第十五訓 何度否定してもしきれないこと、それを人は真実と呼ぶ
憤怒の籠った視線を真っ向から受け止め、黙って睨み合うこと数秒。
今にも土方を罵倒しだすかと思われたタコ商人は、ふいに視線を外して闇商人の方へと向き直った。
すわ、「トシエ」の素性を闇商人に説明する気かと、土方は奥歯を噛み締めてジリリと後ろに膝行る。
後ろ手に括られた手を握り締め、素早く周囲に視線を巡らせた。
真選組の関係者だと…銀時との間柄が便宜上のものでしかないと露見してしまえば、向こうにとっては土方を生かしておく理由が無い。即刻抹殺、という運びになってもおかしくは無いのだ。
そうとなれば、土方が取れる行動は一つだけ。
どうにかしてここから逃げ出すしかない。
(どうにか…できるか?くそ…っ)
土方は胸中に毒吐いた。
幸いなことに、両脚は縛られていない。拘束されているのは腕だけだ。だが当然ながら身に付けていた小刀は取り上げられているし、他に武器になる物も何も持ち合わせていない。土方は体術にも多少の心得はあるが、かと言って素手で切り抜けられるほどこの場の敵の数は少なくなかった。
――状況が、不利すぎる。
「…私が部下から受けた報告では」
タコ商人が闇商人へと話を切り出す。土方は小さく舌打ちしてギラリとタコの横顔に視線を戻した。
(…ヤツらから抹殺の意図を感じたら、その瞬間に跳び退って部下の一人を襲う。そいつから武器を奪えば何とか抵抗できるかもしれねェ)
どう足掻いても多勢に無勢だが、黙って殺されてやるつもりはない。
覚悟を決めてタコ商人を睨み上げ、いつでも跳び退れるように体勢を整える。
しかし。
「侵入したテロリストというのが銀髪の男で、一人の娘を必死になって探していたとのことです」
(は…?)
タコの口から続けられた台詞は予想外なもので、土方は胸中に間抜けな声を発した。
体に込めていた力が思わず抜ける。
(…コイツ、何を言い出してんだ)
訝しさに眉を寄せ、タコ商人の横顔を見遣った。
タコ商人が言っている内容自体は、別におかしなことはない。
銀時がテロリストを装ってタコ商人の屋敷に飛び込む手筈になっていたのは間違いないし、銀時が或る娘を探していたというのも事実だろう。その娘というのは、おそらく神楽のことだ。
…だが、その言い方では、まるで。
眉を顰める土方の目の前で、闇商人は案の定、「ほう」と満足そうな相槌とともに土方に視線を向けた。
「つまり、コレが充分に餌になると証明された、と」
「そのようで」
コレ、と土方を指し示した闇商人に、追従するように微笑んでみせたタコ商人を見て、土方はますます怪訝に眉を寄せた。
これでは銀時がトシエを助けるために屋敷に侵入したのだと言うかのような…
二人の仲を相愛だと未だ信じて疑っていないかのような、話の運びだ。
土方にとっては、願ってもない展開ではあるのだが。
――オカシイ。
闇商人の野郎はともかく、タコの方は俺の素性に察しが付いているだろうに。
土方はグッと目を細め、探るようにタコ商人の横顔を睨む。
つい先刻こちらを睨みつけていたヤツの目の色は、トシエが真選組の関係者だと悟ったとしか考えられない。
とすれば、真選組が囮捜査を敢行していたことも、トシエや銀時がその中の駒であったのだということにも気が付いているに違いないのだ。タコ商人はそのくらいの頭は持っている。
…それが、何故。
まるで土方を庇うかのような話の進め方をするタコ商人に、どういうつもりだと詰問の視線を投げかける。
だがタコ商人は土方の視線など全く意に介さぬ素振りで、にこやかに商売相手へと語りかけていた。
「今後とも、どうぞよろしくお付き合いのほどをお願い致します」
「それはもう。素晴しい商品を御提供いただいた旨、弊社の本部にもよく伝えておきますよ。…ですが」
闇商人は上機嫌な笑顔で応じつつ、手元のモニターに目を落として僅かに首を傾げた。
「この報道は、貴殿の商売に支障は無いのですか?」
モニターの中では、未だにウィルス押収の報道が続けられている。
タコ商人は軽く肩を竦めてみせた。
「残念ながら、全く問題無い、というわけには参りませんな。あのウィルスは押収されることになりそうだ。大損ですよ」
