第十一訓 上手くいきすぎると後で碌なことがない。
「待て!」
ふいに掛けられた声に、土方は渾身の力で振り上げようとしていた脚を止めた。
周囲の男達も裾から這い登らせていた手を止め、当惑した体で振り返る。制止の声を上げたのは、先程彼らに尋問を命じたはずの主人だった。
タコ商人は眉間に深く皺を寄せ、ギラリと目を光らせてトシエを見詰めている。
「この匂い…」
ひくり、低い鼻を動かしたタコ商人の呟きに、土方はスッと目を細めた。
この商人が、見かけに寄らず嗅覚に優れているらしいいうことは山崎から聞いている。
一目では付いているのかどうかさえ判別し難いような小さな平たい鼻だというのに、人間よりも数段鼻が利くらしい。
タコ顔ならもっとタコらしい特徴持ちやがれってんだボケ、と胸中に理不尽な文句を漏らしつつ…土方はこっそりと口角を上げた。
タコ商人の鼻に留まった匂いに、心当たりがあるのだ。
仄かに甘いその香は、土方の割られた裾から漂っていた。
…香油である。
「囮捜査に踏み切る時には必ず内腿に塗って下さい」と山崎に手渡された物だ。
何の意味があるのかは聞きそびれたが、今、その香油が何らかの効果を発揮しているらしい。タコ商人の目は匂いの元を探るように彷徨った末、トシエの裾辺りに固定されていた。
「…この女、毒婦かもしれん。離れろ」
しばらくの沈黙の後に、タコ商人は低い声でそう命じた。
その言葉に、土方の周りにいた数人が慌てたように手を引っ込める。
土方はゆっくりと、一つ瞬きをした。
毒婦。
この状況で口にされたからには、単に悪女という意味では無かろう。
文字通り、毒を使う女、という意味か。
そういえば、と、土方は表情を変えぬまま素早く記憶を探った。
忍びの女の中には、敵を情事に誘い込み、口内や体内に仕込んだ毒で相手を死に至らしめる、という手を使う者がいると聞いたことがある。
要は色仕掛けを用いての暗殺というやつで…相手を床に誘いやすいように、催淫性や中毒性のある特殊な香を使うこともあるらしい。
もちろん、そんなことは幼少の頃から訓練を積んだ忍びだからこそできる技であって、土方にはそんな技術は無い。体内に毒など仕込んだらその時点で自分がお陀仏である。
だからおそらく、山崎が渡した香油は実際に忍びが使う物ではなく、ただ匂いが似ているだけの普通の香油なのだろう。
…が、しかし。
タコ商人らにとってトシエは正体不明の女。暗殺の術を持っていないとは言い切れない。
不自然な甘い香りに気付いたからには、慎重にならざるを得ないはずだった。
(なるほどな…)
土方は内心で頷いた。
香油を手渡した時、山崎は土方にこう言ったのだ。
『もし貞操の危機を感じたら、逆に全力で誘って下さい』
問答無用で殴り飛ばしたが。
香油の意図を詳しく聞いていないのはそのせいである。
…だが、これで山崎があの時何を言わんとしていたかが判った。
今、トシエが誘うような仕草を見せれば見せるほど、敵は警戒して近付きにくくなる。
あまりあからさまでは返って怪しく見えるだろうが、それはそれでいい。一度トシエの言動に裏を疑ってしまえば、裏の裏、更にその裏と考え出してしまうものだ。読めば読むほどに身動きが取れなくなっていくはずだった。
なまじ頭の良い者ほど罠に嵌りやすい。
フェイクの盗聴器の件も然り。「切れ者」というタコ商人の評判を逆手に取った作戦が、今のところピタリと当たっていた。
(…よし)
窮地に活路を見出して、土方は胸の内でニヤリと笑う。
ここは一つ。大いに警戒心を煽るべく、盛大に誘いかけてやろうではないか。
誘いかけて……誘い……さそ……?
…さ………
(誘うって何だコラァァァア!?)
