第十四訓 タイミング次第で朗報も凶報


「この女が、例の…?」
「…まず間違いないと…」

遠くから断片的に聞こえて来る人声に、土方はゆっくりと意識を取り戻した。
…ここはどこだ。何があった。咄嗟に状況が思い出せず、霞がかかったような頭で考える。
自分はどうやら身体を縛られて転がされているようだ。床が冷たい。打ちっぱなしのコンクリートのような感触。
ズキリ、頭が痛む。

そうだ。後頭部を殴られて気を失ったんだった。そこに思い至って、土方の意識は一気に覚醒した。

「良い商品をご提供いただき感謝しますよ」
「では、ワクチンの件はどうぞよしなに…」
「上によく伝えておきます」

目覚めてしまえば、遠いと思っていた声はすぐ近くから聞こえていた。
会話しているのは二人の男。一方の声には聞き覚えがある…例のタコ商人だ。
では、もう一方は取引相手の闇商人か。

土方は薄っすらと目を開けて辺りを窺った。
床に転がされている土方の側には、タコ商人と緑色の肌をした天人が佇んで談笑している。いつだったか、銀時が撮ってきた写真で見た顔。ウィルスの売り手である闇商人組織の者に間違いない。
少し離れた場所には、双方の部下らしき男共が待機している。場所はどこかの倉庫のようだ。

いかにも、表沙汰にはできない取引をしています、という図である。
会話の内容からして商談は上手く進んだらしい。タコ商人は闇商人に注文の品を届けた代わりに、ワクチンの購入権を得たと…

――何故だ。
土方は眉を顰めた。

闇商人の「注文の品」…すなわち夜兎の神楽…は逃がしたはずだ。それなのに、何故交渉が滞りなく進んでいるのか。

ひょっとして、自分が気絶している間に神楽も捕まってしまったのだろうか。
慌てて視線だけを動かして周囲を探る。しかし神楽の姿は倉庫の中には見当たらなかった。土方はホッとすると同時に、ではどういうことだと内心で首を傾げる。
そんな土方には気付かぬ様子で、天人二人は会話を続けていた。

「それにしても、春雨が貴社に注文してまで求めるとは…その銀髪の侍というのは一体何をしでかしたのやら」
「さぁ、我が社は顧客の内情にまでは立ち入らない主義ですので」

(…春雨……銀髪…?)

予想外な単語を耳にして、土方は当惑に目を瞬かせた。
春雨、というのは、あの宇宙海賊春雨のことだろうか。そして銀髪の侍というのは――
…少なくとも土方は、そんな人間は一人しか知らないのだが。

それとコレとがどう繋がるのか。殴られた箇所がズキズキと痛む頭では情報の整理が追い付かなくて、土方はもどかしさに眉を寄せた。

「何にせよ、ひどく怒らせたということは間違いなさそうですが」

緑肌の闇商人はニマリと笑みを浮かべ、面白がるような声音でタコ商人に語りかけている。

「本人にせよその周りの人間にせよ、できれば傷の無い完品、少なくとも生存した状態で売ってほしいとの条件付きでしたからね。自分達の手で甚振るなり首を刎ねるなりしたいということでしょう」
「それはそれは…」

闇商人の言葉に、タコ商人は大仰に驚いて肩を竦めてみせた。

「あの執念深い連中を敵に回すとは、バカな人間もいたものだ」

まぁ、人間という種族は総じて愚かなようですがね。
そう言って笑い合う天人達の声を聞きながら、土方はそっと目を閉じた。
…なるほどな。胸中に苦く呟く。
アイツらのあからさまにバカにした口調は不愉快だが、おかげで概ねの事情は掴めた。

今の話を総合するに…「銀髪の侍」というのが春雨から何らかの恨みを買って、報復のためにその身柄を捜し求められている、ということらしい。
なかなか見付からぬことに業を煮やし、闇商人組織にまで捜索を依頼した、と。

(ホント、何したんだよあの野郎…)

土方は後頭部の打撲とは別種の頭痛を覚えて顔を顰めた。
大規模な犯罪シンジケートの恨みなど買うものではない。特に春雨は、一度矜持を傷付けられたら相手を八つ裂きにするまで気が済まないという連中だ。一般人を自称するなら、断じて係わり合いになるべきではない組織である。
だと言うのに。

(そういやアイツら、春雨といがみ合ったとか…言ってやがったような…)