苦々しい声音ながらもアッサリとした口調で答えたタコ商人は…ここでチラリと土方に目を向けた。
「…ですが、この件で私が逮捕されるというなどということは…あり得ない」
所詮猿どもにできるのはあそこまでが限界だ。
そう言って口角を持ち上げてみせたタコ商人の目は、針のような光とともに、土方に対する皮肉の笑みを湛えていて。
…よく判ってやがる、と、土方は忌々しく口元を歪めた。
悔しいが、事実だ。真選組に幕府の御用商人を逮捕する力は無い。
あからさまに違法なウィルスを押収することにすら姑息な小細工が必要なのだ。これ以上、タコ商人の商売を妨げるようなことなどできはしない。
コイツはそれを判っているのだ。
それで、こんな報道を前にしても落ち着いているという訳か。
タコ商人の様子に大した問題は無いらしいと判断したのか、闇商人は軽い笑声を立ててモニターをコツリと指で弾いた。
「言うなれば、突然山を下りてきた猿にランチのデザートを掠め奪られた、といった気分ですかな」
「まァそんなところですね。今後はこんなことの無いように猿避け対策でも講じますよ……ですがその前に、まずは新しいデザートを用意しなければいけませんので…」
ワクチンの件は、くれぐれもよろしくお願いします。
タコ商人のその言葉を聞いて、なるほどそういうことか、と土方は納得した。
ウィルスを失った損害を回復するためにも、ワクチンの取引は是が非でも成功させたい、と。
そのためには、今ここで「トシエ」の商品価値を否定するわけにはいかないのだ。
闇商人に注文の品を渡し、その見返りにワクチンの購入権を得る…それが何より優先だと。
私怨を一時的に晴らすよりも、商売上の利益を重視、という訳だ。
なかなか商魂たくましいではないか。
土方は感心すると同時に、緊張に詰めていた呼吸をホッと解放した。
――その商魂に、救われた。
「今回は偶然、警察組織に踏み込ませるようなことになってしまいましたが…こんなアクシデントは、そう何度も起こるものではありませんので。貴社にご迷惑をお掛けするようなことは決してありません。ご安心下さい」
偶然、という単語を微かに強調した口調で言いいながら、タコ商人はまた、チラリと土方に目を向けた。
闇商人に話しているように見せかけて、その実、土方に向けられた言葉。
つまり、今回はアクシデントという建前を信じてやるが、二度目は無いぞ、と釘を刺してきたのだ。
…それでいい。土方は仄かに口角を引き上げて、真っ直ぐにタコ商人を睨み返した。
冷静で頭の切れる敵。
だからこそ、こういう交渉が通る。
一見、馬鹿な敵の方が相手取りやすいと思われがちだが、実際は逆だ。そこそこ頭の良い相手の方が、行動の予測が付けやすく作戦も立てやすい。
そもそも今回の真選組の作戦自体が、幕府上層部や御用商人が交渉の効く連中でなければ成り立たないものだった。
おかげさまで計画は成功。
コイツがこういう態度に出てくれるならば、今回の件で真選組が取り潰しにあう可能性はグッと低くなる。
土方は全身に構えていた力を抜いて、周囲には聞こえぬように深く息を吐いた。
「それでは。また御連絡をお待ちしております」
二度目の辞去の挨拶をして、今度こそ倉庫を出て行ったタコ商人の後ろ姿を見送る。
テメーが賢いヤツで助かったよ、と皮肉めいた台詞を心の声で投げかけていると、ふいに上から声を掛けられた。
「ホッとした顔をしているな」
見上げれば、いつの間に近寄ってきたのか、闇商人がすぐ横に佇んでいる。
両目の間隔が奇妙に離れた緑色の顔が、ニマリと笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「なるほど。あのウィルスの存在を明るみに出すことが、君の目的だったということかな?見事、猿どもを山から誘い込むことに成功したというわけだ」
「…ええ、まあ。貴方がたには生憎なことでしょうが」
ゆったりと笑んで土方は応えた。
作り声が掠れることなく自然に出せたことに、内心で少しホッとする。
せっかくタコ商人がトシエの正体を暴露せずに立ち去ってくれたのだ。ここでボロを出すわけにはいかない。
慎重に言葉を選びながらも、土方の心持ちは先程までより随分と楽になっていた。