見出した活路の前に異常に高い壁があることに気付いて、土方は心の中で再度、山崎を殴り飛ばした。
当然のことながら、男を色めいた事で誘った経験など皆無である。それどころか、女相手でも自分から誘ったことなどほとんど無い。そもそも誘うって何だよ、と微妙に嫌味なことを考えて土方は背に冷汗を流した。
確かに不本意ながらこの数週間で「女」を演じることには随分慣れてしまったし、上達しているような気がしないでもない、が。
それにしたって、自分に擦り寄られた銀時は時折顔を引き攣らせて固まっていたわけだし。
女形を本職にしているわけでもない大柄なオカマの色仕掛けなど、そうそう通用するとは思えない。いや、普通に考えて通用するはずがない。
無理があるだろこの作戦。土方は頭を抱えたい心境で目の前の男達を見渡した。
タコ商人は厳しい目で。部下達は当惑と警戒が半々の表情でこちらを窺っている。
トシエに近付くべきか否かを迷っている様子である。
…仕方がない。
土方は内心で溜息を一つ。
せっかく敵が香油の匂いに警戒心を抱きかけてくれているのだ。やるだけやってみるしかない。今を逃せば、拷問という窮地を逃れる機会はしばらくやって来ないだろう。
先程自分に下卑た目を向けてきた連中だ。きっと地球人の顔の美醜など見分けが付いていないのだ。
そう思い込むことにして、土方は自然にうなだれかけた頭からそっと目を上げた。
最も位が低そうな男に視線を定める。
掬い上げるように見詰めると、男は焦ったように視線を彷徨わせた。
小物らしい反応に失笑が零れかけるのを堪えて、じっとその目を捕らえる。
逃がさないとばかりに強い視線で射抜けば、落ち着かなげだった男の目は縫いとめられたかのように動かなくなった。
…香油の匂いが足しになればと、さり気なく脚を動かして裾を肌蹴る。あまり脚が見えては男の骨格がバレるので、ほんの少しだけ。
自分の行動に込み上がる吐き気を堪えつつ。
視線を捕らえたまま、ほんの僅かに目を細めて瞳に微笑を浮かべる、と。
男の顔は目に見えて上気した。
ごくり、と喉が鳴る。
(えええぇ…オイオイ…)
こんなんでいいのかよ。バカじゃねェのか。
あまりの反応の良さに、土方は胸を撫で下ろすよりも先に呆れかえった。
さすが下っ端と言うか何と言うか…
地位の低そうなヤツに狙いを定めたのは正解だったか、と周囲に視線を走らせれば、目に劣情を宿している者が一人ではないことに気付いて頬を引き攣らせる。
(いやいやいや、どうなってんだコイツら。逆に引くわ!)
オカマの色目に頬を染めるな。ちったァ気持ち悪がれテメェら。
呆れるあまり、天に唾するようなことを土方は考えた。
作戦が上手くいって何よりのはずなのだが、こう上手くいかれても複雑な心境だ。はっきり言って、男に情欲の眼差しを向けられても気持ち悪い。
こんなバカな部下じゃ、主人はさぞかし苦労しているんだろうな…とチラリと目を向ければ、案の定、タコ商人は苦虫を百匹まとめて噛み潰したような顔をして周りを睨みつけていた。
「貴様ら…」
「う、あっ、ははははい!」
タコ商人の低い声に、部下達は慌てて気を付けの姿勢をとった。
主人に向き直って直立不動の姿勢をとりつつ、チラ、とこちらに視線を向ける瞬間を狙って再度微笑みかけてみせれば、彼らの喉がまたゴクリと動く。
タコ商人は益々顔を顰めた。
「もういい!お前たちは出て行け」
怒りの形相で声を荒げ、タコ商人は部屋から部下達を追い払った。一人部屋の外で見張りにつくように、とだけ言い付ける。この部下どもをこのままトシエに近くに置いておけば碌なことにならないと判断したのだろう。
簡単に誑かされおってバカどもが…と舌打ちとともに呟いた商人を、土方は半ば同情の目で眺めやった。
本当に、バカな部下を持って気の毒なことだ。
ウチの隊士達とて頭が良いとは言い難いが、少なくとも、女装男の色仕掛けにあっさり引っ掛かるような連中ではないはずだ…と、信じたい。もしそんな奴がいたら切腹を申し付けてやる。
フ、と思わず皮肉な笑みを口元に浮かべると、タコ商人はギラリと目を上げてトシエを憎憎しげに睨み付けた。
「…この売女が!」
(ば……!?)
