日が傾いて、西の空が夕焼けに染まる頃。
銀時と土方少年は、家の裏手、川沿いの土手に並んで腰を下ろしていた。
新八と神楽は土手を降りて、少し離れた場所で川に釣り糸を垂らしている。
糸が絡まったの竿が折れたのとギャーギャー騒いでいる彼らを見て、「あれじゃ釣れねェよ」と土方が呆れた声で呟く。
しかし。その表情はバカにしたようなものではなく、どちらかと言えば苦笑と呼べるようなもので。
その目はどこか温かさを滲ませていた。
少年の横顔を盗み見て、銀時は複雑な思いに眉を寄せた。
「台所を見せろ」と、強引に彼の家に留まって数時間。
少年は確実に、自分達に気を許しつつある。
――それが、良いのか悪いのか。
共同作業なんかしちまったのがマズかったな、と、銀時は溜息を吐きたいのを辛うじて堪えた。
あの時、台所に入った銀時は、甘味の類は見付けられなかったものの菓子の材料となるものは見付けてしまって。
もち米、砂糖、小豆…と発見した時点で、銀時の頭の中では早くも牡丹餅が輪舞曲を踊り出し。
今すぐ作れ、お前が作れないなら俺に作らせろ、とすったもんだの末に…どういうわけだか、四人で牡丹餅作り大会になってしまったのだ。
「ちょ、お前、それ明らかに多いだろ砂糖!」
「あぁ?多くねェよ。こんなもんだよ」
「テメーの基準はあてにならねェんだよこの甘党男!」
「いやいやいや、餡子を作るには小豆に対してこのくらいの砂糖の量が普通だっつーの。なァ新八」
早くも銀時の甘党ぶりを認識した土方が、煮た小豆に加えられる砂糖の量に疑惑の声を上げたり。
「……そうなのか?」
「いや、僕の家で出てくる牡丹餅って、いつも真っ黒コゲだったから…」
「なんでだよ!何をどうやったら牡丹餅が黒コゲになるんだよ!」
一番まともだと思っていたらしい新八から理解不能な台詞が飛び出したことに、驚愕して叫んだり。
「銀ちゃーん、もち米このくらい炊けばいいアルか?」
「おー、いいんじゃねーの?」
「いや多いだろォォォ!テメーら、うちの食料を何週間分消費するつもりだァァァ!!」
袋一杯のもち米を全部炊こうとする神楽に全力で怒声を上げたりして。
何やかんやと騒がしかった牡丹餅作りを思い浮かべて、銀時は額を押さえた。
一緒にワイワイお菓子作りなんぞをして、出来上がった物を一緒に食べて…しかもそれがなかなか美味だったりした日には。
親密度なんか、上がって当然だ。
結果。牡丹餅を食べ終わる頃には既に、土方は随分と警戒心を解いて銀時の横に座っていて。
晩御飯のおかずを確保しようと川釣りに行った神楽と新八を、今やこんな穏やかな目で眺めている。
銀時は今度こそ堪え切れずに、そっと溜息を吐いた。
少年の孤独を紛らわすために一晩ともに過ごす、という意味から考えれば、この状況は確かに吉だ…しかし。
土方の未来に影響を与えない、という意味では、この少年との距離が近付きすぎるのは確実に凶なのだ。
(もうちっと、気を付けないとな…)
銀時は改めて自分を戒める。
こんなことでは。一晩も経たないうちに、この少年に決定的な言葉を投げかけてしまうかもしれない。
少年の将来を左右するような……あるべき未来を、勝手に捻じ曲げてしまうような。
それを考えると、ヒヤリと背が冷えた。
「…イ、オイって」
「ん、あ?」
話しかけられていたことに気付いて、銀時は隣に顔を向けた。
問い直せば、土方少年は呆れたように軽く溜息を吐いてみせる。
「だから、江戸にはこういう川はねェのかっつったんだよ」
「…川?」
「アイツら、妙に楽しそうに釣りしてやがるから」
江戸で川釣りしたことねェのかと思って。
そう言った土方に、銀時は、ああ、と肩を竦めてみせた。
「江戸にだって川くれェあるぜ。…ただ、ここまで水は綺麗じゃねーな。町の中心からちょっと離れりゃ釣りできるとこもあるけど、家のすぐ裏手で釣りできるっつーのは珍しいんじゃねーの」