頭の片隅に引っ掛かるものがあって、土方は記憶を掘り起こした。
今回の捜査協力を依頼した日。万事屋の連中が自らと折り合いが悪いという組織を並べ立てた時、そこには春雨の名が含まれていなかったか。
あの時はまさか、ここまで深刻に恨まれているとは思わなかった。当然だ。曲がりなりにも市井に暮らす一人の男が、闇商人を通じて身柄を売買されるほどに憎まれているなどと誰が思う。

…いや、この期に及んであの男を常識で量っていた自分が迂闊だったのかもしれない。
土方は痛む頭を抱えたいような気分に駆られて眉間の皺を深めた。


だがこれで、タコ商人が神楽を放って「トシエ」を捕らえたことに説明が付いた。


ヤツが闇商人に約定した品というのは、「銀髪の侍に近しい人間」で…それが夜兎だの狛犬だのという希少種であったことは、ラッキーな付加価値に過ぎなかったのだ。

つまり。

「…恋人、か。いい餌だ。春雨も喜ぶことだろう」

満足そうに呟いた闇商人に、やっぱりそういうことだよな、と土方は嘆息した。


闇商人は、懐から取り出した紙に目を落として口角を引き上げる。
土方は床に転がった姿勢を動かさぬまま、なんとか目を凝らしてそれを見て取った。
その紙は、どうやら写真をプリントアウトしたものであるようだ。チラリと見える着物の色や柄からして、銀時とトシエが共に映っているものらしい。

ああ、例のパパラッチどもに撮られてたんだな。
そう考えると同時に、土方は思わずフッと口元を歪める。

『随分と前から求めていた品らしくてな、情報と写真を送ったら、即刻届けてほしいとのことだ』

タコ商人は自邸でそう言っていた。てっきり神楽の写真を送ったものだと思っていたが、アレはトシエのことであったらしい。
最初から、トシエを「銀髪侍の餌」として売る気でいたのだ。
商品価値があると評されていたのもそういう事情かと、今なら納得できる。

――だが。

(残念だったな…餌になんざ、なりゃしねぇよ)

アイツをおびきよせるつもりだか見せしめにするつもりだか知らないが、俺にはそんな利用価値は無い。
その写真にはさぞ仲睦まじく映っていることだろうが…それは単なる、演技、なのだから。


腕を絡め、肩を寄せ、穏やかな視線を交わして微笑みあった。
愛しさが込められた温かな眼差しも、優しさを纏った柔らかい声も、全部。
アイツはただ、仕事でやっていたに過ぎない。

まァ確かに、ここ数週間の生活で、演技に留まらない気遣いを感じたこともあったけれど。
それは単に、アイツが誰にでもそういう優しさを見せる男だからだ。決して土方が特別好意的に扱われていたわけではない。
むしろ、あの男が自分に対して、他の人間に対するのと同等の気遣いを垣間見せたことすら驚きだった。
本来の自分達は、目が合えば眉を顰め、顔を合わせれば口からは悪態が飛び出す…睦まじさの対極に位置するような間柄なのだから。

加えて今回の件では、銀時は真選組から指示されてない事はするな、という入念な打ち合わせ済みだ。

来るはずなどない。


選択を誤ったな。土方は皮肉な笑みを噛み殺した。
攫われたのが神楽や定春であったならば、あの男は何を置いてでも助けに来ただろうに。



「おや、商品のお目覚めだ」

気配を感じたのか、闇商人が土方を振り返って口角を上げた。
もう寝たふりをしていても意味は無いな、と、土方は床に転がされた状態から半身を起こし、歩み寄ってきた闇商人を睨み上げる。
正面から土方の視線を受けた闇商人は、ほう、と感心したような声を漏らして検分するように目を細めた。

「なるほど、コレは上玉だ。ただの餌として春雨に売るのが惜しいほどだな」

何が上玉だ。
口には出さず、心の中で土方は毒吐く。
そうでしょう、などとほざく声に視線を向ければ、ニマリと笑みを浮かべるタコ商人と目が合った。

「どこから聞いていたかね、トシエさん?己の置かれている状況がお判りかな?」
「…………」

状況、か。
タコ商人の言葉に、土方は口を噤んだまま思考を整理する。

先程の会話のおかげで、己の置かれている状況は大体理解できた。
問題は、ウィルスの押収はどうなったのか、ということだ。
自邸に保管していたウィルスが押収されたとなれば、タコ商人がこんな所で余裕綽綽としているのはオカシイ。マスコミに釈明するなり真選組の出動を幕府に抗議するなり、慌しく動かなければならないはずだろう。
しかし目の前の天人商人どもは、二人とも随分な上機嫌。商売には何の問題も無く、万事順調、と顔に書いてあるようだ。

