第五訓 慣れって怖い


朝、目が覚めて布団から抜け出すと、台所の方からいい匂いが漂ってきて。
新八は今の生活を神に感謝した。

物心付く前に母親を亡くし、更に幼くして父を失った新八にとって、台所から漂ってくる香りといえば焦げ臭いを遥かに通り越した炭の臭いしかなく。
それを防ぐには己が台所に立つより他に手は無くて、幼い新八はその小さな手に包丁を握ることになったのである。
まぁそのおかげで、料理を始めとする家事全般をこなせるようになったのだから、結果的にはプラスかな、なんて自分を納得させてみるものの… やはり、食欲をそそる匂いに目を覚ます朝、という生活に対する憧れは人一倍のものがあった。

そこへ来ての、コレである。

布団の中でまどろみながら聞く、リズミカルな包丁の音。
目を開ければ、御飯の炊ける匂いと「黒くない」焼き魚の香り。
感涙の一つも零れようというものだ。

(ああ、なんて爽やかな朝だ!)

この生活が始まって早や数日が経過していたが、この喜びは静まるどころか高まるばかりで。
新八は今朝もウキウキと踊る心を抱えながら、布団を畳んで台所へと向かった。


「おはようございます」

台所の戸口をくぐって、佇む背中に声をかける。
トントンとまな板を鳴らしていたその人は、長い黒髪を揺らして振り返った。

「おう、早いな」

そう言って、少し笑う。
口元には薄く紅。
臙脂の地に松葉文を散らしただけの着物は少し地味だが、それが返って、彼女自身の持つ華を引き立てているいるようで。
新八は複雑な吐息を漏らした。

少し口角を上げただけ。
その笑顔は本来、決して愛想が良いと言えるようなものではないはずなのに。

(外見って、偉大だなァ)

ここ数日、何度考えたか知れぬことを、また新八は考えてしまった。
この人が本来の姿でここにいて同じことをしていたならば、自分は思わず半歩退いていたに違いないのに、なんて。
何度思ってみても、やはり今現在の自分がこの人に抱いている好感は消えなくて。
人間ってのは本当に視覚に頼っている生き物なんだと、こんなところで実感する。

何しろ、この人が発する台詞の口調が外見に似合わぬことも、その声が自分よりも低いことも、最早気にならなくなってしまっているのだから。

本当にこれでいいのか自分、と軽く自己ツッコミを入れつつ、それでも朝食の香りによる上機嫌は抑えようもなくて、新八は笑顔で応えた。

「トシエさんこそ、いつもすみません。毎日ご飯作らせちゃって」

しかも四人分、と頭を下げると、トシエ…と呼ばれた土方は、苦笑を零しつつ首を横に振った。

「構わねェよ。つーか、そういう契約だしな」

取引なんだから頭下げる必要はねェ。
そう言ってまな板に向かい直した土方を見て、新八は己が感謝を捧げるべき相手を神の他にもう一人思い出した。
その人物は、今、押入れで惰眠を貪っている。




「てなわけで、コイツしばらくウチで生活するから」

そう宣言した銀時に、新八はただ、パチリと瞬いていた。
『てなわけで』も何も、それが帰宅した銀時の第一声だ。語法も何もかも間違っている。
本来の彼の役割を鑑みれば、ここは大声でツッコんで説明を求めるべきところであった。しかし。
あまりにも予想外すぎて声が出なかった、というのが本音だ。

「えーと…なんでですか?」
「なんかコイツ敵に狙われてんだとよ一丁前に。マヨラーのくせに誘拐されるかもしれねェらしーわホンットめんどくせー」
「なんでそこで蔑まれなきゃなんねェんだオイ。つーか今お前マヨラー馬鹿にしただろ謝れコラ」
「ああ…なんかもういいです」

この人達にきちんとした説明を求めてたら日が暮れる。新八はそう判断して溜息を吐いた。
つまり土方さんが何らかの依頼を追加したのだろう。それさえ判っていれば、まぁいい。