「町を出ねェと、魚がいる川がねェのか?」
「一匹もいねェとは言わねェが、昔に比べりゃ少ねェだろうな」
自分が暮らしている時代の江戸は勿論、十五年前の世界である「今」の江戸でも。きっとそれより前に比べたら魚は減っているはずだ、と銀時は思う。
…それは、何故なら。
「……やっぱり、天人が来たせいか?」
そうだ。
少年の口から出た答えに内心で頷きつつ、銀時は肯定を表そうとはしなかった。
土方の声色が、微かに非好意的な響きを含んでいるのに気付いたからだ。ここで肯定してしまったら、その感情を決定付けてしまうのであろうことにも。
だから、表面上は「さァな」と気の無い声で言うに留めた。
天人がこの国に来たことがマイナスだともプラスだとも、自分は言ってはいけない。
それは下手をすれば、少年の行末を直接的に左右することにもなりかけない危険領域だ。
しかし。危険地帯に踏み込む前に踵を返そうとした銀時の意図は、少年によって無下にされた。
土方少年はしばらくの間じっと考えていたかと思うと、真剣な目で銀時を見据え、こう問うたのだ。
「お前は、戦には行かねェのか?」
「……………」
その質問には、答えられない。
銀時は努めて、平素と変わらぬ表情をして川面を眺めた。聞こえなかったとでも言うように。
だが少年の視線は誤魔化すことを許そうとせず、銀時の横顔に注がれ続けている。
銀時は仕方なく口を開いた。
「…お前は、行くつもりなのか?」
疑問を疑問で返されて少年は一瞬不満そうな顔をしたが、文句を言うのは諦めたように、ただ一言「ああ」と答えて頷いた。
碌な感慨も持たぬように、あっさりと。
それを見て。
銀時の胸のうちに、覚えのあるザワつきが沸き起こった。
今日、山中でこの少年と出会った時にも感じた、不可解な感情。
何故かは判らない、けれど。
――何だかひどく、不愉快なのだ。
「何でだ?」
「あァ?」
気が付けば、銀時は問い返していた。
質問の意図を量りかねたように、少年が眉を顰める。
「何のために攘夷戦争に参加すんだっつってんだよ」
「何のためにって…」
土方は瞳に当惑を宿して銀時を見返した。
それは質問の内容自体に戸惑っているようでもあり、今まで何事にも大した興味を持たない風に見せていた銀時が、突然そんな踏み込んだことを聞いてきたのを訝しんでいるようでもある。
銀時はツイと目を逸らした。
判っている。この時代の若者の中には、さしたる理由もなく戦に赴いた者も少なくなくて。家族を亡くし一人になってしまった少年が戦地に向かおうとすることは、寧ろ自然とも言える行動だということも。
そして、自分がそれに口出しすべき立場に無いということも。
――それなのに。
「…別に、理由なんてどうだっていいだろ」
「よくねェよ」
土方の答えに、銀時の口はキッパリと否定を返していた。
その予想外に強い口調に土方は驚いた顔をしたが…誰よりも驚いたのは、他ならぬ銀時自身だった。
(…何言ってんの、俺)
本気で、そう思う。
この少年の言動に、自分は肯定も否定も、激励も忠告もしてはいけないはずだった。
未来を歪めることになってはいけないと、つい先刻、気を引き締め直したばかりだろう。そのはずなのに。
口が、勝手に動いて。言うべきではない言葉を紡ぎ出していく。
「…喧嘩って、何かを護るためにするもんじゃねェの?」
いつだったか、大人の土方にも言った覚えのある台詞。
だがそれは、今ここでは投げかけてはいけない言葉だと、判っているのに。
「ただ暴れてェだけなら、やめとけよ」
衝動に、突き動かされるまま。
そこまで言ってしまってから。
土方の唖然とした表情を見て、銀時は押し寄せる後悔に内心で頭を抱えた。
(ちょ、ホント、何してんだよ俺…ッ!)