…では、真選組はまだ屋敷に突入していないのか。
何らかのトラブルがあって作戦が遅滞しているのか、それとも、屋敷に突入されたという情報がまだタコ商人の耳に届いていないだけか。
できれば後者であってほしい。
土方はジリリとした焦燥に胸を焼かれた。


もし、作戦が失敗したとしたら。
その原因は――自分だ。

ウィルスの側で不測の事態に目を光らせていなければならなかったはずの自分が、個人的な感情で衝動的に作戦外の行動を取った。

…その、せいで。


呼吸が止まるような感覚に唇を引き結ぶ。
内心にゾクリと走った震えを気取られぬよう瞳に力を込めれば、タコ商人はフンと鼻を鳴らして闇商人に向き直った。

「…と、まァこのように強情な女でしてね」
「ふむ、なかなか肝が据わっているようですね」
「人間にしては頭も回るようで、油断なりません。保管や移送の際は厳重に拘束しておくことをお勧めしますよ」

保管、ときた。
完全に品物扱いだなと土方は口の中で小さく舌打ちをした。
天人どもの見下した視線。人身売買が平然と行われている事実。それを知りつつ逮捕できないこの国の現状。全てが忌々しい。

…だが。
商品扱いされている限りは、土方の身は安全だ。

(なるべく傷の無い完品で、と春雨からのご注文だそうだからな)

土方は心の内で皮肉に嗤った。
その点では、何故だか知らないが恨まれてくれていた銀時に感謝だ。

普通に考えれば、今、土方がほぼ無傷でいるのは奇跡的なことなのだ。
敵に拉致され、一旦は逃げ出しておきながら再び捕まった身。本来ならば拷問で指の一本や二本失っていてもおかしくない。
それなのに後頭部の打撲ぐらいしか外傷が無いのは、「銀髪侍の恋人」という商品価値を見出されたおかげに他ならなかった。

「この女、未だに身元も、我々の取引を探っていた目的も判然としておりませんでね」
「判っているのは銀髪侍との間柄だけ、ですか。まァ、こちらはそれさえ判っていれば問題ありませんが」

天人商人どもの会話に、土方はこっそりと口端を上げる。
やはり彼らは、トシエが真選組の者であるとは気付いていないらしい。
土方の商品価値を誤解して取引しようとしている、だけ。

好都合だ。
土方個人の身の保全は元より、真選組全体にとっても。ウィルスの押収が成功するまでは、トシエの身元は知られるわけにはいかないのだから。
「銀髪侍の恋人」としての価値だけを重視して扱われている間は、トシエの正体が真選組副長だと気付かれる可能性は低いだろう。


――ならば、自分が今すべきことは。
このまま誤解を深めさせて、確信に変えてしまうことだ。

土方は唾を飲み込んで、声色を整えた。


「…私では、あの人の餌になどなりませんよ」

久しぶりに出した声は掠れて喉に引っ掛かったが、なんとか女声に聞こえるものではあったようだ。
二人の天人は同時に土方を振り返ると、余裕を見せ付けるような表情で鼻を鳴らした。

「餌にされる者は皆そう言うものだよ」

ニマリと笑った闇商人の台詞を聞いて、よし、と土方は胸中に頷く。
こういう場面では、こちらが否定すればするほどに、敵は肯定と受け取るもの。心理戦の初歩である。
土方は後ろ手に縛られた手を固く握り締め、ピンと背筋を伸ばして闇商人を睨み上げた。

「私に何かあった時には、すべて忘れて逃げるようにと言ってありますから」
「知っているよ。それを彼が断ったこともね」

余裕たっぷりの顔で答えた闇商人に、土方は僅かに眉を顰めた。
こちらの態度を虚勢と受け取ったらしいことは、意図した通りだ。しかし、言われた言葉は少々予想外だった。
「知っている」とは、どういう意味か。

土方が当惑に目を瞬かせると、闇商人は懐から何やら小さな四角い機械を取り出した。
それが所謂テープレコーダーのようなものであると気付いたのは、ほどなくして人の声がそこから流れ出したからだ。


『――もし私に何かあったら、このことは全部忘れて、子供達と逃げて下さ…っ』


(………げ)

土方は頬を引き攣らせた。

その声自体にはあまり聞き覚えはない。しかし、台詞にはハッキリと覚えがある。
万事屋の屋根裏に忍び込んだパパラッチに聞かせるために、一芝居打った時の自分の台詞。
もう随分前のことのように感じるが、実際はつい昨日のことだ。