咄嗟に、言葉すら失って土方はタコ商人を見返した。
…今コイツは、何と言った。
「君の尋問は、後でゆっくりとさせてもらう」
腹立たしさを顕わに言い捨ててタコ商人が部屋を出て行くのを、土方は半ば呆然として見送った。
バタリ、と扉が閉まる音に、我に返ったように怒りが沸き上がる。
(ざ…っけんなコラァァァ!!)
土方は思わず瞳孔をかっ開いて扉を睨み付けた。
本来なら、作戦が上手くいったとほくそ笑むべきところなのだが…生憎とそんな気分にはなれない。
(何が売女だ。俺だって好き好んでテメェらなんかに色目向けたわけじゃねェってんだよ!)
下衆が女を罵る言葉としてはありふれた文句。
だが、土方はそれに目の前が赤く染まるほどの怒りを覚えていた。
気分が悪い。
屈辱に身体が震える。
変な手を考えやがって山崎アイツ後で殺す。と、土方は物騒な決心を固めた。
効果があったからまだいいようなものの…たとえ演技でも、野郎相手に媚びた目線を送ったり科を作ってみせるなど。冗談ではない。気色悪さと屈辱感に腸が煮えくり返りそうだった。
そうだ。たとえ演技でも。
いくら任務のためだと自らに言い聞かせても、許容範囲を越えることというのは存在するのだ。
怒りが徐々に静まって冷静さが回復してくるにつれて、土方は厄介なことに気付いて唇を噛み締めた。
…堪えられる、と思っていたのだ。
この数週間で、女の演技をすることには随分と慣れて。あの野郎に「恋人」として寄り添うことにも慣れて。
自分は任務のためならこんなこともできちまうんだな、なんて。我ながら感心していたりしたのだが。
陵辱されると思った時も、犯られて済むならそれでいい、とまで考えていたのだ…が。
素足に触れた下郎の手に、理屈より先に鳥肌が立った。
色目を使わねばならないことに吐き気を覚えて、売女という侮辱に目の前が眩んだ。
気付かされてしまった。
何日もの間、「トシエ」という女性を。「彼女」なんて立場を大した嫌悪感も無く演じてこれたのは。
あの男が…銀時が、相手だったからなのだと。
(…いや、違っ、違ェぞ!?これは別にそういう意味じゃなくて、アイツが上手く俺に合わせて芝居したり、喧嘩すんのが気晴らしになってたりしたからストレス少なくて済んだっつーだけの話であって…!)
…って、そういう意味ってどういう意味だコラァァァ!
誰にともなく訴えた言い訳じみた台詞が更に墓穴を掘っていることに気付いて、土方は蒼ざめた。
何を考えているのだ自分は。
オカシイ。どんな意味だろうが何だろうが、どっちにしろオカシイ。
そもそも先程の思考では、自分は銀時の恋人を演じることを大して嫌がっていなかった、ということが前提にされているではないか。
いやいやいや!あり得ねェ、あり得ねェよ。
ここの下衆野郎どもの下卑た視線よりはマシだってだけの話だろうが…!
