事件は突然だった。
迎えの一歩、追い詰める一歩
その日は初夏の日差しが厳しくて、俺は一人、糖分と涼む場所を求めて町を彷徨っていた。
いつもの団子屋の縁台では暑いが、ファミレスでパフェを食べるほどの金は無い。さてどうしようか、などと考えながら歩いていると、視界の端に見慣れた黒い制服が映って顔を顰める。
何やら話し合いながら歩いている制服の二人連れ。真選組の鬼副長と、地味な監察のジミー君。
ジミーの方はまァどうでもいいが、問題はもう一人だ。
瞳孔が常に開きぎみなあの男と俺は、顔を合わせれば非好意的な視線を交わしあい、口を開けば喧嘩をおっぱじめる、という間柄で。できれば今は顔を合わせたくない相手だった。
こっちが暇な時にはアイツを揶揄って遊ぶのも面白くないこともないが、今日は暑いしダルいし、はっきり言って面倒くさい。
突っかかってこられる前に道を変えるか。そう思って足を止め、視線を巡らせて横道を探す。と、ふいにこちらを向いた土方と目が合った。
しまった見付かった。俺は舌打ちを一つ。
ここで道を変えたら、逃げた、と見做されるに違いない。
めんどくせーな、と思いながらも俺が臨戦態勢を整えた時だ。
事件は起こった。
驚くべき事に土方は俺を見ると、眉を顰めもせずに軽く手を上げ、パタパタと駆け寄って来たのだ。
しかも、今まで見たこともないような好意的な笑顔で。何というか、コイツが普段ゴリラに向けているような顔だ。
さらに。土方は俺の前まで走って来ると、コイツこんな声出せたのかよと思うほど明るく弾んだ声でこう言った。
「坂田!奇遇だな。散歩か?」
待て。誰だコレは。
俺は混乱に陥った。
もしコイツの呼びかけが「坂田」ではなく「坂田氏」であったならば。もしくは語尾が「ござる」であったり、美少女系アニメの話でも始めてくれたならば、俺はあれほど混乱しなかっただろう。何故ならそれは、土方が妖刀の呪いで本来の彼とは違う状態にあることを示すものだからだ。
しかし目の前の土方は、どう見ても「トッシー」ではなかった。立ち居振る舞いには萎縮したところがなく背筋がピンと伸びきっていて、視線は少しも泳がずに真っ直ぐにこちらを見据えている。ふてぶてしいほどに堂々としたオーラ。いつもの土方だ。
だがそれにしては、表情と声色が明らかに異常だった。
「坂田?」
「あ、お、おう。散歩っつーか、涼む場所を探してだな」
「そうか。今日暑いもんな」
俺の言葉に納得したように頷いて額の汗を拭ってみせた土方に、俺の混乱は益々つのる。今のは普段ならば、「ああ、テメェはクーラーも買えない貧乏人だったな」という嘲弄が返ってくるはずのところだ。
「…そーだよ。こんな暑ィのに何なのお前らその真っ黒い格好。見てるだけで暑苦しーんですけど。やめてくんない?」
どうにか混乱から脱したくて、わざと不機嫌な声を投げかける。土方が挑発に乗って怒鳴り返してくれさえすれば、そう思っての台詞だったのに、土方はただ困ったように苦笑を零した。
「仕方ねェだろ隊服なんだから。お前こそこんな日に洋装と着流し重ね着すんなよ。熱中症になるぞ?」
…同じ台詞でもバカにしたように言ってくれればまだ救われたのに。
土方の口調と表情は明らかにこちらを心配する様相を呈していて、俺はひどく狼狽した。
何だコレは。何か変なモンでも食ったのか。それともまた別の妖刀に憑かれているのか。
事情を聞こうと、遅れて駆け寄ってきたジミーに目を向ける。しかしジミーも驚いたよう土方と俺を見比べていて、異変の原因を知らぬことを物語っていた。
何だか判らねェが、触らぬ神に祟りなし。
そう判断した俺は、さり気なさを装って土方から一歩離れた。
「おー、じゃあ熱中症にならねェうちにクーラーの効いた店にでも入るわ。こんなトコで立ち話してたらホントに倒れるから」
「あ、ああ。呼び止めて悪かったな」
炎天下に呼び止められたことへの嫌味を呟けば、素直にすまなそうな顔をされて言葉に詰まる。
どうにも居心地が悪い。