「僕は別に構いませんけど」

依頼料が追加されるなら、と心の中で付け加える。声に出さなかったのは、どうせ銀時がさんざん言った後だろうと思ったからだ。
無駄なことを言って土方を怒らせる必要はない。この恐ろしい男に喧嘩を売るなんてことは新八はしたくなかった。
しかし。
自分は構わないが、神楽はどうだろう、と、新八は向かいのソファに座っている少女に目を向けた。

神楽は、この万事屋を家族のように思っている。
その気持ちは新八も同じだが、姉とともに暮らす家がある新八と違って、神楽はこの万事屋こそが「自分の家」だ。
そこに他人が踏み込むことを、よしとするだろうか。
神楽は曲がりなりにも年頃の娘なわけだし、さらに相手は普段争ってばかりいる真選組の人間だ。
ついでに言うと、神楽は自分と違って、この人を怒らせるような発言を躊躇ったりしない。

さて何を言い出すか、と冷や汗もので神楽を見ると、少女は腕を組んで何やら考えている。
銀時も土方も、最初からこの少女が最大の難関だと思っていたのだろう。何気ない顔で、神楽の発言に身構えているのが判った。

しかし少女の口から出てきたのは、予想外な言葉だった。


「それって、トシ姉がしばらく御飯作ってくれるってことアルか」
「は」


神楽の言葉に、当の土方は呆けたように目を瞬いた。
そもそも「トシ姉」が自分のことだと理解するのにすら数秒を要した様子である。
だが銀時の反応は、土方が我に返るよりもずっと早かった。
思いがけない神楽の出方に一瞬目を見開いたが、すぐにニンマリと嫌な笑みを浮かべる。

「そうだよ〜神楽ちゃん。しばらくはトシエさんが三食作ってくれる上に、掃除洗濯その他もろもろ全部やってくれるんだってさ〜」
「マジでか!」
「なっ!?ちょっ、待てコラ!そんな話…」
「トシ姉、三食必ず白いごはん出すヨロシ!米食べないとメシ食った気がしないネ!」
「聞けェェェ!」

怒鳴る土方の両肩に、銀時はポンと両手を置いてわざとらしく真面目な表情を作った。

「いやお前、考えてもみろ。俺達は赤の他人のお前を一つ屋根の下に迎えるわけだぞ?しかも長期間。滞在費に迷惑料、精神的損害の 賠償金も含めて、かなりの追加料金をいただきたいところをだな、寛大にも食費光熱費に家事労働をプラスしただけで勘弁してやろう っつってんじゃねーか。コレはお前、出血大サービスだぞコノヤロー。この申し出に乗らない手はねェって。な?はい契約成立」
「何で一言も返事してねェのに契約が成立してんだクーリングオフさせろ。あとテメェに精神的損害とか言われるとすげェ腹立つんだけど。 むしろこっちが賠償金請求していいか」
「メシは三食必ずデザート付けろよ。おやつは一日三回な」
「黙れこの糖尿ォォォ!!」




そんなこんなで、すったもんだの末に結局土方が押し切られたのだ。
さすがに掃除洗濯その他の家事を全て、というのには断固として抵抗したので、彼の義務になったのは炊事だけだったが。神楽と新八 はそれで充分満足だった。

新八は炊きたて御飯と味噌汁の匂いを改めて吸い込み、笑顔を浮かべる。

「トシエさん、今日は食器洗い、僕がやりますから」
「そうか?悪いな」

極自然に「トシエさん」と呼びかけ、土方も平然とそれに応える。
家の中と外とで呼び分けていたらそのうちボロが出るだろうから、と、土方自身がそう呼ぶように言ったのである。
監視の気配に聡く演技巧者な銀時と土方は、他人の目がある時と無い時で器用に呼び名や態度を使い分けている。しかし子供らは彼らほど 器用ではないので、基本的に土方には一貫して「トシエさん」として接することになっていた。
新八が本来の土方を忘れかけるほどトシエに好感を抱くのには、これにも原因があるのかもしれない。