やはり、あのタコがこの場から消えてくれたのは大きい。
土方は今目の前にいる闇商人のことは、切れ者のタコ商人ほどには警戒していなかった。
『全宇宙規模の闇商人組織』と言っても、コイツは所詮こんな辺境の星担当の下っ端。今までの遣り取りを見た限りでも、大した相手とは思えない。
「いや?先方には気の毒だったが、こちらには何も損害は無いよ。むしろウィルスの存在が知れ渡った方が、ワクチンの需要が増加して値が上がる。君達には感謝しているくらいだ」
「それは良かった。では御礼にここから逃がしていただけます?」
「バカを言っちゃいけない」
ニコリと笑んでしゃあしゃあと言ってみせた土方の言葉を、闇商人は一笑に付した。
「せっかく君が銀髪侍の餌になると保証書が付いたんだ。ここで逃がすなんていう勿体無いことをするものか」
――ああ、やはり。コイツにはタコ商人ほどの頭は無いな。
土方はこちらこそ一笑に付してやりたくなるのを押し殺して俯いた。
本気で、「トシエ」が銀時の餌になると思っているらしい。
(…バカだな)
俯いて表情を隠したまま、微かに口端を引き上げる。
この様子ならば、春雨に売り渡されるまでの間、土方の身の安全は保障されるだろう。
己の身体が五体満足でさえあれば、隙を突いて逃げ出すチャンスはこの先いくらでもある。
あの男の、恋人、なんて。
そんな有り得もしないことを信じ込んでくれたおかげで。
あんな演技を本気にするなんて――本当に、バカだ。
土方は声を立てずに冷笑した。
自分の台詞にツキリと胸が痛みを訴えたのは…何の事はない、気のせいだ。
ウィルスの押収は成功した。タコ商人との交渉も無言のうちに済んだ。
あとは土方が真選組に戻ることさえできれば事は終了。
圧倒的不利だった状況に漸く展望が見出せたのだ。自分が胸を痛める理由が、どこにある。
しつこく痛みを訴える胸には強引に無視を決め込んで、土方は脱出の算段へと思考を移した。
時間の猶予さえあれば、そのうち真選組が土方の居場所を突き止めるはずだ。うちの監察にはそのくらいの能力はある。
内と外で連携が取れれば、人ひとり救出するぐらい何とかできるだろう。
どうにか山崎あたりと連絡を取る方法が無いものか、などと考えを巡らせていた土方は、ふと、闇商人が周囲の部下に何やら合図したのを感じて顔を上げた。
指示を受けた何人かが土方を取り囲むように背後に回り、また別の部下が、銀色の小さなトレイを闇商人のもとへと運んでくる。
そのトレイの上に乗せられている物。
半透明な液体の入った注射器を目にして、ゾクリ、不吉な予感が背を駆け上った。
「何を…」
「ああ、そんなに警戒することはない。ちょっとイイ気分になるだけだ」
麻薬か。
闇商人の返答に土方は眉を寄せる。
抵抗力を奪うためだろうか。それなら睡眠薬でも事足りるだろうに、何故殊更にそんな薬を。
…何にせよ、そんなものを打たれるのは御免被る。
土方は故意に余裕げな笑みを浮かべると、闇商人に静かな声を投げかけた。
「商品にそんな物を打っていいのですか?春雨は薬漬けの女を御所望で?」
傷の無い完品で、という注文のはずだと言外に匂わせる。
薬を一回投与したくらいで「傷物」扱いされるとは思わないが、完品でと注文された以上、些細なことでも値を下げる理由にはなり得るだろう。
春雨の気性をよく知る闇商人を躊躇させるには、充分な台詞のはずだった。
しかし。
土方の問いかけに、闇商人は一片の動揺も見せず。
まるで何でもない事のように、こう応えた。
「君を春雨に売る気は無いよ」
「―!?」
土方は言葉を失った。
…何を、バカな。
唖然としたのを隠すこともできずに見返せば、闇商人はしたり顔で笑う。
「言っただろう。ただの餌として売るのは惜しい、と」
その容姿、妓楼に売った方がよほど金になる。
サラリとした口調でそう言うと、部下の掲げ持つトレイから注射器を取り上げ…意味ありげに目を細めて土方の眼前でそれを揺らしてみせた。
「コレは懇意にしている妓楼の主人から貰ったものでね。君のような跳ねっ返りの才媛を、従順な娼婦に仕立てる時に使う薬だそうだ。…アッという間にトベるよ」
(――っ何、だと…!?)