土方はブンッと頭を振って強制的に思考を中断した。
こんなことを考えている場合ではない。先程のあんなチャチな牽制がいつまでも通用するとは思えないし、今タコ商人に戻って来られたら貴重な脱出のチャンスを逃す事になる。
何よりもこの調査はスピード勝負なのだ。一刻も早くこの部屋を抜け出して、ウィルスの在り処を探らなくては。
目を閉じて自らに喝を入れ、深呼吸を一つ。
しっかりと息を整えてから目を開くと、縛られ吊るされている手首を引き寄せるように、懸垂の要領で身体を持ち上げた。
ギリ、と手首が締め付けられるのに堪えて、頭を手の高さまで近付ける。
そして、指先を右耳の後ろ辺りからカツラの下に潜り込ませた。
取り出したのは小指の半分ほどの小さな刃物。
人差し指と中指で摘んだそれを翻して、土方は手首の縄をキリキリと断ち切った。
音を立てずに床へ着地する。
足首の縄は先程ほどかれたままにされていたので、これで土方の五体は自由である。
土方はプラプラと両手両足を振って痺れを緩和させた。
(…髪の毛の中というのは実に良い隠し場所だ……か)
タコ商人の言葉を思い出してニヤリと笑う。
そう言って真っ先に髪結い紐を切らせた先方も、下ろした髪の中にまだ隠す場所があるとは思わなかったようだ。
カツラと地肌の間。
この長髪がカツラだということにさえ気付かれなければ、見付けられるはずもない場所だった。
…ちなみに、本命の発信機もこの中である。
(さて…)
土方は部屋の中央に立って周りを見回した。
おそらく、この部屋に監視カメラは無い。だが、もし気付かぬところにあるとするならば急がなければならない。一度縄を抜けたところを捕まれば、再脱出は数段困難になるに違いなかった。
足元から帯の中に仕込んできた小刀を拾い上げ、滑るように歩を進めて、扉のすぐ横の壁を背にピタリと張り付く。
鞘に収めたままの小刀を振りかぶり、切れた縄や小道具が散乱する床を目がけて投げ付けた。
小刀はポケットナイフやら簪やらを蹴散らし、ガシャリと派手な音を立てる。
直後、扉の小さな覗き窓に影が差して、慌てたような声とともにガチャガチャと鍵を開ける音がした。
「あのアマ!どこに…!」
焦った様子で扉を開き部屋に飛び込んできた男を、土方は横合いから殴り倒した。
「が…ッ」
後頭部への一撃であっさりと気を失った男を見下ろして、ベタな手に引っ掛かりやがって、と土方は肩をすくめた。
…まあ、有効な手だからこそ良く使われる手なのだろうが。ウチの隊士どもにも、こういうベタな手に引っ掛からないような教育をしておくべきかもしれない。
そんなことを考えつつ、土方は淡々と男の衣服を剥いで鍵束とジャックナイフを没収した。
代わりに自らの蘇芳色の着物を脱ぎ、男に羽織らせる。
そのままズルズルと部屋の中央まで引き摺っていくと、先程まで自分を縛っていた縄で手首を拘束して吊るし上げた。
これで、覗き穴からパッと見たぐらいは誤魔化せるだろう。…じっくり見られたらさすがにバレるだろうが。
男に着物を貸したことで、土方自身は薄桃色の長襦袢に伊達締めだけという何とも心もとない格好になったが、これは仕方がない。男から剥ぎ取った服を着ることも考えたが、この男は土方よりも身体が大きい。サイズの大きな服では動きにくくなってしまう
それに、見付かった時に備えてまだ女の格好でいた方がいい。ウィルスを無事に確保できるまでは、トシエの正体が男だとバレる事態はなるべく避けたかった。
故にカツラもまだ外せない。
しかし、こうザンバラでは邪魔にも程がある、と土方は床から髪結い紐を拾い上げた。
後ろで一纏めに髪を括りつつ、フと、床に散らばる簪の欠片に目が留まる。
この、華の簪が踏み割られた時。
その中の発信機が発見されるのは作戦の内だったから、踏み割られても動揺はなかった。むしろしてやったりという気分だったのだ、が。
無残に砕けた簪を見て、ああ、やっぱりあの柘植の櫛を挿して来なくて良かったな、…なんてことが頭を過ぎって。
そんな自分に狼狽した。
…まあ、敵方はその狼狽を発信機を壊されたが故の動揺だと見て取ってくれたようだから、結果オーライと言えばそうなのだが。
(ってどこがオーライだボケェェェ!!)