どうかしている。
判っている。判っていたのだ。
何かをやめろ、とか。するべきだ、とか。そういう類の言葉は、今の自分が一番言ってはいけないはずの言葉だった。
自分が最も懼れて、新八や神楽にも念入りに釘を刺した――少年の将来を直接左右するような台詞。
こんな風にフラリと現れた得体も知れない男の言葉なんかに、土方が然程簡単に影響を受けるとは思わないけれど。でも用心に越した事は無いと。
変な影響を与えて未来を変えてしまうぐらいなら、この少年の側にいるべきではないと、そこまで考えたほどだったのに。
――なのに。それでも。
…コイツが。
いつだって真選組を護ることだけを考えて、真っ直ぐ立ってたはずのあの男が。
誰にも自分の大切な仲間を汚させないと、迷いのない刀を振り下ろしてきたはずの土方が。
ただ、壊すために、壊れるために、刀を振るおうとするのが――どうしても堪え難かった…なんて。
本当に、どうかしている。
「護りたいもんなんて…もう、ねェよ」
ポツリ、と。呟かれた小さな声に、銀時は我に返って隣を見た。
銀時の言葉に家族を思い出したのか…土方の顔は、くしゃりと歪んでいた。
初めて見る年相応な表情に、銀時は思わず、少年の頭に手を伸ばした。
「できんだよ」
「あ?」
ポン、と軽く頭を押さえながらそう言えば、嫌がるかと思われた少年は、意外にも頭に置かれた手は振り払おうともせずに銀時に問い返した。
銀時は返って持て余したように苦笑すると、ぐしゃりと乱暴に髪を一撫でして手を離した。
「お前には将来、何よりも護りたいモンができっから。…それを大事にしろよ」
未来を示唆するような台詞。
駄目だと思うのに、言わずにはいられない。
…本当に自分はどうかしてしまったらしいと、銀時は溜息を吐いた。
「……わけわかんねェ」
少年は、不貞腐れたような声で呟いて……それでも少し、笑った。
「お前は?」
「ん?」
「お前の護りたいもんってのは…アイツらなのか?」
少年は顎でヒョイと川原を示した。
その横柄な仕草が成長した彼の姿と重なって、銀時はつい笑みを零す。
示された方向では新八と神楽が…どうやら釣りは諦めたらしく、無謀にも魚を掴み取りしようとしている。それを見て、また苦笑が零れた。
「あー…まァ、アイツらも、だな」
護りたいヤツらは、たくさんいる。
厄介な話だと思う。だけど、この剣の届く範囲は護ると…決めてしまった。
目を閉じれば、様々な顔が脳裏に浮かぶ。
…その中に黒い服を着た集団がいるのは、見ないふりをした。
土方は銀時の表情から何かを感じ取ったのか、長い沈黙の後に、ただ一言、そうか、と呟いた。
しばらくの間、二人黙って川面を眺める。
「………俺、さ」
ややあって、土方が口を開いた。座ったまま、身体ごと銀時に向き直る。
「最初にお前を見た時、星が落ちてきたのかと思ったんだ」
至極真面目な少年の表情に、銀時はパチリと瞬いた。
突然何を言い出すのか、という銀時の目に促されて、土方は言葉を続ける。
「食料採りに山歩いてたら、そのキラキラした銀色が上の方から滑り落ちてくんのが樹の間から見えて…流れ星が山にぶつかったみてーだと思って、だから急いでそっちに行ってみたんだけど」
案外ロマンチストなのなお前、という台詞は、口から出る前に飲み込まれた。
少年が、スッっと手を伸ばして。銀時の髪を一ふさ摘み上げたからだ。
「だけど近くで見てみたら…」
摘んだ髪を軽く引っ張って、土方は目を細めた。
フッと口元が柔らかい笑みを刷く。
「ただの汚らしい天パだった」
「…オイ」
「でも、意外と手触りはイイんだな」
フワフワだ。
感触を楽しむように指先で髪を擦りあわされて、出かかった文句は再び飲み込まれる。
土方は、まるで髪を透かしてどこか遠くを見ようとするかのように、じっと、指先の銀髪を見詰めていた。