ザワリと背筋を走った悪寒に、土方は咄嗟に立ち上がった。
しかし背後を囲むように控えていた三下どもにすぐさま肩を掴まれ、床に引き倒される。
右肩を押さえつけた一人が袖を捲り上げようとしているのを感じて、慌てて身を捩り振り払った。
冗談ではない。
自分が真選組に戻れば事は終了、とは言ったが。それは当然、無事に戻れればの話であって。
たとえ救出されたとしても、薬漬けの娼婦なんぞに仕立て上げられていたのでは意味が無い。いや娼婦というかどちらかと言えば男娼なんだろうが、そういう問題ではなくて。つーか、え、男娼…なのか…?って、イヤイヤイヤ!
あらぬ方向に転がりかけた思考を引き止めて土方は頭を振った。落ち着こう。我ながら混乱に陥っている。
――だが、混乱を来たすのも無理はないだろう。
闇商人の言動は完全に予想の外…どころか、明らかに理が通っていないのだ。
「春雨からの注文品を余所へ売る気ですか?そんなことをして良いとでも?」
うつぶせに床に押さえつけられた姿勢のまま、可能な限り冷静な声音で問い質す。
良いはずがなかろう。春雨は上客のはずだ。その上に気性も荒く執念深い。注文した品を勝手に余所に売られて黙っている連中ではない。
そもそも。「トシエ」は春雨の注文があったからこそ、商品として見做されてきたのではなかったのか。でなかったら先程までのタコ商人との遣り取りは何だったのだ。
オカシイではないか。
ギラリと睨み上げれば、その視線に言いたい事を充分感じ取ったらしい。闇商人は軽く肩を竦めると、次のように説明を加えてみせた。
「彼らの注文は、『銀髪侍、もしくはその周辺の人間』でね。君が確実に銀髪侍の餌になると判った以上、ここで網を張って我々の手で銀髪侍を捕らえさせてもらうよ」
春雨の注文にはキチンと応じる。売り渡す商品が君から銀髪侍に代わるだけだ。
そう言って、ニヤリと笑う。
「餌を売るより、釣り上げた魚を売った方が値が高い。単純な論理だろう?」
闇商人の得意気な説明に、土方は盛大に顔を顰めた。
なるほど、欲深なことだ。トシエを使って銀髪侍を捕らえてから、用済みになった餌は妓楼に売ってもう一儲けしようということか。
…だが、それにしたって。
コイツの遣り方は、少々慎重さに欠け過ぎてはいないだろうか。
「その釣りに失敗したら?どうするんです」
「失敗するとは思えないな。君という素晴しい餌があるんだからね」
「…釣りの成果は餌の善し悪しだけでは決まらないでしょう。運悪く魚が寄ってこないことも、餌だけ持ち逃げされることもある。そんなリスクの高いマネ、勝手に判断する権限が貴方にあるですか?」
たかが地球駐在の下っ端が、春雨なんて上客の注文の取引を一任されているとは思えない。
さっきの今で本部に指示を仰ぐ時間などなかったはずだ。自己判断でそんなことをして失敗すれば、叱責では済まないだろう。
現時点でコイツがするべきことは、本部の指示があるまで「トシエ」を無傷で拘束しておくことではないのか。
何故、わざわざ単独でリスクを冒そうとするのだ。
疑問をそのまま口にすれば、闇商人はフム、と一言呟いて、とぼけるように視線を上向かせた。
「確かに君の言う通り…上に伺いを立てれば、まず君を本部まで連れて来いと言われるだろうな。…だがそれでは、私に旨みが無いのでね」
(コイツ――!?)
その表情と台詞にピンとくるものがあって、土方は秀眉を跳ね上げた。
「まさかテメェ…!」
「テメェ、ときたか。ヤマトナデシコかと思えば、どうやら本性は随分とじゃじゃ馬のようだな」
思わず素で声を上げてしまったことに闇商人が面白がるような顔をしたが、そんなことに構っている場合ではない。
「テメェ、本部を通さずに俺を売るつもりか!?」
テメェの私利のために。
そう噛み付くような口調で詰問すれば。
闇商人は口角を上げて、悪びれる風も無く肯定した。
「ご名答。聞いていた通りの才媛だ――これはますます、きちんと抵抗を封じなければいけないな」
「ふざけんっ、むぐ、ぅ――!」
背後から押さえつける手を振りほどいて跳ね起きる。が、しかし、すぐにまた捕らえられて引き倒された。
今度は仰向けに四肢を押さえつけられ、口を覆われて頭部も固定される。
最悪だ。
コイツが本部の指示も待たずに行動に出た理由が、やっと判った。
銀髪侍さえ差し出せば、本部への面目は立つ。
だからコイツは、トシエの方は本部に知らせず。懇意だという妓楼に売り飛ばして個人的な利益を得るつもりなのだ。
(俗物が…!)