「よし、そろそろチャイナ起こして来い。朝メシにするぞ」
「はい!」

パタパタと神楽の寝室に向かいながら新八は幸せを噛み締めていた。

(…こういうのが、母親のいる家庭ってものなのかな)

トシエの「正体」さえ思い出さないようにしていれば、それはとても温かな感覚だった。
…思い出してしまった時のことは、あまり考えたくない。



「う〜ぃ、帰ったぞ〜っと」

銀時が帰宅したのは、新八たち三人が朝食を食べ終えた頃だった。
要は朝帰りである。ただし飲み明かしてきた訳ではない。仕事だ。
ここ最近の銀時は、夜中に一人で仕事に出かけることが多かった。もちろん、土方の依頼を受けての隠密調査である。

「あ、おかえりなさい銀さん」
「銀ちゃんおかえりヨ〜」

首を鳴らしつつ居間に入ってきた銀時を、子供らは笑顔で迎えた。普段は朝帰りなどしてくれば冷たい視線を向けるのだが、真面目に仕事を してきたとあれば訳が違う。

「思ったより遅かったな」

食後の一服と煙草を咥えていた土方も、目を上げて銀時を見た。
灰皿を引き寄せてもみ消し、顔にかかる髪をパサリと払いつつ立ち上がる。

「どうする?腹減ってんならメシ用意するが、先に風呂沸かすか?それとも…」

土方はここでスイッと目を細めた。

「緊急に報告しなゃならねェ調査結果があるか?」


「……あー…」

銀時はパリポリと首の後ろを掻いた。

「惜しかったアルな銀ちゃ…」
パァン!

神楽の言葉は後頭部をはたいた銀時によって強制中断される。

「そうだな。風呂も入りてェけど、後でいいわ。メシ食いながら報告してやるよ」
「なんか偉そうだなコラ」

土方は眉を跳ね上げつつも、「座って待ってろ」と言って台所に消えていった。銀時の朝食を準備しに行ったのだ。
やっぱり何だかんだ言って律儀だなこの人、と新八は感心しながらその後姿を見送る。
銀時はどかりとソファに腰を下ろし、大きく息を吐いた。

「あれ。なんか銀さん、いつもより疲れてますね。大変だったんですか?」
「…まぁな」
「新八違うネ。銀ちゃんはガッカリしてるアルヨ。トシ姉がさっき『それともワタシ?』っていうかと思っ…」
パァン!

再び神楽の後頭部を叩いた銀時を見て、新八は苦笑する。

土方がトシエさんの格好で万事屋で生活するようになって一番戸惑っているのは、器用に態度を使い分けているはずの銀時であるようだった。 逆に、使い分けているからこその戸惑いかもしれない。
神楽はあっという間に「トシ姉」に馴染み、中味は土方だということを忘れたかのように振舞っているし、新八も段々と「トシエさん」に 慣れ、この生活の幸せを自然に受け入れられるようになってきている。
しかし銀時は、目の前の美女がたとえどんなに美しく色っぽくても、中味は「あの」土方であるという考えが消えないらしい。
故に、他人の目が無い所では普段通りに土方として接しようとしているのだが…時折、ピクリと固まっている様を新八は目撃していた。

それは、「トシエさん」がフと、柔らかい微笑みを零した時であるとか。
夜中に帰ってきて、テーブルの上に一人分用意されている食事を発見した時であるとか。
俯いて考え込んでいた彼に、ふいに目を上げてじっと見られた時であるとか。

そんな時は決まって、後で一人、ぐしゃぐしゃと髪をかき回しているのだ。

つまりは、あくまで「土方」だとして接している相手に不覚にもドキリとさせられて、そんな自分が信じがたくも許せなくもあるんだろうな、 と新八は冷静に見抜いていた。

「バッ…カおめ、違ェよ!ったくホントお前、何言ってんのお前?」

銀時の不機嫌な声に、心の声が漏れていたかと新八は焦った。
しかしそうではなく、銀時の目は神楽に向いていた。後頭部をはたかれても尚、ニンマリと嫌な笑みを浮かべて見てくる神楽に言いつのって いるのである。