「…実際見て、触れてみなきゃわかんねーもんって一杯あるよな」
天人とか、アイツ見るまで化け物みてーなモンだとしか思ってなかったし。そう言って土方は笑う。
アイツ、というのは神楽のことだろう。…まーアイツは実際バケモンみてーなもんだけど、という事実は言わないでおく。
土方はやっと髪から手を離すと、銀時の目を正面から見据えた。
「アンタの言う通り、俺も自分の目で探してみようと思う。…護りたいと、思えるモン」
そう言って、ちょっと口端を上げて不敵に笑った――その顔が。
他のどんな表情よりも、「あの男」に似ていて。銀時は一瞬言葉を失った。
…いや、何でここで言葉を失う必要があるんだと、我に返った銀時が何かを言おうとしたその時。
「え、あ、うわぁあ!?」
「銀ちゃ……っ」
川原から響いてきた悲鳴に、二人は思わず立ち上がった。
「神楽!?新八!?」
悲鳴の方角に声をかけながら目を遣る…が、そこには何故か、メガネの少年の姿もチャイナ服の少女の姿も影も形も無くて。
急いで土手を駆け下りようとした銀時は、フと、何かが第六感に引っ掛かるのを感じて足を止めた。
ゾクリ、身を包む違和感。
――まるで、この世界で自分だけが異質であるかのような。
(…ああ、戻るのか)
銀時はそう直感した。
元の時代に、帰るのだ。新八と神楽はきっと一足先に帰されたのだろう。
何の根拠も無いにもかかわらず、それはほとんど確信だった。
オイ、アイツらどこ行ったんだと、焦った様子で土手を駆け下りようとする土方の腕を、咄嗟に掴んで止める。
振り返った土方に…銀時は静かに、告げた。
「…悪ィ。俺、そろそろ行かなきゃいけねェみてェ」
「…………そうなのか」
土方は一瞬目を瞠って、それから数度瞬き…
何も聞かずに、頷いた。
銀時を問い詰めても納得のいく答えなど返ってこないと、この短時間で悟ったのだろう。賢い子供だ。
…そんな淋しそうな顔をするくらいなら、答えてもらえなかろうが食いついて問い詰めればいいのに。
感情を押し隠して退いて、それでも押し殺しきれずに表情が零れる。頭は悪くないくせに不器用な男。
やはり同一人物だな、と銀時は苦笑を漏らした。
大人になった彼は、今より少しだけ隠すのが上手くなっているけれど…それでも自分の目から見れば、さして変わらない。
「じゃあな」
あまり長々と別れを述べては、名残惜しさを煽るばかりだ。
そう思って、わざとそっけない言葉で銀時は踵を返した。
どうやって元の時代に戻るのかは判らないが、何にしても目の前で消えるのは憚られる気がして、とりあえずこの場を離れようと足を踏み出す。
その背に、少年の小さな声が弾けた。
「…俺、誕生日だったんだ。今日」
「え」
「アンタらがいてくれて、楽しかった」
慌てて振り返った銀時の目には、どこか満足そうに、それでもやはり淋しそうに微笑む少年の姿が映って。
バッカお前、そういうことは早く言えよな、と言いかけた矢先、銀時の身体を一層強い違和感が襲う。
一歩でも踏み出したらそこの地面が無くなるような気がして、銀時はその場を動かぬまま、急いで口を開いた。
「大人のオメーの隣には、絶対ェ鬱陶しいほど祝ってくれるヤツらがいっから…!」
そいつらを大事にしろよ!と。
足元がスコンと抜け落ちるような感覚に襲われながら、そう叫ぶ。
ちゃんと聞こえたかどうか不安だったが、確かめる術は既に無く。
咄嗟にあんな長ったらしい台詞を叫んでねェで、ただ一言。
「おめでとう」と言ってやるべきだった、と。
気付いた時には遅く、霞みゆく視界の端、夕空に翻る鯉のぼりがチラリと見えた。
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6へ続く