そこまで考えて、土方は胸の内に絶叫した。
頭を抱えて座り込みそうになるのを、かろうじて堪える。
ヤバイ。
土方の頭の中には警報が鳴り響いていた。
さっきから。事ある度に頭をチラつく銀色。
今のところ、それが大してマイナスに働いていないのが救いだが。
このままでは。
いつか任務に支障をきたす。
下っ端連中に下卑た目で見られた時。脳裏に過ぎった銀色に一瞬思考が飛んで、目の前のことに対する反応が遅れた。
真選組の存亡に直結する綱渡りの任務の最中だというのに。
真選組以外のものに気を取られて、真選組を危機に晒すなど。
土方にとって、それは恐怖にも似た感覚だった。
今だけだ。
土方は必死に己に言い聞かせた。
こんな風にあの男のことが頭を過ぎるのは、少し長く関わり過ぎたがための一過性のもの。この仕事が終わりさえすれば、こんな感覚はすぐに忘れる。
だから、今だけ。チラつく銀色に気を取られないように努めればいい。それだけだ。
ただ、それだけ。
簡単なことのはずだ、と気合を入れ直して、土方は伊達締めに小刀を挟み込んだ。
「あ、動き出しました」
車内で機械の画面を見詰めていた山崎が、ふいに声を上げた。
ガバリ、と新八が身を乗り出す。確かに、カーナビ風の画面の中で、紅い光点が点滅しつつ移動していた。
「さすが副長、上手く抜け出したみたいですね」
「え、発信機が動き出したってだけで判るんですか?敵に運ばれてるとか、連行されてるとかかもしれないんじゃ…?」
不安そうに尋ねる新八に、山崎は笑みを浮かべて首を横に振った。
「いや、まあ確かに断言はできないんだけど…ホラ、どこか別の部屋に運ばれてる、ってのにしては動きがオカシイでしょ?」
この発信機、最新式ですごい性能イイから、細かーい動きまで判るんだよね〜。などとどこか得意げな様子で言いつつ、山崎は光点の動きを指で追って示してみせる。
「ね。一度来た道を戻ったりしてウロウロしてるし。動きがやけにゆっくりだから…」
「自分の意志で、慎重に辺りを探りつつ移動してるって感じだねィ…チッ」
「隊長、今舌打ちしましたよね?」
「気のせいだろィ」
沖田はアイマスクを額にずり上げた格好でさらりと応えると、ひとまず胸を撫で下ろしている新八の向こう側、銀時へと視線を投げかけた。
「よかったですねィ、旦那」
「何が」
銀時は自分に声がかけられるのを予測していたとしか思えない即答で、素っ気無く言い放った。
俺は何の興味も関心もありませんけど、と全身で主張しているその態度に、沖田の瞳がニヤリと笑う。
「ああ、まだまだ自分の目で見るまでは安心できねェってことですかィ。土方のヤローも随分愛されたもんですねィ」
「だ…っ!な、そ…っ!」
銀時が後部座席からずり落ちかけたのは無視して、沖田はコツリ、と指で発信機の画面を突いた。
「ま、発信機の動きだけじゃ、ホントに貞操が無事かどうかなんて判らないしねィ」
「いえ、でも、盗聴器が壊されてからそれほど時間も経ってませんし、多分例の作戦が上手くいったんだと思いますけど」
まるで面白がるように言う沖田に苦笑しつつ、山崎がフォローを入れる。
だが、それに反応を返したのは沖田でも銀時でも無く、まだ心配の種が尽きぬらしい新八だった。
「…でも、あの…山崎さんがさっき言ってたその作戦って、結構…賭けですよね。もし相手が思ったより慎重さに欠けてたりしたら…その、さ、誘ったりしたら返って危ないんじゃ…」
「あー…うーん…」
心底心配そうに言った新八の言葉に、山崎が答えに迷ったように眉を下げる。
確かに、その可能性が無いとは言えないのだ。自分が集めた情報では、相手は随分と切れ者で慎重派、ということになっているのだが。
…副長の魅力が予測を上回っちゃうってこともあり得るしなァ、と山崎は考えていた。本人に言ったら絶対に殴られるので言わないが。
まあ多分大丈夫だと思うよ。時間経過的に、大した拷問を受けているとは思えない…
そんな無難な答えを言おうと山崎が口を開きかけた矢先、銀時の不機嫌な声が割って入った。
「バッカ新八。オメー何言ってんの?あんなガタイのいいオカマに色仕掛けとかされてみろ。気色悪くて近付く事もできなくなるっつーの」
「銀さん、それ本気で言ってます?」
「…………」
間髪入れずに聞き返されて、銀時は思わず言葉に詰まった。
本気か…って、いや、うん。本気だって。何言ってんだ新八コノヤロー。
普通に考えろよ。土方だぞ?アイツがそんな、色仕掛けなんつーモンができると思うのかよ。
…そりゃ、まあ。アイツの女装が美人だっつーのは認めざるを得ないし、何かこの数週間でやたら演技がレベルアップしてやがるし、その反面で妙に無自覚なところがあるから、その辺が心配っちゃ心配だけども。っていや誰が心配だよ、してねェよそんなモン!
とにかく!あの野郎が男相手に艶めいた視線を送るとか、考えただけで気色悪いわ!