「んなわけねーだろーがバカだろお前は。ホントッバカ」
「何がバカだって?」

ブツブツと言い続ける銀時に、一人分の食事を盆にのせて居間に戻ってきた土方の声が重なった。
銀時は一瞬言葉を詰まらせてから、なんでもねーよと素っ気無く答える。
その視線が微妙に土方から逸らされているのを見た神楽は、また嫌な笑みを深め。
再度、銀時に後頭部をはたかれたのだった。



「売り手が判ったぜ」

開口一番、銀時はそう言った。
土方はピクリと眉を上げる。

ウイルスとワクチンの裏取引。数名の天人商人を黒と睨んで久しいが、実を言うと、売り手が誰なのか、というのがずっと判らぬままだった。
かまっ娘倶楽部で捕縛した下っ端も、銀時に探りに行かせた商人も、山崎ら監察が探ってきた天人も全て、どうやら買い手として 交渉を進めているらしいのである。やつらが密談している時、その内容は「共同で金を出し合わないか」というものであったり、「利益の 一部を渡すから手を引け」というものであったり…要は、一つしかない商品を争っている者同士の会話であった。
肝心の売り手の正体は一向に謎のままだったのだ。

売り手が判らなければ、ウイルスのありかも判らない。
捜査を進める上での最大の壁であった。

それが判ったという。

モゴモゴと白米を咀嚼しながらの銀時の言葉に、土方は目を細めた。
朝食を摂りながらの報告を許可したのを後悔する。銀時の姿はどうにも真剣味に欠けていた。
食事しながらでなければこの男が真剣な顔をするかと言えば、それは別の話だが。

「確かか」

低めの声で念を押せば、銀時は箸を動かしながらひょいと頷く。

「お前が買い手の中で最有力だっつってたタコみてェな顔した天人の商人いるだろ?昨日、そいつの屋敷をもっかい調べに行ったんだわ。 そしたら、見たことねェ天人が宇宙船っぽいので乗り付けててな…交渉成立して、商品を運び込んだとこっつー雰囲気だったぜ」
「………」

取引が完了したのか。
土方は眉を寄せた。
それが本当なら、卵焼きを口に含みながら言う内容ではないだろう。美味そうに咀嚼しながら言われては、緊張感に欠けること甚だしい。

…しかし前から思ってたんだが、どうしてコイツら、卵焼きを出すとこんなに嬉しそうな顔をして食べるんだろう。
銀時の好みを考慮して甘めに作っているから…ではないはずだ。幸せそうな顔をするのは銀時だけではない。メガネの少年など、 涙を流さんばかりに喜んで食べている。
何だコイツら、卵焼きに何か思い出でもあんのか?…とここまで考えたところで、土方は我に返った。
銀時の緊張感の無さにつられている場合ではない。

「で?その男、撮って来たんだろうな」

咳払いをしてそう聞けば、銀時は、アァ、と今思い出したように懐からカメラを取り出した。
高機能のデジタルカメラ。土方が貸与している真選組の備品である。

「ばっちり。しっかしイイなーコレ。仕事終わったらコレくれねェ?」
「盗撮予備軍に高性能デジカメ渡すバカがいるか」
「ちょっ、お前何言ってんの?盗撮なんてするわけねェだろ!仮にもジャンプヒーローだよ俺は」
「そのジャンプ誌上で堂々と覗きして同心に職質受けてたヤツに言われても説得力ねェな」
「何で知ってんだお前ェェ!ストーカーか!ゴリラの影響ですかコノヤロー!」

