に対する事実上の敗北宣言であるような気がしてきて。
…落ちたまま上がって来ないから、ジェットコースターではなくフリーホールかもしれない。
「俺ァ真選組の土方だが、人違いじゃねェんだな?」
ずっと黙っていた土方が、煙草の煙を吐き出しながら声を発した。
その声にも顔にも表情は無く、感情は窺い知れない。
「は、はい…っ」
答える女の声は、緊張に震えている。
銀時は無表情でその二人を眺めながら、自分の胸の奥にも、幾ばくかの緊張が糸を張っていることを認めざるを得なかった。
土方がその女性の好意に応えるはずがないと、ほとんど確信に近い予想を持っていながら。
腹の中では動揺と焦燥が渦を巻いている。
そして。
「……そうか」
平坦な声でそう言った土方が、煙草をもみ消し、女に一歩二歩と近付いて。
ゆっくり上げた右手で、箱を持つ女の手ごと、包むようにチョコの箱を掴んだのを見て。
心臓がドクリと嫌な音を立てた。
「俺が」
女の手とチョコの箱を片手で掴んだまま、真っ直ぐに女の顔を見据えて土方は言った。
「お前にそれを差し出された時に最初に思ったことは、それが劇物や爆発物である可能性だ」
その言葉に。
緊張に震えていた娘の身体が、息を飲んで強張った。
「お前の手ごと掴んだのは、箱に直接触れないようにするためと、何かあった時にお前を逃がさないようにするためだ」
淡々と続けられる土方の台詞に、真っ赤に染まっていた顔が次第に色を失い始める。
「今も、俺はお前の顔を見ながら、頭の中で攘夷浪士のリストと照合している」
土方の声は、飽くまで静かで無表情だった。
「これが俺の仕事で、俺はそういう男だ。それでもお前は、俺にコレを渡したいと思うか?」
数秒の沈黙の後。
土方が右手の力を緩めると、女は震える声で「すみませんでした」と頭を下げて、チョコを持って立ち去った。
幻滅したのでも怖気づいたのでもなく、住む世界が違うことを悟ったのだろう。賢い女だ。
そう。美人で優しげで勇気があって賢い。いい女だった。
彼女が立ち去ってようやく、銀時はそのことに気付いた。
「ひでー男」
「うるせェ」
軽い声で揶揄の言葉を投げかければ、新しい煙草に火をつけた土方がそっけなく応える。
「物好きな女もいたもんだな」
「うるせェっつてんだろ」
重ねて言えば、土方の顔が苦々しげにしかめられた。
銀時はそれを見て、思わずゆったりと口端を持ち上げた。
…まったく、物好きはどっちだよ。
胸の内で軽く自嘲を零す。
彼女は間違いなくイイ女で。
それに対する土方の振り方は、間違ってはいないにしても、決して人情味あふれるものではなかった。
ひどい男。そう思ったのは本当。
それなのに。
「ったく、誰だこんな行事考えたヤツは。おかげでウチは毎年、特別厳戒態勢とるハメになってんだぞ?チェックしなきゃならねェ郵便物は格段に増えるわ、かといって下手に個人宛の小包をチェックすると文句が出るわ、ホントいい迷惑だぜ」
何の含みも無く。心底迷惑そうに。
情緒の欠片も無いことを言い放った土方に。
口角が持ち上がるのを抑えられない。
「知らねェ女から物を受け取るなっつってんのにバカな隊士は聞きゃしねェし、不審な郵便物なんか少ないに越したことねェっつーのに、一個も来ないなら来ないで近藤さんはヘコむし…あークソ」
そうだ。
この男にとってバレンタインとは、そういう日なのだ。
こういう男だと、自分は知っていた。
知っていて…知っていたから、こそ。
…本当に、物好きだ。
「…おーい、ちょっと一服してかね?」
「あぁ?」
唐突な言葉に怪訝そうに眉を寄せた土方を、銀時は強引に横手の甘味処に引っ張り込んだ。
俺ァ見廻り中だと言うのを無視して、店の親父に「いつもの二つ」と声をかける。
店表の縁台に隣り合って座れば、程なくして大福が二つ、一つの皿に乗ってやってきた。
大福、と言っても。実はその中味は餡ではない。
「コレ、この店の名物。チョコ大福ってんだよ」