そそくさと踵を返すと、数歩も行かぬうちに呼び止められた。
「坂田!」
名を呼ばれて無視する訳にもいかず、渋々ながらも振り向く。と、そこにはやけに切羽詰った顔があって。
「お前、明日ヒマか?」
「明日?……まァ、急な仕事が入らなきゃ暇だけど」
投げかけられた質問に、俺は首を傾げた。
すると土方は少し言いにくそうに視線を彷徨わせつつ、それでもしっかりと俺に向けて言葉を発した。
「その、俺ァ明日の昼から非番なんだが…ちょっと付き合ってくれねェか」
「は?」
ひょっとしてコイツ、俺に何か依頼したいことがあるのか。
俺はそう思い至って少しだけ肩の力を抜いた。
それならば、先程からの不可解な態度も理解できるというものだ。よっぽど頼みにくいことで、それで下手に出ていたとか。いや、それでもコイツらしくないことにはかわりないんだが、何も理由が無いよりは納得できる。
何だそれならそうと早く言えよ、無駄に混乱しちまったじゃねーかコノヤロー。変に緊張していた自分を誤魔化すように胸の内で毒吐きつつ、俺はダラリと気怠い表情で土方に向き直った。
「付き合うって、どこへ」
「場所はどこでもいい。お前の好きなとこで」
「へ?じゃ、そこで何すんだ」
「何って…特に決めてねェけど。メシ食うとか」
「…あぁ?何だよソレ」
要領を得ない土方の台詞に、思わず眉間に皺が寄る。
「お前が付き合えっつったんだから、何か用があんだろうが」
そう問えば。
土方はいつも吊り上っている眉を、弱ったように下げて。
常時瞳孔開きっぱなしの眼光を緩め、心なしか縋るように瞳を揺らして
あろうことか、こう言った。
「いや、ただお前に会いてェだけなんだけど……ダメか?」
あまりの衝撃に、その後のことはよく覚えていない。
事件はその日だけでは終わらなかった。
あの後、動揺のあまり会う約束を承諾してしまったらしい俺は、翌日の昼過ぎには変な汗をかきながら土方と対面していた。
昨日のアレは何かの間違いだったんじゃないかと疑いながらも一応約束の茶店に向かったところ、そこにはしっかりと土方が待っていて、しかも俺の姿を認めて柔らかく微笑んだのだ。
何の天変地異の前触れか、またはやっぱり厄介な依頼をするつもりで油断させているのかと構えながら席に付いたのだが、土方の口から出るのは他愛もない世間話ばかりで。
結局、夕方に茶店を出て居酒屋に移り、晩飯と酒を共にして別れるまで。土方は異常なまでに好意的な態度を崩さず、面倒な依頼が押し付けられることも無かった。
まるで本当に、俺に会いたかっただけかのように。
しかもその態度は一日だけに留まらず、それから一ヶ月ほど経った今でもずっと続いているのだ。
見廻りでバッタリ顔を合わせれば、笑みを零して挨拶。
非番が入る度に俺を誘い、他愛もない話をして時間を過ごす。
休みじゃなくても、仕事が早く終わった日には「飲まないか」と電話を掛けてくる。
俺も何故だか誘われる度に頷いてしまって、気付けばほとんど毎日のように土方と会うハメになっていた。
俺と会っている時の土方はいつも穏やかで、以前のように突っかかってくることがない。
じゃれ合うような口論には乗ってくるが、本気では怒らないのだ。こっちがわざと怒らせるようなことを言っても苦笑して流されるか、逆に謝られてしまったりする。
そうするとこちらが喧嘩を売っているのが大人気ないような気がしてきて、俺の態度も自然と柔らかくなっていった。
何がどうなっているのか、全くもって判らない。
…だが、こんなオカシな日々を過ごすようになって判ったことが二つある。
一つには、土方という男が意外と…悪くない、ということ。
いや、今までだって悪い人間だと思っていたわけではないのだが。でも反りが合わない、気に食わない相手だと思っていたのは確かだ。
それが意外にも、一緒に時間を過ごすのが楽しい相手だと判った。
バカな話をしてふざけ合うのも、小さな勝負をして張り合うのも、酒の席でちょっと真面目な話をするのも…悪くない。どころか、正直言って結構楽しい。