予想外の事実を指摘されて思わず叫んでしまってから、子供らの冷たい視線に気付きヒクリと頬を引き攣らせる。

「…本当なんですか銀さん」
「最低アル。女の敵ね」

悔蔑の言葉を投げかけられて、銀時は慌てて手を振った。

「いや!いやいやいや、違ェよ?アレは覗きとかじゃなくて。俺が公園でまったりしてたら、偶々目の前の家の女がカーテン開けたまま 着替え始めたんだって。見たくて見たわけじゃねーんだってマジで。むしろ銀さん被害者だから」
「おいメガネ。そこのジャンプの束からナルトが表紙のヤツ持って来い。そうソレ」
「だから何で知ってんだテメェェェ!!お前マガジン派だろーが!つーかこんなことやってる場合じゃねェだろ話を元に戻せ!ほらコレェ!!」

銀時はデジカメを操って一つの画像を表示し、土方の前に突き出した。お前らも見ろと、昔のジャンプを開こうとしていた子供達を呼び 戻す。
子供らは顔を見合わせていたが、画像を覗き込んだ土方が険しい顔をしたのを見てテーブルに戻ってきた。

「…マジでか」

土方はデジカメの画面を見詰めて舌打ちを堪えるような表情をしている。
そこには二人の男が映っていた。件のタコ商人ともう一人、調査リストには載っていない、緑っぽい肌に奇妙に離れた目を持つ天人だ。

「心当たりがあんのか?」
「コイツ個人の顔は知らねェ。だが後ろの船のマークにゃ見覚えがある」

土方はピピッとデジカメを操作して画像を拡大し、一点を指差した。
緑肌の男の背後にある宇宙船らしき銀色の船。その表面にぺイントされている、社章のようなもの。

「所謂、闇商人の組織だ。全宇宙規模のな。表向きは生活雑貨から工場機器までっつって真っ当な品物を売り買いしてるが、裏じゃ武器やら 麻薬やら、物騒なモンも取り扱ってる。人身売買なんかもしてるらしい。ここに注文すりゃあ何でも手に入るっつーんで、金を持ってる連中 の間では評判らしいぜ」

ウチの幕府の上の方も結構お世話になってるって噂だ。土方は皮肉げにそう付け加え、忌々しそうに口を歪めた。
まさかここが関わっていたとは。これでは、いくら探してもウイルスが見つからないはずだ。
この組織の活動範囲は全宇宙。つまり拠点は地球にはない。昨日取引が成立したということは、つまりウイルスは昨日まで宇宙上にあった ということだ。真選組の捜査で見つけられるはずがなかった。

(…つーか、それよりも)

これだけの大きな組織が関わっているとすると、幕府上層部にはこの取引の情報はもう伝わっていると見て良い。
地球の脅威になりうるウイルスの闇取引。それなのに真選組に何のお達しもない。ということは、やはり…

暗黙に、お前らは関わるな。と言っているのだろう。
この件に人間の手は入れさせないつもりなのだ。幕府上層部の天人どもは、この取引を本気で阻止する気などないのかもしれない。
むしろ積極的にこの取引に絡んでいる可能性すらある。
密かに買い手として競合に加わっていた可能性が。
……厄介だ。

自らが所属する組織の放つ腐臭に、土方は今更ながら吐き気がした。

「ウイルスは、もうタコ商人の手に渡ったんだな?」
「会話を聞いた感じだと、そうみてェだな。実物はザッと屋敷を探ったぐらいじゃ見付からなかったけど」

土方の問いに銀時は頷いた。
最有力だと真選組が睨んだだけあって、競合で勝ったのだろう。
…幕府も、競合で負けたのだろうか。それともタコ商人と幕府が結託して落札したとか。
あり得る。
頭痛を堪えるように額に手を置いた土方に、銀時は、ただ、と付け加えた。

「ワクチンの方はまだ交渉中っつー感じだったぜ」
「…そうだろうな。ワクチンが欲しいってヤツは他にも山ほどいる。競合させて値段を吊り上げる気だろう」

タコ商人にとっては、ウイルスとワクチンを一手に収めるのが理想的だ。地球上の人類の生殺与奪を握り、多方面から金を巻き上げることが できるだろう。だがそれを面白く思わない者はいくらでもいる。
利益を独占させたくない他の天人商人ども。地球を自らの思い通りにしたい幕府上層部。ウイルスが蔓延した時に自分だけは助かりたいと いう人間の富豪……中には、本気で人類の未来を憂えている者もいるかもしれないが。
動機の悪意善意にかかわらず、ウイルスよりもワクチンの方が需要が大きい。売り手としては目一杯値段を吊り上げたいところだろう。
土方はぐっと眉を寄せた。