柔らかな餅で包まれているのは、滑らかなチョコレートペースト。
別にバレンタイン特別メニューとかではなく、この店では馴染みの品なのだけれど。
「…オイ」
「別に奢らせようとか思ってねェよ」
チョコ、という単語に眉を跳ね上げた土方を、苦笑して遮る。
…ついさっきまでは。口八丁で騙して奢らせて、中味がチョコだと知った時の土方の顔を見るのも面白いかもしれないと企んでいたりしたのだが。
そんな姑息なことを考えてしまったこと自体に屈託して、普通に行事を楽しめることへの嫉妬、なんてものを感じてしまった自分だったが。
そもそもコイツが「普通」の男だったら。
2月14日という日付に、チョコを贈る贈られるでウキウキそわそわするような男だったとしら。
自分は惹かれていただろうか。そう己に問えば。
…答えは否、だ。
「ホレ、お前も一個食え。奢ってやるから」
銀時がそう言えば、土方の目は驚いたように見開かれた。
コイツはいつだって、真選組のことしか頭に無い物騒な男で。
「それでも」チョコを渡したいと思うか、と。土方はあの娘にそう聞いた。
しかし。
そんなお前「だからこそ」チョコを渡したいと思うのだ、と。
俺がそう言ったら。コイツはどんな反応をするのだろうか。
------完
■蛇足■
土方は、じっと考え込むような視線を皿の上の大福に向けていた。
銀時はその土方の顔を黙って眺める。
土方は、たまに驚くような天然ぶりを見せることもあるが、基本的には聡い。だからおそらく、充分に察しているはずだ。
今日この日に、銀時が「チョコ」と名の付く物を土方に奢ろうとしていること。
しかもそれが、他の娘からのチョコをあんな風に断った直後だということ。
それらの意味を、銀時の意図を。深く察して考え込んでいる。
自分がこの大福を受け取ったら、もしくは拒んだら。そこにどういう意味が発生するのか。
…その上で、自分がこのチョコを受け取るべきなのか否か。
多分、そういうことを考えているのだ。
それで、どういう結論に達するのだろうな。
横顔を眺めながら考える。
銀時は、自分が柄にもなく緊張していることに気付いて苦笑いを浮かべそうになった。
きっと先程の娘の緊張に比べたら、こんなものは大したものでは無いのだろうが。
そりゃあ本音を言えば、受け取ってほしいとは思う。
でも拒まれたって、それはそれで仕方ないよな、とも思う。
真選組以外のものに目を向けることを、自らに禁じているような節がある男のことだから。おそらくこのチョコの意味を真剣に考えれば考えるほど、受け取りにくくなるんじゃないだろうか。
…そんな男に惚れちまったこっちの負けだよな、と。悔しいけれどそう思う。
ぼんやり、見るともなしに土方に目を向けたまま思いを巡らせていると、ふいに土方が動いた。
片手でチョコ大福を一つ摘み上げ、そのまま勢いに任せるかのように一口に、ひょいと口に放り込む。
呆気にとられる俺を一顧だにせず、もぐもぐごっくん、と咀嚼して嚥下し、甘ェ、と呟き眉を顰めた。
…え。
何コレどう解釈すればいいの、と銀時が戸惑ったのも束の間。
「オイ、いくらだ」
「あ?」
出し抜けにそんなことを聞かれて、銀時は訝しげに眉を寄せた。
奢ってくれるとでも言うつもりか。
「仕方ねェから、割勘にしてやる」
「………」
続いた土方の台詞に、今度こそ銀時の眉間に深い皺が入った。
割勘。
それは奢ることも奢られることも拒否するということだ。
つまり、贈ることも受け取ることも拒むと。そういうことか。
(…んだよ、それ)
胸の下の方に、どろりと重いものが溜まった感覚がして銀時は視線を逸らした。
拒まれても仕方がない、と。つい先程思ったはずだったが。
こういう拒み方は土方らしくねェよな、なんて身勝手なことを思う。