俺は今では、土方と会うのを密かに楽しみにしていた。
もう一つには、コイツ俺のこと好きだよな、ということ。
街中で俺を見付けて嬉しそうに顔を綻ばせることといい、少しでも時間が空けば誘ってくることといい、俺の隣で酒を呷る楽しそうな顔といい、ちょっとした愚痴を零す時の無防備な表情といい。
少なくとも、友人としては。自惚れではなく相当に好かれているはずだ。でなければオカシイ。
…そして。
ひょっとしたら、友人以上の意味でも。
俺が初めて柔らかく笑いかけたら、アイツは驚いたような顔をしてコチラを凝視した。
酔った勢いで肩に手を回したら、振り払いもせずにこちらに凭れかかった。
土方に誘われる前にこちらから飲みに誘えば、すごく嬉しそうに瞳を輝かせた。
こちらを見詰める土方の目は時折、言いたくても言えない何かを抱えているように苦しげに揺れていた。
今だって。
居酒屋を出て、二人の帰路が分かれるところまで連れ立って歩いて来て。
分かれ道で立ち止まった土方の瞳は、隠し切れないほど名残惜しさを湛えて俺を見ている。
「……また、な。銀時」
何かを訴えかけるような瞳で俺を見詰めていた土方は、今日もまた諦めたように淋しげな微笑を浮かべて別れの挨拶を口にした。
いつからか判らないが、アイツが呼ぶ俺の名は「坂田」から「銀時」へと替わっていた。
…嘘だ。いつからか、なんてハッキリと覚えている。
初めて「銀時」と俺を呼んだ時、土方の声が明らかな躊躇と緊張を孕んでいたことも。俺が普通に返事をしたらあからさまにホッとして、それから至極嬉しそうな顔をしたことも。
――何でもない顔を装いながら、俺の心臓がバックンバックンいってたことも。
「…ああ、またな」
そう応えて俺は背を向けた。月夜の道を一人、歩き出す。
数秒後には背後の足音も遠ざかり始めたが、まだ背中にはチラチラと視線を感じる。
俺が今振り返ったら、目が合うだろうか。
目が合ったら、アイツはどんな顔をするのだろうか。
振り返らぬまま最初の角を曲がる。これでもう、互いの姿は見えない。
…見えない角の向こう側で、アイツはまだ振り返っているのだろうか。
月夜の晩で足元は明るいけれど、ゆっくりゆっくり歩を進める。
…アイツが追いかけてきて、引き止めたりはしないだろうか。
ここで俺が引き返して、角から顔を覗かせたら。
立ち止まってこちらを見詰めているアイツと、目が合わないだろうか。
驚いて目を瞠るアイツに柔らかく笑いかけて。
近寄って、腕を取って。
「うちへ来いよ」と言ったら、アイツは。
そこまで考えて、フと零れたのは自嘲の笑み。
――俺は、ずるい。
土方がいつだって、何か言いたげにしているのを察していながら、こちらからは何も聞こうとせず。
振り向いたら目が合うのを知っていながら、振り向こうとしない。
そのくせ、いつかは引き止められて目が合うことを期待して…
この関係が一歩、進むことを。何もせずに、ただ待っている。
「そこ」へ踏み出すことを自らも望んでいるくせに、全ての行動と責任を土方に押し付けようというのだから。とんだ卑怯者だ。
でも。
一つだけ、誤解しないでほしい。俺は動くのが怖いのでは無く、面倒な訳でも無くて。
ただ、今のこの曖昧な時が、楽しくて心地良くて。もう少し味わっていたいだけなのだ……なんて。
(アイツにしてみりゃ、堪ったモンじゃねェよなぁ…)
自分の言い訳に、またクスリと苦笑。
土方にとってみれば、こんなのは片想いの生殺し。こちらが楽しいからもうちょっと、なんて思っているのが知れたら、後々殺されかねない。
…だから、そろそろ。
動いて、みるべきなのかもしれない。こちらから。
そうだ。土方の方はもう充分、充分すぎるほどの努力をしたではないか。あんな険悪な関係から、ここまでの状態に引っ張ってきたのだから。
最後の一歩ぐらい、俺から歩み寄ったってバチは当たらない。
…というか、踏み出さない方がバチが当たるだろう。
――次、飲みに誘われたら。