コンマ数秒でここまで考えて、銀時はとりあえず最後の一文だけ口に出した。
すると、新八は疑わしそうにジト目で見詰めたが、山崎は予想外のものを見たかのように目を瞬かせ。
沖田は感心したような面持ちで深く頷いた。
「なるほどねィ。旦那は土方さんが自分以外の野郎に色目使うのが気に食わないってわけですかィ。そんな独占欲の持ち主だったとは、意外でさァ」
「っ、だーかーらァ!なんっでそういう話に持ってくんだテメェはコノヤロォォォ!!」
「……あった…」
地下のだだっ広い一室で、土方は呆然と呟いていた。
目の前には、頑丈そうな白い大きな箱が幾つも積み上がっている。
一つ一つの箱には番号入力式のロックがかかっていて、その横には「M−102239D」というラベル。
ウィルスの型番である。
「って…え?…マジでか?」
簡単に見付かり過ぎじゃねェのか、コレ。
土方は周囲に落ち着かない視線を彷徨わせた。
監禁されていた部屋を脱出してから、人目を避けつつ廊下を奥へ奥へと進んでいったところ、随分と警戒が厳重な部屋を見付け。
隙を突いて見張りを締め上げ、脅して賺して二重のロックを開けさせて中に入れば、あっさりと見付かったウィルス。
あまりに事が上手く運び過ぎてうすら寒いような気分になってくる。
罠じゃねェのか、と見張りを散々問い詰めたが、どうやら本物で間違いないらしい。これでもしフェイクだったとしたら、見張りの男は希代の演技派ということになる。
ちなみに、その男は今は気絶させて部屋の隅に転がしてある。そんな有能な部下とは思えない弱さだった。
(…じゃあ、本物なのか?意外に無用心だなオイ)
つまり、この屋敷に踏み込まれる可能性など限りなくゼロに近いと踏んでいるということか。
流石は幕府上層部の御用商人。この国の警察機構など舐めきっているのだ。
「…その油断が命取り…ってな」
土方はニヤリと笑って、左手を耳の後ろに潜り込ませた。
カツラの下に仕込んである発信機のスイッチをいじれば、波長が変化して外の真選組が突入する合図になるという手筈になっている。
指先が発信機を探り当てたところで、土方は人声を耳にして身を固くした。
咄嗟に扉の近くに身を潜める。
声は徐々に大きくなって、そして急に途絶えた。どうやら近くの部屋に入ったらしい。
土方は廊下の様子を伺ってから、声の主が入って行ったらしき扉に近付いた。
気配を殺して扉の隙間にスッと耳を寄せる。
別室の会話など無視すれば良いものを、わざわざ危険を冒してまで盗み聞きしようというのには訳がある。先程の人声が、どうやらタコ商人のものであるようだったからだ。
真選組に突入の合図を送る前に、この男の言動はチェックしておかなければならない。
先程見付けたウィルスが罠であるという可能性もまだ捨てきれないし、トシエの正体に少しでも勘付きかけているようではマズイ。
安全確実にウィルスを確保するためには、できる限りの情報を手に入れておきたかった。
「…それにしても、思わぬ希少種が手に入ったものだ。嬉しい誤算だな」
耳に滑り込んできたタコ商人の声は少々浮かれているようで、土方は眉を寄せた。
この男が喜ぶ事ということは、自分達にとってあまり良い事だとは思えない。
「嬉しい誤算」など、こちらにとっては「致命的な誤算」になりかねないのだ。
息を詰めて、土方は扉越しの会話に集中した。
「あちらさんにいい手土産になった」
「交渉は上手く運びそうな様子で?」
「ああ。随分と前から探していた品らしくてな。情報と写真を送ったら、即刻届けてほしいとのことだ」
別の得意客から注文を受けて探していたそうでな…。「注文すれば何でも手に入る」という評判を背負うのも中々楽では無いようだな。
そう言って笑い声を漏らしたタコ商人に、部下らしき男の追従笑いが続く。
「求めていた品物に、貴重なオマケが付いたのだ。跳びつかない手はなかろう。…まあここからが、交渉のしどころだな」
なるほど。
会話から大体の事情が掴めて、土方は頷いた。
要は、コイツらは闇商人の求めていた品物を偶然手に入れて、それをワクチン売買の交渉に役立てようとしているわけだ。
ということは、ウィルスのみならずワクチンもタコ商人の手に渡る可能性が高くなるということか。
…まあ、ワクチンの方は売買されても特に害がないから、それほど重視すべき話題でもないようだが…。
それにしても、「求めていた品物に貴重なオマケ」とは。一体何だろうか。
あの大規模な闇組織が探しても中々手に入らないとあれば、相当に希少なものなのだろうが。
自分が見てもその価値が判るとは思えないが、と軽い気持ちで扉の隙間から室内を覗き込んだ土方は、目にした光景に息を飲んで固まった。
タコ商人らの視線の先に転がっているもの。
ワイヤー製らしき網に包まれた大きな白い犬。その横には、手足を縛られたチャイナ服の少女。
どちらも気を失っているらしく、ぐったりと目を閉じている。
(っなんでチャイナがここにいやがんだァァァ!?)