「俺には真選組があるから、お前のソレを受け取るわけにはいかねェ」とか何とか、さっきの娘に言ったみてェにストレート直球で拒んでくれれば。返って、「ああ、そんだけ真剣に考えてくれてんだな」なんて自惚れた心持ちにもなれただろうに。
一直線の土方らしいよな、惚れた弱みだ仕方ねェ、なんて笑えた気もするのに。
何もはっきりと言葉にせず、割勘、だなんて。
チョコを贈るつもりも贈られた事実も全部否定して、この一件は無かったことにしよう、みたいな拒み方。
…ホント、ひでー男だわ。と、銀時はこっそり溜息を吐く。
先程、寸の間でもチョコを受け取ったようなそぶりをされたせいで、上げて落とされたような気分だった。
そんな拒み方をされるくらいなら、チョコ大福など食べずに突き返された方がマシというものだ。
(ん?…いや、待てよ)
そこまで考えて、銀時はフと違和感に気付いた。
オカシイ。
考えてみれば。土方は何故、あのチョコ大福を口に入れたのだ。
そうだ。受け取ることを本気で拒否するなら、食べなければいいだけの話ではないか。
差し出された好意を撥ねつけるのが忍びなかったから、受け取るだけは受け取って、遠回しに拒絶の意志を示した…なんてことはあり得ない。先刻、うら若い娘の純粋な好意を容赦なく拒んだ男なのだから。まして、銀時が相手ならば何の遠慮会釈もないはず。
「いらねェ」と一言で突き返せば意志は伝わるし、それで関係を気まずくするほど銀時はガキではない。土方にもそれは判っているはずだ。
それなのに。
一方的に押し付けられたチョコ大福を、深刻そうに考え込んだ末に口に放り込んで。
苦手そうな味に眉を顰めながらも吐き出そうとはせずに飲み込み、即座に緑茶で後味を押し流そうなんて無礼なそぶりも見せず。
銀時の強引な奨めに一言の文句も言わずに。
わざわざ金まで払おうとしている。
それは何故だ。
「…チッ」
思考に沈み込んでいた銀時は、土方の舌打ちの音に我に返った。
見ると、土方は皿の横に硬貨を数枚置いて立ち上がったところだった。
「へ、おい、ひじ…」
「言っとくが、来月に何かたかろうったってそうはいかねェぞ。これでイーブンだからな!」
銀時の声を遮って、早口に言い切る。
呆気にとられて見上げると、目が合う寸前に逸らされた。
…クソ、と一言漏らして、止める間もなく背を向けて歩き去る。
銀時はその背中を唖然として見送った。
イーブン。
土方はそう言った。顔は見えなかったが、不機嫌そうな声で。
チャラではなく、イーブン。
無かったことにしようというのではなく、ただ対等でありたいと。
それはつまり。
…そして、立ち去る直前に見えた、土方の、あの…
「……ぶっ、くく…ははは」
銀時は耐え切れなくなって肩を揺らした。
そうか。そういうことか。
この割勘は、自分が自分の食べた分を払う、という割勘では無くて。
こちらが向こうの分を、向こうがこちらの分を。
そういう割勘だったのだ。
つまり。
受け取ってくれた上に、贈ってくれた、と。
そういうことだ。
でなければ、さっさと立ち去った土方の耳が、あんな風に赤く染まっているはずはない。
「あーあー、副長さんはホント素直じゃないねー」
銀時は面映さを誤魔化すように、大きめな声で独り言を呟いた。
肝心な言葉は一言も言わず、ただチョコ大福を奢るということだけで相手に全部を察してもらおうとしていた自分も大概だけれど。
自嘲気味の苦笑を口角に乗せて、皿に残っていたチョコ大福を摘み上げる。
…コレは、土方が奢ってくれたバレンタインチョコ。
わざとそんな陳腐なことを考えて、くっく、とまた、可笑しさに肩を揺らした。
来年は、こんな婉曲な方法はやめて。
いっそのこと手作りのチョコを、ストレートに「バレンタインプレゼントだ」と言って渡してやろう。
その時の土方の反応が見物というものだ。
------蛇足・完
来年は、とか言ってますが、銀さんは一ヵ月後のホワイトデーに作戦を決行しました。
ですが、その話は本当に蛇足極まりないものになってしまったのでボツ(笑)