帰り際、分かれ道でアイツの腕を取って、そして。
まだ、帰んなよ。と……
そんな浮かれた想いに耽っていたからだ。反応が遅れた。
横合いの狭い路地から、降るように迫ってきた殺気。
気付いた時には右斜め後ろ、白刃が肉薄していて。咄嗟に左腰の木刀を引き抜きざま、柄の部分で受け止める。
少し反応が遅れたとはいえ多分間に合っていた、はずだ。
――はず、と言うのは。
俺の木刀が刃を受け止めるより先に、背後から飛ぶように突っ込んできた黒い影が、凶刃の持ち主を叩き斬っていたからだった。
刀を振り上げていた見知らぬ男が、悲鳴と血飛沫を上げて倒れ込む。
その横には、月光を照り返す刀を携え、ギラリと瞳孔の開いた目を光らせている見知った男。
その光景を見て。
何よりも先に俺の頭に浮かんだのが、何そいつ通り魔?という疑問でも、いや別に助けて貰わなくても平気だったんですけど、なんて抗議でも無く。
――ああ、何だよコイツやっぱり俺のこと追いかけて来てたんじゃん、という悦びだったのだから。
俺も大概、救えない。
「土――」
名前を呼び終わる前に、土方は動いて。先程とは逆側の路地から飛び出してきた男をアッという間に切り捨てた。
思ったよりも大人数の暴漢らしい。そう俺が気付いたのは、左右の路地の奥にまだ複数の殺気がわだかまっているのを感じたからだ。
強盗か、それとも別の何かか。
何にせよ、叩きのめしてから確かめるしか無さそうだと俺が木刀を構えた、その時。
土方は背筋を伸ばして、スッっと刀を振り上げた。
そして、よく通る声で…
「――確保!」
夜のしじまに響いた号令。
その言葉の意味を理解するより早く。路地にわだかまる殺気の、更にその奥から、急速に迫ってくる大勢の気配。鞘走る音。
気付いた時には、二十余名の黒ずくめの隊服の男達が押し包むように周りを取り囲んで。十人余りの野郎どもを取り押さえていた。
「副長!お疲れ様です!」
「労いより先に報告をしろ」
「はい。攘夷浪士十二名、全員捕縛しました。副長が斬った二名も含め死亡はゼロ。全て生け捕りです。こちらは負傷者が三名。いずれも命に別状はありません」
「ご苦労」
駆け寄ってきたジミーの言葉を聞きながら、土方は煙草に火をつけた。
フワリと紫煙をくゆらせるその姿は、隊服こそ着ていないものの紛れも無く真選組副長のもので。
半ば呆然と見詰める俺に、黒い隊服の集団から抜け出て来た一人の男が近付いて、爽やかな声を掛ける。
「旦那ァ、お疲れ様でさァ」
「いや、お疲れ様って何コレ。俺何も聞いてないんですけど。何なのアイツら」
ニッコリ笑った腹黒ドS王子に思いっきり不機嫌な顔で強盗集団を指差せば、返ってきたのはペラリとした返事。
「攘夷浪士どもでさァ」
「まァ、それは大方予想ついてっけど」
「最近、真選組隊士を直接襲うんじゃなく、隊士の親しい人間を襲撃するってェ姑息な事件が頻発してやしてねィ」
隊士を直接狙ってくるなら返り討ちにすりゃいい話なんですが、隊士と親しけりゃ誰でもいいっつー狙い方されたんで、結構厄介だったんでさァ。
そこまで話されて、俺は眉を顰めた。
沖田の説明はまだ言葉が足りないが、ここまで来れば想像が付く。
非常に不愉快な想像が。
「…つまり俺は囮ってことか」
思い当たった答えを言えば、沖田はとてもイイ笑顔で頷いた。
「正解でさァ。さすが旦那、察しがいいや」
「何考えてんだテメーらァァ!なに勝手に一般市民を囮にしてんの!?何かあったらどう責任取るつもりだコノヤロー!」
「そこはそれ、何も無かったから良しということで」
「納得できるかァァァ!」
叫んで、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回す。
冗談では無い。
つまり、それは。ここ一ヶ月余りの土方の異常な行動は、俺が「真選組副長の親しい人間」だと攘夷浪士どもに思わせるための演技だったということで。
――俺はそれに、すっかり騙されていた、ということで。