アレ録音してやがったのか。土方は苦々しく顔を歪める。

コレが自分の声かと思うと気持ちが悪い。録音された自分の声というのは大概が気持ち悪く感じるものだが、それが女っぽい作り声であるのだから余計に。
げんなりとした気分で床を見詰めていると、ふいに聞き慣れた声が鼓膜を叩いて土方は目を瞠った。

『オイオイ!何言ってんだコノヤロー!お前、俺をどんな男だと思ってんだ?』

…レコーダーの、続き。
そう言えば、そうだ。あの時のアイツはこんなことを言っていた。

闇商人が「知っている」と言ったのはこの事かと納得しつつも、反面で妙な焦りが土方の背を駆け上った。


レコーダーが再現する声に。
その台詞を吐いた銀時の顔がまざまざと脳裏に浮かぶ。


あの時、アイツは。
常の怠さの欠片も無いほど真摯な目で。
乱暴な口調とは裏腹な、驚くほど優しい声音で。

『万事屋銀さんは一度引き受けたやっかいごとを途中で放り出したりしねェよ。それに…』

柔らかな笑みとともにそう言って、そして。

(待…っ)

止めろそれ以上流すなもう判ったから!
思わずそう叫び出しそうになるのを辛うじて堪えたのと、同時。


『一度惚れた相手のそんな顔も、放っておけねェな』
「―――〜〜〜っ!」


容赦無く耳に流れ込んできた台詞に、土方はその場に突っ伏したくなった。


(ここここんなもん聞かすなバカヤロォォォ!!いやいやいや別に動揺とかしねぇよ?しねぇけど!っつーか改めて聞くとキザだなあのヤロー!あそこまで過剰な演技しろとは言ってねェよバカだろアイツバカだろ…!)

言いようのない羞恥に襲われて胸中で銀時を罵る。
顔が熱い。
こんなことで赤面している自分が更に居た堪れなくて顔を俯かせると、頭上から追い討ちをかけるような闇商人の声が降ってきた。

「随分と愛されたものじゃないか」

(っあ、愛…ってアホかァァァ!演技!それ演技だから!)

声に出さずに叫び返しながら、逃げ場を探すように視線を床の上に彷徨わせる。
動揺も顕なその仕草に、闇商人は満足そうに口角を引き上げてレコーダーのスイッチを切った。

怪我の功名、と言うべきか。
土方の演技ばかりではない狼狽えようは、彼らにトシエと銀髪侍の「仲」を確信させるに至ったらしい。
天人は二人揃って、勝ち誇り揶揄するような視線で土方を見下ろしている。
土方は静かに深い呼吸を繰り返して頭を落ち着かせた。

…何はともあれ、コイツらに誤った確信を植えつけることに成功した。
これでしばらくは自分は無傷でいられるし、真選組の関係者だとも気付かれないはずだ。

作戦成功じゃねェか喜べ俺。
己に言い聞かせつつ、どうにも素直に喜べない心境に、土方はそっと溜息を零した。


「それでは、私はそろそろ…」

トシエの商品価値は充分に証明した、と判断したのだろう。タコ商人が退出の意を告げると、闇商人も笑みとともに謝辞を返した。
よし、さっさと帰れ。土方は心の中で言い捨てる。
タコ商人とその部下が帰れば、この場の敵は半数になる。敵は少ないに越したことは無い。

土方の念が通じたわけでもあるまいが、タコ商人は離れた場所にいる部下に声を掛け、すぐに車の準備をするようにと命じる。
それから闇商人に二言三言挨拶をして、踵を返そうとした…のだが。
ちょうどその時、胸の内ポケットから鳴り響いた音に、タコ商人は顔を顰めて足を止めた。
失礼、と呟きながら携帯電話を取り出す。

「何事だ。商談中は直接電話はするなと言ったはず………なに?」

不機嫌そうに電話を受けたタコ商人の声が、数秒の沈黙の後に俄かに緊迫した。
急に荒げられた声に、一堂の視線が集中する。


「幕府の狗どもが…!?バカな!」


その台詞に。
土方は顔に緊張を走らせてタコ商人を注視した。

――幕府の狗、と言ったか。今。

不本意な呼称ではあるが、それはおそらく、真選組を指しているはずだ。
では、その報せは…まさか。


怪訝そうにタコ商人の様子を窺う闇商人のもとに、彼の部下らしき男が駆け寄って耳打ちをした。

「…ふむ」

闇商人は微かに眉を寄せて顎に手を当てると、部下に命じてノートパソコンのような機器を持って来させる。
カタカタと軽い操作音の後に、画面にTV放送らしき映像が映った。
その中では、見覚えのある女性アナウンサーが興奮した様子でカメラに語りかけている。