買い手がどんな大枚をはたかされようと、興味はない。
しかし。
今のこの状況は、非常にマズイ。

タコ商人には、おそらく、人類を死滅させようという気などない。地球に住む天人商人にとって、人間を滅ぼすなど金の卵を産む鶏を 絞め殺すようなものだからだ。幕府と結託しているとしたら尚の事。
だからウイルスの使い道は脅しの道具か、せいぜいちょっと流行らせてワクチンを高く売り捌くぐらいだろう、と土方は見ていた。

しかし今現在。地球上にウイルスだけがもたらされ、ワクチンはおそらくまだ宇宙上。
何か不測の事態が起こってウイルスが流出したら大変なことになる。
急速に広がる病によってワクチンの需要はよりいっそう高まり、値段は更に吊り上り、交渉は揉めに揉め。

一般市民の手にワクチンが渡る頃までに、どれほどの被害が出るか。

不吉な想像に悪寒が走った。

「こりゃ本気で、ぐずぐずしてられねェな」

さっさとウイルス押収しねェと。そういう土方に、銀時は皮肉っぽく口元を歪める。

「そうは言うけどな。お前の話じゃこの天人も闇商人も、幕府と繋がりがあんだろ?お前らに捜査許可が下りんのかよ」
「ああ、絶対下りねェな」

あっさりと土方は答えた。当たり前だろ、とでも言うような口調だ。
幕府にしてみれば、ウイルスとワクチンをその手に独占できれば願ったり叶ったりだろう。しかしそれは真選組の手で公に押収したのでは 意味がないのだ。幕府が押収したはずのウイルスが世に蔓延って大人しくしているほど、世間もバカではない。暴動でも起これば、幕府は 返って損害を被る。
ワクチンによる利益を堂々と手にするには、ウイルスの流出元は不明でなければならないのだ。
だから。
もし真選組に捜査許可が下りるとしたら、それは世間に知らせない極秘捜査で。
そしてその仕事が終わったら、真選組は口封じに粛清されるのではないか。
他人事のように淡々と説明する土方に新八は息をのんだが、銀時はさして興味なさげに鼻をほじっていた。

「じゃ、どうすんだ?」

銀時に怠そうな声で軽く聞かれた土方は、仕返しのように軽い声で素っ気無く答える。

「そうだな。何か他の『やむを得ない』事情で『不可抗力で』この屋敷に踏み込んで、ウイルスを『偶然』発見するぐらいしか手はねェな」
「…へェ。そんなラッキーな偶然が起こるのを待つのか。神頼みでもするか?」
「バカ言ってんじゃねェ」

からかうような言葉を発する銀時に、土方はニヤリと口角を上げた。

「偶然っつーのは狙って起こすもんだろ」
「オーイ、誰か国語辞書持ってきてくれ」

そう言いつつも、銀時の顔は面白そうに笑っていた。土方の台詞は予想の範囲内だったようだ。
新八は呆れて、この狡い大人二人を眺めた。神楽はさっきからホウホウと頷いているが、本当に判っているのかどうか。

「屋敷に踏み込んだところで偶然ウイルスを発見するためには、前もって保管場所を正確に知っておく必要がある」
「それもう偶然って言いませんよね」
「この屋敷内に怪しい場所は?」

新八の突っ込みは軽く流して、土方は銀時に問うた。
銀時は顔を顰めて首を横に振る。

「屋敷の中はざっと調べたけど、そんな怪しげな場所は無かったぜ。パッと見は単なる豪邸だな」
「ってことは、どこかに隠し部屋みてェのがあるか、屋敷とは別にアジトがあるか…やっかいだな」