思わず胸中に叫んでしまった土方は、次の瞬間には、我ながらの愚問に眉を顰めた。
…なんで、など。考えるまでもない。
あの少女は土方が攫われる瞬間を見ていた。…おそらく、追ってきたのだ。
自分を助けるために。
自惚れではない、と思う。この数週間、あの娘は何故か異常に土方に好意的だった。目の前で攫われたのを助けに来てもおかしくない。
メガネの少年が一緒にいないということは、制止を振り切ってきたのだろうか。それで、この屋敷の警備に捕まった、と。
…マジかよ、と、土方は眩暈を覚えて額を押さえた。
神楽は土方を助けようとして捕らえられ…そして今、タコ商人によってワクチン取引の交渉材料にされようとしているのだ。
闇商人が得意客の注文を受けて探していた商品とは、つまり…夜兎族。
そして貴重なオマケというのは、おそらく横にいる白い犬、定春のことだろう。
土方はアレがどういう生物なのかは知らないが、以前、巨大化して街を大暴れしたことは覚えている。普通の犬とは思えない。何か貴重な生物である可能性は充分に想像できた。
どちらも、非合法組織の手に渡れば高値で売買されておかしくない存在。
考えてみれば、よく今まで無事でいられたものだ。
それは当人達の戦闘力の高さによるところも大きいだろうが、多分、常に銀時が横にいるというのも大きな理由の一つだろう。
銀時はあの少女と犬のことを家族同然に大切にしている。数週間の共同生活で、土方はそれを痛いほど感じていた。
きっと隠れた危難からさり気なく護ってきたのだ。
…それなのに。
「コレらを運ぶ準備を。交渉には私が直接出向こう」
タコ商人の声に、土方の手がピクリと震えた。
さっそく闇商人の元へ運ばれるのか…当然だ。競合相手が多くいる取引なのだから、交渉は急ぐに越したことはない。
…それで、自分はどうする。
(…どうするも何もねェだろ)
土方は心の奥からの自問に機械的に自答した。
最優先事項はウィルスの確保だ。ワクチンの方は元々放っておくつもりだったし、件の闇商人の他の所業にはノータッチでいくと決めている。
全宇宙規模の闇商人組織は、真選組が手を出せる規模ではないのだ。タコ商人の比では無い。下手に手を出せば即、真選組は取り潰しである。
だから。タコ商人がワクチンの交渉材料に夜兎族を引き渡そうが何しようが、土方は何の手出しもするべきではない。見て見ぬふりが当然の選択だった。
だが。
土方の頭に銀時の顔が過ぎる。
今、土方が神楽を助けなかったとしても、銀時は責めはしないだろう。そういう作戦だったと判っているはずだ。
…いや、ひょっとしたら怒るかもしれないが。それでも土方を責める暇があるなら、一人で助けに行こうとするに違いない。
けれど、今回ばかりは相手が悪い。あの闇商人グループは地球上に定まった拠点を持っておらず、所在を掴むだけでも並大抵のことではない。
行方を探っているうちに宇宙へ運び出されてしまったら、果たして銀時に追う術はあるのだろうか。
…しかし、だからと言って。
(どうしろっつーんだ…!)
頭をチラつく銀色に気を取られて任務を見失うな、と。
己に言い聞かせたばかりの言葉が胸につかえて。
土方はギリリと掌に爪を食い込ませた。