『ご覧下さい!屋敷の地下に保管されていたこの箱、この箱になんと!恐るべきウィルスが保管されているというのです!真選組がこの屋敷に侵入したテロリストを拿捕せんと突入したところ、偶然この部屋に…』

土方は目を凝らして画面を見詰めた。
アナウンサーの背後には、積み上げられた白い箱と、それを包囲する真選組隊士。
土方が発信機を残してきた、あの部屋に間違いない。
…そして、画面左上には「LIVE」の文字。

押収が成功したのか。
それも、きちんと生放送付きで。
これで、ウィルスの存在は世間に知られ、幕府も表立っては真選組を処断できない――作戦、成功だ。

ふ、と安堵の息を吐きかけた土方は、横顔に視線を感じて顔を上げた。
見れば、タコ商人がバチリと乱暴に携帯を閉じて、こちらに目を向けている。

その、憎々しげな目の色に。


遅ればせながら、甚だマズイことに気が付いて土方はサッと顔色を変えた。


「トシエを拉致監禁した直後に真選組が屋敷に突入した」などと聞いて、それが偶然だと思うほどタコ商人は馬鹿ではない。
あの目は、察したはずだ。トシエが真選組の関係者であることを。


今回の真選組の作戦、そして先程までの土方の行動は…ウィルスを押収するまではトシエの正体を知られるわけにはいかないと、そればかりを念頭に置いたもので。
裏を返せば、押収さえ成功してしまえばバレても構わないと。そういう作戦だった。
それで問題無いはずだったのだ。元々計画では、土方はウィルスの押収と同時に隊に合流することになっていたのだから。
…だが。

土方が一人で拘束されて敵の手の内にある、この状態でバレてしまっては。

マズイ。
額に焦燥の汗が滲んだ。


真選組の人間だというヒントを得れば、タコ商人はトシエの正体が土方であることにも気付くかもしれない。そうなれば、銀時との間柄が任務上の演技に過ぎないことまで芋づる式に予想が付いてしまう。

銀時への餌にならないと知られれば、今の自分に身の安全の保証は無い。
それどころか、タコ商人がウィルスを押収された怒りをぶつけてくる可能性もあった。

(タイミングが…悪ィんだよ、くそ…っ)

土方は唇を噛み締める。
ウィルス押収の報が、せめてもう少し後…タコ商人がこの場を立ち去った後であれば。
わざわざ土方に恨みをぶつけるためだけに戻ってきて、闇商人に事情を説明して交渉して身柄を引き取る、なんて面倒な事をしやしないだろう。タコ商人は、性格はいけ好かないが頭は良い。そんな非効率的な事をしている暇があれば、ウィルスに関する記者会見の準備でもするはずだ。

だが、真選組の小細工にハメられたと知った瞬間に、目の前に真選組関係者がいるとなれば。
…存分に恨みを晴らしたくなるのが人情というものだ。


コレは本格的にピンチだと、土方は汗で湿った掌に爪を食い込ませてタコ商人の様子を窺った。


例えば、タコ商人が腹いせに、土方をこの場で始末すると幕府に通告したとしたら…
幕府はきっと、それを容認する。
幕府とて、今回のことで以前にも増して、土方の存在が目障りになったに違いないのだから。

近藤を始めとする隊士の抗議など、簡単に黙殺されるだろう。近藤の性格はハッキリ言って交渉事には向かないのだ。幕府の狐狸どもとの化かし合いは、普段から土方が一手に引き受けていた。
…その土方が、渦中にあって身動きが取れないとあれば。

幕府とまともに交渉できる人間など、真選組には土方を除いては一人しかいない。しかもその一人は今現在、土方と密かな敵対関係にあった。
長期出張で江戸を離れているあの参謀がもしこの事態を知れば、これ幸いと土方をタコ商人に売り渡す気がしてならない。
くそ、あの野郎ムカツクんだよな、そのうち絶対ぶっ殺してやる…と、土方はこの場にいない男の顔を思い浮かべて瞬間的に腹を立てた。

この場面で余所事を考えるなど暢気なものだと我ながら思ったが、これは危機に直面しての或る種の現実逃避かもしれない。



「猿どもめが…」

低く呻いたタコ商人の瞳の奥には、憤怒の炎が燃え滾っている。
それを見て取って、土方の背に冷たい汗が伝った。





------第十五訓へ続く


※これは動乱編より前の話、という設定になりました。
なので、銀ちゃんが春雨から買った「恨み」というのは麻薬〜紅桜の件です。吉原編は関係ありません。
神威は何も関わりありませんのでご了承を。