捜査許可も無く屋敷に踏み込んで、結果何も見付かりませんでした、では「踏み込み損」では済まない。事によっては真選組が潰されかね ない。
土方は顎に手を当てて考えていたが、やがて眉間に皺を寄せて舌打ちをした。

「仕方ねェ。ウイルスの場所を押さえない限り話にならねェからな。とりあえず極秘捜査を続けるぞ」
「…捜査方法に変更はなしってことか?」
「ああ、また作戦が変わったら知らせる」

そう言って、土方は立ち上がった。山崎に連絡を付けに行くという。それを聞いて銀時も立ち上がり腰に木刀を落とした。
土方がこの家で寝泊りするようになってから、新八も神楽も、そして土方も一人では外出していなかった。敵に対する用心である。
銀時だけが一人で出歩いていたが、それは銀時に「自分一人なら何とでもなる」という自負があるからだ。他の人間を連れていては、 返ってその人を護らねばならない。
その点で言えば土方も腕に覚えがあるはずなのだが、着慣れぬ女物の着物で動きにくいことと、そもそも敵に狙われているに違いないという ことがあって、一人での外出は避けていた。
よって、土方が出かける時には必ず、銀時が付いて行くことになっていた。

「お前らしっかり戸締りしとけよ。お母さんよ〜って言われてもチョーク食べて声が綺麗になってても入れるなよ。それ狼だから」
「いや、僕ら山羊じゃないですからね」
「チョーク食べて声が良くなるってどういう原理アルか?」
「神楽ちゃん話を広げないで!収拾つかなくなっちゃうから!」
「いやでも俺も、その部分は昔から疑問でな…。だってチョークってお前、どう考えても逆に喉痛めるだろ。いや喉痛めるだけで済むかどうか …」
「オイ、さっさと行くぞ」

イライラと土方に促され、銀時はひょいと肩を竦めて玄関に向かった。

「お前もっとゆとりを持って生きなきゃ人生損するぞ?世の中何事もゆとりだよ」
「ゆとりを持ちすぎて腹も何もかもダブついてるヤツに言われても説得力ねェな」
「お前俺の腹なんか見たことねェだろーが!見たのか?いつ見たんだ?セクシャルハラスメントで訴えんぞコノヤロー!」
「人を覗き魔みたいに言うんじゃねェ!あんだけ甘ェモンばっか食ってりゃ歯と腹がどうなるかぐらい予想つくわ!」
「黄色いコレステロールの固まりばっか食ってるヤツに言われたくねーんだよ!!」

不毛な言い合いを続けながら、二人は玄関に近付くにつれて声を潜め、器用にも小声で怒鳴りあいつつ戸を開けた。
一歩出ると同時に銀時は右腕を差し出し、土方はそれに左手を絡めて寄り添う。

「昼には戻るからな」

そう言って振り返った二人の顔は、最早とても穏やかで幸せそうなものになっていて。
ピシャリと閉じた玄関を、新八は半ば唖然として眺めていた。

あの光景を見るのは初めてではないし、監視者の目をごまかすためだとも判っている。判ってはいるが…

「すごいアルな。本物のコイビト同士みたいアル」
「…だよね」
「どんどん本物っぽくなってくネ」
「……そうなんだよね…」

神楽の素直な感想に、新八は苦笑を浮かべつつ頷いた。
あの二人の演技は、最初よりも確実に板についてきている。
…そして、その演技が段々と、日常生活にも侵食してきている。新八はそんな気がしていた。
このまま行くと。
ふと浮かんだ考えを、新八は慌てて打ち消した。

「そのうち、本当のコイビトになるかもしれないアルな」
「…………」

せっかく自分が飲み込んだ考えをあっさり口に出されて、新八は黙りこくった。

神楽の台詞を否定できないこの状況が怖い。

しかし。


一番の困りものは、この予想に特に嫌悪感を感じていない自分自身だ。
新八はそう思って天井を仰ぎ、一つ溜息を吐いた。




------第六訓へ続く