土方は塞がれた口の中でギリリと歯を食いしばった。
なんて阿呆なヤツだ。獲物がまだ釣れてもいないうちに餌を傷物にするなど。獲らぬ狸を当てにしてツケで買い物しまくるようなものだろう。釣りが失敗したらどうするつもりなのだ。
私欲に駆られて冷静な判断力を失っている。
(くそ、油断した!)
渾身の力を込めて身を捩るも、四肢は上からガッチリと押さえられていて跳ね除けられない。
こんなことなら、タコ商人がいなくなった瞬間に暴れてここを抜け出すべきだった。土方はほぞをかむ。
春雨に売られるまでは無傷でいられるからと、じっくり策を練ろうとしたのが完全に裏目に出てしまった。
しかしまさか、敵がこんな非合理な行動に出るなど。計算外にも程がある。
――ああ、本当に迂闊だった。つい先程、自分で考えたことではないか。
頭の切れるヤツの方が相手取りやすい、と。
それは逆に言えば、浅慮な輩は何をしでかすか判らないということだと…何故失念していたのか。
本当に警戒すべきだったのは、タコ商人よりもこの下っ端だったのだ。
「安心しなさい。すぐに何も考えられなくなる」
焦りを浮かべた土方の顔を見下ろして、闇商人は自ら注射器を手に、傍らに跪いた。
暴れる土方の視線がチラリと倉庫の入口の方へ向いたのを目敏く捕らえて、鼻で嗤う。
「助けは期待しない方がいい。この国では警察さえ、うちの取引を邪魔できないのだからね」
その通りだ。
挑発するような敵の台詞に反論の余地が無くて、土方は唇を噛み締めた。
発信機を自ら置いてきてしまった現在、土方の居場所は誰も知らない。そして仮に場所を知ったとしても、真選組が今ここに踏み込んで来ることは不可能だ。
お上を誤魔化す手段も講じずに闇商人に手を出せば、真選組の取り潰しは必至。
この組織は、役人である自分達には手の出しようのない相手なのだ。
もし。コイツに何の気兼ねも無く手を出せる人間がいるとすれば。
それは――
瞬間的に頭に浮かんだ顔を、土方は即座に打ち消した。
違う。何を考えているのだ。
ここへ来てから再三確認したことではないか。
…アイツは、来ない、と。
今回の手助けを依頼したあの男には、闇商人には手を出さない旨を重々伝えてある。
仕事で手を貸している者が、任務上の禁忌だと言い付けたことを破ってまでここへ来る道理がどこにある。
そもそもアイツには…俺を助ける理由など、無い。
来やしない。
来るはずがない
――いや、正確には。
来てはいけない、だ。
土方は殊更にゆっくり近付けられる注射器を睨み付けながら、胸の内を絞り上げられるような感覚にグッと眉を寄せた。
本当は、ずっと。
…来るかもしれないと、思っていた。
何度も否定しながら、それでも。
お人よしでお節介なところのあるアイツだ。
一度首を突っ込んだことには頼まれなくとも解決まで付き合おうとする、あの男のことだ。
ひょっとしたら、と。
心の奥底では、確かにそう思っていたのだ。
…だが。
駄目なのだ。
来てはいけない。
ここで救われてしまったら――もう、否定できないではないか。
心のどこかでアイツに頼って、期待している自分を。
…そんなのは。
幾つでもこの腕に抱え込んで守るなど、言えやしなかった弱い自分だ。
唯一絶対のもの以外、全部切り捨てることで傷付くまいとした卑怯な自分だ。
今更、他人に手を伸ばすなど。俺は己を赦せはしない。
真選組の、他に。
助けることも助けられることも、自分は望んではいけないはずだった。
――それなのに、嗚呼、ちくしょう。
脳裏を過ぎる銀色を、どうしたら消すことができる?
目前に迫った注射器が、横合いから飛来した物体に叩き割られる。
液体とガラスを飛散させながら床に突き立った木刀の柄に、見覚えのある湖名を見てとって。
安堵するよりも先に泣きたいような気分になって、土方はキツく目を閉じた。