ふざけんなよ、と搾り出した声は思った以上に低くて、いつの間にか近くに寄ってきていたジミーがすまなそうに眉を下げた。
「すいません旦那。俺も副長が旦那を使うって決めた時は驚いたんですよ。普段は一般市民を巻き込むような作戦なんて立てない人なんで…」
「旦那なら、万が一何かあっても自分で何とかしてくれるだろうって信頼の証でさァ」
「嬉しくねーんだよ!そんな信頼ドブに捨ててやるわ!」
「じゃ、報酬もドブに捨てるか?」
背後から聞こえた声に弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、土方。
あの暑い日、俺に嬉しそうに駆け寄って好意的な言葉を投げかけた…前の。
無愛想で無遠慮で傲慢でスカした、俺と顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた頃の土方十四郎、そのものだった。
思わず眉間に皺を寄せた俺に、奴はフン、と鼻を鳴らす。
「成功報酬に危険手当も込みで、きっちり依頼料払ってやる予定だったが」
「依頼料って。俺依頼された覚えねーんだけど」
「事後承諾で」
「そんな乱暴な依頼があるかァァァ!」
全力で抗議すれば、土方は逆に不満そうに眉を顰めた。
待て、お前にそんな面する権利があると思ってんのか。そう言う前に、男はその傲慢な口を開く。
「なんだよ。別に怪我もさせてねェし、大して働かせたわけじゃねェだろ」
堂々とそう言ってから、そもそも、と土方は言葉を続けた。
「俺は今回の仕事で、攘夷浪士どもの指一本、テメェに触れさせるつもりは無かったぜ」
それは何気なく。
おそらく、部外者に余計な手出しをさせるつもりは無かったとか、一般人に怪我させたりしたら世間がうるせーからとか、そんなつもりで発せられた言葉。
なのに、ああ、何てこった。恐るべきは一ヶ月の刷り込みか。
そんな台詞を好意の表れのように曲解して、ドクリと沸き立った俺の心臓。
――本当に、何てこった。
「実際、指先掠りもしてねェだろうが。突っ立ってただけで依頼料が手に入るんだからボロイ仕事だろ」
突っ立ってただけ、じゃねェよ。
事も無げに言い放った土方に、胸の内でだけ反論する。
いや、一応木刀抜いて応戦しようとしましたとか、そういう細かいことを言っているわけじゃなくて。
この現場では、ほとんど突っ立ってただけということにしてやっても良いけれど。
お前が仕事として俺を付き合わせていた一ヶ月間。
俺は突っ立っていただけじゃない。
お前と飲んで、話して、肩を組んで。視線を交わして。
何か言いたいことを飲み込むようなお前の仕草を深読みして。
――心、躍らせて。
「報酬の詳しいことは山崎に聞け。――じゃあな、万事屋」
(――また、な。銀時)
あっさり言い捨てて踵を返した土方の背に。
つい数十分前に聞いた台詞が、俺の脳裏に重なって消える。
似て非なる、その言葉。
現実と演技の明確な差。
それを感じた時。俺の腹の底で、フツフツと何かが急速に煮えたぎった。
「ああ……またな、十四郎」
そう言えば、土方はギョッとしたように振り返った。
丸く目を見開いて唖然とこちらを見詰めるのへ、ニコリ。我ながら清廉とは言い難い笑顔を向ける。
途端、気圧されたように一歩後ずさった土方を見て、更に口角を引き上げた。
今更全部演技でした、なんて。
そんな種明かしで終わらせてやらねェよ。
隠された思惑がどうあれ、二人で過ごした心地良い時間は本物だった。
高鳴っていた俺の心臓も。
ふいに零したお前の笑顔も。全てが演技だったなんて認めない。
なぁ、そうだろ?
火を付けたのは、お前。
後悔してももう遅い。
嘘を本当にするために、今度は俺から一歩を。
逃がしてなんかやらねーから。覚悟しとけよ、土方。
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土方は多分、100%演技というわけでは無かったんだと思う。
でもきっと無自覚。